大人になれば 42『カナリア・ゆらゆら・白い絵』

朝と夜がずいぶん涼しくなりました。
田圃の稲穂もだいぶ色づいて。
それでも昼は夏の名残のように雲が湧いて太陽が照りつけて。
一日の中で天秤のように夏と秋が揺れ動いている。
もしくは夏と秋という分け方がそもそも存在しないように。
混沌としている。世界がどっちつかずのように。

世界はどっちつかずなのかもしれない。

ネオンホールプロデュース公演第四弾『カナリア』を観たのです。夏の終わりに。

観終わってからいろんな人の感想を目にしたり耳にしました。ツイッターやブログや会話で。

すごく悲しい芝居だったという人もいたし、認識論と思って観てたという人もいたし、無数の解釈ができる劇だったという人もいたし、日常で起こっている当たり前の事象がギュッと詰まっていたお芝居という人もいたし、誰の夢なのかも分からない中で仮の役割を演じて夢から出るのさえ嫌がる男がホラーだったとツイートしてる人もいた。

長野市近辺で演劇を観終わって、「面白かった」とか「よく分かんないけど面白かった」といった感想は目にするけれど、こんな風にいろんな人が感想を超えて解釈を伝えようとするのは珍しいんじゃないだろうか。ぼくはちょっとびっくりした。
きっとそういう劇だったのだろう。

舞台には自転車のホイールがいくつか浮かんでいた。
壁から壁に細い線が張られ、ホイールを通って、向こうの壁へ。
点が連続して線になり、拡張する線が一つの円を描いて、また集約して点になる。点と線。集約と拡張。そんな舞台美術。

何もない男。
その上、名前を奪われる男。
いよいよ空っぽな白い男。
与えられる常識と想像力。
そして登場する青い女、赤い老婆、黒い子供。

価値観についての会話。
夢についての会話。
家族のような会話。
恋人の始まりのような会話。
人生を慈しむような会話。

白い男は常識を頼りに自分の位置を確かめ確かめ会話する。
青い女と。赤い老婆と。黒い子供と。二人と。三人と。四人と。

白い男は一貫して揺らいでいる。反転した異物として。
いや、空っぽなりにがんばっているのだ。手持ちの常識から言葉を引き出して。でも、すぐ揺らいでしまう。それは自分の物語ではないから。

青い女や赤い老婆、黒い子供の自分なりの言葉に白い男は翻弄され、戸惑い、足掻く。白い男はゆらゆらする。
四人それぞれの常識と役割と生き方が絡んで結んで拗れて。
成立したり、成立しなかったり。成立したと思ったら、また揺らいだり。家族になったり他人になったり。点になったり線になったり。

シーンが変わり、四人は家族のように振る舞う。白い男は居場所を見つけたように思える。そこでの彼は穏やかだ。
でも、最後は家族であることも幻想として突き放される。「出て行ってよ」と。
白い男は叫ぶ。「夢だったとしても…夢だったとしても、家族みたいだったじゃないか」「この片隅でもいいから、頼む!私もここにいさせてくれ」

すごく悲しい。ホラーみたいに怖い。
ぼくは「うんうん」と思う。
認識論みたいだ。無数の解釈ができる。日常が詰まっている。
ぼくは納得する。たしかに。

ぼくはどうだったか。
『カナリア』を観終わって、なんて言えばいいのだろう。
楽しかったのだ。

不条理劇かといえば、不条理ではある。
行われていることも交わされる言葉も。
異物としての白い男は最後まで変わらない。
でも、その不条理さが観る者を、ぼくを揺さぶるためにあるわけではない。ぼくを異相に連れていくためのものではない。

なんというか、そのものなのだ。
世界がそうであるかのように。
一日の中で夏と秋が揺れ動いているように。

ぼくが誰かと喋る。たとえばまだよく知らない人と。言ってることがわからない。価値観がぜんぜん合わない。たまに、この人、ちょっとおかしいんじゃないかと思う。自分がいかに社会的に偉くて肩書を持っているかなんて延々聞かされても知らないよそんなの、と思う。

ぼくは自分に自信がない。夢なんて語れたことがない。でも、目標をもってがんばっている人は知っている。挑戦し続けている人も知っている。ぼくはたまにしょんぼりする。自分は欠陥している人間なんじゃないだろうかと。

ぼくは人と関係が保てない。四人以上あつまる飲み会やパーティーは基本的に近づかない。どうしても出席しなければならないパーティーでのぼくはまるで透明人間だ。そのときのぼくは何者でもない。「役割」がないぼくは空っぽで、真っ白な男だ。

それはすごく悲しいことかもしれないし、ホラーだったりする。
いったいぼくは何者なのだろうと思ったり、世界にはどんな意味があるのだろうと思ったりする。そもそも意味なんてあるのかと。

でも、明日になればぼくはまた誰かと会うし、飲み会には近づかないし、空っぽの自分を突きつけられるし、たまに混乱するし、人に戸惑ったりする。そしてまた、こうして何かしらの文章を書いたりしている。

それはぼくにとって世界のありようなのだ。
そこに不条理さがあるとしたら、ぼくにとって世界は不条理なものであり、非意味性があるとしたら非意味なものなのだ。ぼくの朝はそこから始まる。悲観や肯定ではなく。前提として。

『カナリア』を観ながら、ぼくは一枚の絵を見ているような気がしていた。もしくは一枚の写真を。

それは然るべき額縁に収まって、然るべき部屋に飾られている。ぼくはその部屋に絵を見に来たのだ。
絵の持ち主は部屋をちょっときれいにしてくれている。
床を掃いて、棚を拭いて、窓を開けて、空気を入れ替えて。
気持ちのいい部屋だ。
余計なものがなくて、広くはないけど狭さも感じない。
家具や本や帽子やギターや壁の写真やポスターが心地よいリズムを奏でている。楽しい。
「マッチ」や「夢」とだけ書かれた紙が壁に貼られていて、何だか不思議な気持ちにもなる。何だこれはと。

窓からの風を感じながら額縁に入った絵を眺める。
真っ白な絵。
もしかしたら、真っ白な写真かもしれない。
額縁の下には小さく『世界』とだけタイトルが入っていて。

ぼくは部屋を見渡す。
家具や写真が心地よいリズムを奏でている。
「マッチ」や「夢」とだけ書かれた紙が壁に貼られている。
真っ白な絵に視線を戻す。
少し離れたり、ちょっと近づいたりする。
ぼくはいろんなことを考える。
何でもないことや自分のことや先週会った人のことやひっそりとした絶望や悲しみや役割や分割や統合や接近や乖離を。

ぼくは楽しかったのだ。
招かれた部屋で、心地よいリズムの中で、不思議な記号化の中で、一枚の絵を見ることが。その描かれ方が。悲観でも肯定でもない世界が。

20150906

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