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大人になれば 17『短編劇場・涙もろさ・泣かないことについて』

八月です。
知ってる。
知ってるってば。

八月三日はネオンホール短編劇場でした。
来てくださった皆さん、本当にありがとうございました。

ぼくが台本を書いたら夏海さんが演出してくださいというような会話をしたのが、たぶん三月。
それからいろんなことがあって、『ほしのかけら』という台本にたどりつき、ネオンホール夏海さんの演出を経て、丘ペンギン競技会の皆さんによって上演されました。

自分の書いたテキストがひとの手によって解釈されることの面白さや、演出や役者さんを通して世界が具現化されていく過程を近くで見れたのはとてもしあわせでした。

上演後の打ち上げで役者さんたちから「どうだったの!」と聞かれましたが、ぼくはふにゃふにゃした顔で笑うことしかできませんでした。
だって、舞台には『ほしのかけら』という手でさわれるような世界が確かにあって、ぼくはそれをみて胸を打たれたり笑ったりしていただけなんだもの。

緑さん、由美さん、二郎さん、哲郎さん、やすさん、夏海さん、あの時うまく言えなかったけれど、とってもよかったです。いつかまたチャレンジできたらと思います。

実は近ごろ涙もろくなって、舞台を観たら泣くのではないかと若干危惧していたのだけど、幸いそういうことはなかった。自分の台本でさすがにそれは避けたい。ぐっとはきていたけれど。

そういえば四十歳になったとたんに「朝が早く」なり「涙もろく」なった。これはおじいさん化しているのではないだろうか。ぼくだけなのか。世の中の四十歳女子も同じなのだろうか。そもそも四十歳は女子なのか。

大きな声では言えないが、劇団ひとり監督・大泉洋主演の『青天の霹靂』を観ているときに二度泣いたのは我ながら驚いた。わるい映画ではなかったけれど、コテコテといえばコテコテだ。
ストーリーも演出も「さあ、泣くとこココ!」と謳っているシーンでまんまと泣いた。前はもうちょっと心の防御力が高かったような気がするのだけど。

自分自身のことではここ二十年泣いた記憶がないが、コテコテの映画で泣くのは生物学的にどんな意味があるんだろう。
例えばこういうことだろうか。

一、大人になると感情が動いても泣かなくなる。
二、体としては泣いてほしい。(排泄欲)
三、でも泣かないもんね。
四、じゃあ、他人のことで泣け。このやろう。
五、まあ、おれのことじゃないし、そこまで言うなら。
六、泣く。

うーむ。そうなのか、かえるくん。

そもそも、なんで大人になると自分のことで泣かなくなるんだろう。小学生までのぼくは泣き虫そのものだったのに。ふだんは穏やかな祖父に「男なら泣くな!」と怒鳴られるくらいの泣き虫だったのに。

早朝の美しさや、コテコテの映画にすら涙を浮かばせるのになんで自分のことでは泣かないんだろう。ちょっと自分に聞いてみる。

ぼく コンコン(ノックする)
自分 どうぞ。
ぼく こんにちは。
自分 こんにちは。ひさしぶり。
ぼく うん。座っていい?
自分 もちろん。何か飲む?アイスコーヒーとか。
ぼく ううん。ありがとう。
自分 今年もあついね。
ぼく あついねー。さっきプールの匂いがしたよ。
自分 ああ、あれは毎年不思議に思うなあ。
ぼく プールなんてないのにな。
自分 秘密はアスファルトにあるとにらんでいるよ。
ぼく ああ、ぼくも。
自分 プールもアスファルトなのかなあ。
ぼく …あのさ、いきなりだけど何で泣かないの?
自分 え?
ぼく なんか最近ぜんぜん泣かなくなったなーって思って。
自分 泣いてるじゃん。まさかの青天の霹靂で泣いたじゃん。
ぼく いや、自分のことでさ。
自分 あー。うん。そういえば泣いてないね。
ぼく うん。
自分 いつ以来かな。
ぼく もう覚えてないよ。
自分 おばあちゃんのときだって泣いてないよな。
ぼく うん。でも、なんでだろう?映画では泣くのに。
自分 うーん。なにかと交換したとか?
ぼく なにそれ。
自分 今の自分とか、朝早く起きることとか。
ぼく べつに交換してなんて言ってないよ。
自分 そうだよなあ。

わかりませんでした。二人ともわかってないんだから当たり前だ。でも、なんでなんだろう?
いつか分かったら、台本に書いてみたいと思います。

執筆:2014年8月8日

『大人になれば』について

このコラムは長野市ライブハウス『ネオンホール』のWebサイトで連載された『大人になれば』を再掲載しています。






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