「正しさ」より「面白さ」。が好きです。

何が正しいか/間違っているか、そのとき自分はどう思ったかという自分語りにほとんど興味がない。

それより、「何を面白いと思うのか」にとても興味がある。

「自分の外にあるもの」への興味関心と、面白さへのattitudeの方がよっぽど多くのことを語ってくれる。と思う派です。

でもこれってたぶん少数派。

何でかな…と思うに、小学校時代にやらされる作文が良くないのでは…と思い当たった。あれはほとんどが主語を自分に置く。

でも、本当は皆そんなに「あなた」に興味がないのだ。あなた自身ですら。でも、そうやって書かされる。タスクを振られる。そして、言葉の残骸が生まれる。悲しい。

宮崎駿が「個性を大事にって教育でいうけど、個性なんてそんな簡単に手に入るものじゃないですからね!」とよく怒っているけれど、ぼくもそう思う。

ありもしないものを、さもあるように振る舞う姿勢で面白いものなんて生まれる訳がない。そもそも、タスクを出す側が「面白いもの」を信じてないのだ。ありもしないものを書かせるから、皆悲しいタスク体験しか残らない。

小学校時代から、自分の外のことを書く訓練をすればいいのに。と思う。自分の外には面白いことが山のようにある。たとえ自分が面白くなくても、よいオーディエンスにはなれるかもしれない。

主語を自分の外に置いて初めて世界と繋がれるし、自由に、上手くいけば豊かになれる。その結果、自分の欠片の一つでも浮かび上がったらボロ儲けと思う派です。

インターネットの登場で、皆が誹謗中傷し、それぞれの正しさで争うようになった。とはよく言われるけれど、すごく人間っぽい現象だよねという気分。

その文脈は重要だけど、あまり興味がない。その主語は「人の本質」であって、主題がネットではないと感じる。

「人の本質」を語るときにネットが無視できない存在になってきた、という文脈であればその通りだと思う。ネットというツールがぼくたちの変わらない性質を可視化している。よね。それで困ったことも起きちゃう。確かに。仕組みで何とかした方がいいよね。という感じ。

人は「正しいこと」に吸い寄せられてしまう。蛍光灯に引き付けられる蛾のように。走光性なのだ。正しいから引かれるのではなく、正しいように見えるから引かれるのだ。太陽でも、蛍光灯でも吸い寄せられる蛾とそんなに変わらない。それは性だ。だから、「正しさの精度」はそんなに意味がない。でも、それを言っても仕方がない。十字軍遠征だって自分たちの正しさを持っていた。

「正しさ」は別に正しい行為と正しい結果に繋がっていない。ただのきっかけであり、「正しさ」をきっかけとした別の何か、それとは別の行為と結果が生まれるだけだ。と思っている。

人ってそれくらい厄介で面倒くさい。でも、仕方がない。ぼくたちはずーっとそうやってきたし、これからもそうやっていくんだろう。

だから、インターネットを主語にして語るときは、「何を面白いと思うのか」について、皆が気軽に、時間や距離や規模に制限されず、キャッキャッできるようになったのって最高だよね。
というお気楽ポジティブ路線に偏りたい派。

「正しさ」より「面白さ」。
が好きです。

蛇足

だから、ぼくはタモリ倶楽部に登場するクレイジーな偏愛者たち(黙々と架空地図を作り続けたり、船の接岸動画を撮り続けたり、自分の登山行程を撮り続けたりする人々)が大好きです。


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