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「意図」は支配/被支配の文脈で語られる。

「そんな意図はなかった」という弁が釈明や謝罪時によく使われるが、何の意味もない。

「これを言ったらどう伝わるか?」から考えるのがコミュニケーションであり、そんな意図がなかったは「俺の気持ちを慮れよ。分かれよ」に近い。それは「先回りの服従」を暗黙的に要求している。

以前、たらればさんのツイートにぼくはとてもハッとした。

「人格」とか「性格」というのは、その人について周囲および自分自身から観察した振る舞いの公約数なわけだから、判定を一番左右するのは(出力の最大多数を占める)「言葉遣い」だと思うし、そのことをわたしたちは驚くほど忘れっぽい。

ぼくたちの関係性は一方通行じゃない。
コミュニケーションはAとBの着地点を互いに見い出すことだ。AにBが重なることでも、Aの意図をBが100%汲むことでもない。
ぼくたちは不完全でわかりあえない者同士で、それでも関係性を紡いでいく。言葉と態度と行動で。

一方、「意図」は支配/被支配の文脈で語られる。「そんな意図じゃなかった」なんていう人がいたら黙して離れた方がいい。少なくともぼくは近寄らない。

「伝える」じゃなくて、「伝わる」ためにどんな言葉で、どんな態度で、どんな行動をするかが大切で。それでも100%なんてとても伝わらない。でも、そこから始めるしかない。

「そんな意図はなかった」じゃない。
「そう伝わった」のだ。

「伝えた側」が価値を決めるんじゃない。
「伝わった側」が判断するんだ。

「伝える」じゃなくて、「伝わる」ためにどんな言葉で、どんな態度で、どんな行動をするかが大切で。それでも100%なんてとても伝わらない。でも、そこから始めるしかない。

「伝わる」はとても難しい。だから価値がある。
「伝わる」をなめてはいけない。怒るよ。


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