落語本についてのあれこれ

十年ほど前に地方の月刊誌の片隅で、毎月落語本を一冊紹介するという完全趣味の超ミニコラムの連載をしていました。ぼくは毎回楽しんで書いていたけれど、果たして読んでいる人はいたのかしら。

『師匠噺』浜美幸

久しぶりに本を読んで涙を流した。
古今亭志ん朝と志ん五、立川談志と志の輔、春風亭柳昇と昇太…。
噺ではなく、師弟という切り口で、十二人それぞれの弟子が師匠について物語る一冊。
それはまた己について語ることでもあり、現在の落語論としても斬新な内容になっていると思う。
それにしても、笑福亭松鶴と鶴瓶の章はすごい。
「泣けます」といった本紹介は大嫌いなタチだが、泣いた。
久しぶりに本を読んで涙を流した。
病に倒れた松鶴が残したカレーを、弟子である鶴瓶が食べるシーン。
なんてことない内容である。
だが、ここで生まれる師と弟子のこころの交流は涙なしには読めない。
おそらく敢えて軽く書かれている筆致が、その交流を十全に伝えている。
美しくも軽やかなリズムだ。
浜美幸、何ものぞ。

『世の中ついでに生きてたい』古今亭志ん朝

落語を好きでよかった。
それくらい面白かった古今亭志ん朝の対談集。
なにせ対談の相手が金原亭馬生、池波正太郎、結城昌治、山藤章二、江國滋など錚々たるメンバーで落語ファンなら涎がとまりません。
中でも兄・馬生との対談では噺家兄弟それぞれが持つ志ん生への愛憎が読み取れて実に面白い。父・志ん生からの脱却を生涯のテーマとした馬生の落語をもっと聴いてみたいと思う。
また、結城昌治に志ん朝が語る志ん生と文楽の比較論も秀逸。
二大名人の比較論がそのまま志ん朝自身の自己分析へ繋がっていて、志ん朝とは正に江戸から続く近代落語史の集大成的な存在だったのだなとしみじみ納得。
ああ、今夜は志ん朝を聴いて寝よう。

『志ん生讃江』矢野誠一

一九五三年の徳川夢声に始まり、二〇〇五年の平岡正明に至る志ん生への評、対談、小文を矢野誠一が編んだ一冊。
安藤鶴夫、江國滋、山口瞳、山田洋次、大西信行、色川武大、興津要、山本夏彦ほか総勢二十七名による志ん生への思い。
彼らは皆、一様に志ん生を愛している。
僕は波のように押し寄せる彼らのラブレターを読みながら、編者である矢野誠一の視線をじわじわと実感する。
「こんなにんげんはもう出ない」と思いつつ、それでも志ん生という存在があったことを何とかして形に残したいという編者の思い。
それは愛だ。
まぎれもなく。
編書という形式をとった矢野誠一の愛の形なのだ。
年に一度、このような尊敬の念を抱ける本と出会う。

『志ん生一代』結城昌治

天衣無縫、融通無碍、自由闊達。
これら四字熟語は志ん生にこそ相応しい。
だが、そんな志ん生が売れだしたのは五十歳近くからであって、四十歳過ぎまでは無名の噺家だった。
この不世出の天才落語家が、厄年手前までは家賃も払えない貧乏神で、醤油の量売りや保険の勧誘を試していたことに驚く。
いいかげんでぞろっぺいな志ん生が保険の勧誘なんて無理に決まっているのだ。
そんな志ん生も、落語にだけは生涯通して真摯に向き合ったことがこの本からはひしひしと伝わってくる。
借金から逃げ回ったり、寄席から離れてどん底生活を送ったりと、うまくいかない日々がほとんどの生涯だが、読後感は瑞々しい青春小説を読んだときのようだ。
ただ、藝の追求を一心に駆け抜けた志ん生の、鮮やかな軌跡がそこにはあるからだろう。

『志ん生の右手—落語は物語を捨てられるか』矢野誠一

志ん生と文楽の秀逸な比較論。
落語の第一人者である著者の随筆集。
昭和四十年代から平成までさまざまな雑誌、新聞に書いた随筆が丁寧にまとめられている。
なかでも、随筆「藝一筋に生きる道」は志ん生と文楽の比較論として思わず膝を打つほどの出来映え。
精巧無比な藝であった文楽を楷書に、天衣無縫であった志ん生を草書に例えた後、高座で絶句した文楽は落語から一切の手を引き、老いで高座に上がれなくなった志ん生は死ぬまで稽古を続けたという対比を鮮やかに描く。
読後、立ち並ぶふたつの高峰が胸に浮かぶ。
藝は生き様であった時代を一心に生きた両名人の高嶺が読み手の胸に表れるのだろう。

『今夜も落語で眠りたい』中野翠

僕の落語初体験は市立図書館だった。
まったく知識のないままテープを借りまくって、なんて面白いんだと思ったのが志ん生と文楽。
昭和の大名人にぐいぐいと手を引かれるまま、どんどん落語が好きになっていった。
「寄席にはなかなか行けないけれど、CDでなら毎日聴いてる」
そういう落語ファンはきっと多いはずで(僕もそうだ)、著者である中野翠は正に「そういう落語ファン」だ。
落語は寄席に限るという定説に頷きながらも、家で楽しむ落語もまた骨まで愛している。特に、落語に開眼してから毎日のようにテープを買い漁る姿といい、落語を聴きながら眠る日々といい、その感覚には全く同感。
落語に対する彼女の素直な愛し方が、読んでいてとても心地いい。
ああ、帰り道の車は落語を聴こう。

『六の宮の姫君』北村薫

主人公である大学生の「私」が、探偵役である噺家・春桜亭円紫と日常の謎を解き明かす人気シリーズ。
人が死なない推理小説として有名でもあります。
今回の謎は、芥川龍之介はなぜ、短編 『六の宮の姫君』を書かずにいられなかったのか?

「あれは玉突きだね。...いや、というよりはキャッチボールだ」という芥川のセリフを発端に始まる主人公の文学的探索は、まさに思索と発見の繰り返し。

盟友・菊池寛との関係や『今昔物語』、『沙石集』との結びつきなど、ひとつの短編の背景には思いもよらなかった世界が広がっていました。
本編中、「何ごとかを追求するのは、人である証に違いない」とありますが、正に。
面白いのはもとより、本を読むことが何より好きな僕にとって「本という海」の深さに目が眩む思いがした一冊です。
この秋、何を読もうかな...と思っている人、そしてちょっと文学好きな人はぜひぜひおすすめです。

『夜の蝉』北村薫

それにしても本格物と落語は相性がいい。
ホームズ役として登場する噺家の春桜亭円紫と、ワトソン役の女子大生。
この二人が解決するのは殺人事件などではなく、日常で起こる不可解な謎。

「なぜ本屋の本がいくつも逆さになっているのか? 」
「なぜチェスの駒が冷蔵庫に隠されたのか? 」

どの謎においても必ず落語のネタが土台になった上で、人間の闇や情愛が鍵として描かれているので、読後感がしみじみと味わい深いです。

さて、「八万三千八三六九三三四七一八ニ四五十三ニ四六百四億四六」が読めますか?

こんな数字ばかりですが、短歌です。
真ん中の一八ニは「ひとつやに(一つ家に)」と読むのがヒント。
答えはこの本の百五十ページ。
日本文化って本当に面白いと唸ってしまいます。

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