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大人になれば 19『人生の転機・伊丹十三・走りながら眠れ』

秋です。
たぶん。

夏の終わりからすごーく眠い。
どちらかというと不眠症的だったのに、眠くて眠くて頭の電源が落ちたようになる。沼の底から足を引っ張られるような眠さでちょっと怖い。
いったいこれは何なんだろうと思っていたら、友人が「眠いときは人生の転機」とツイートしていてすぐに採用。

しかし、これは便利な言葉だぞ。
ちょっとズボンがきつくなっても人生の転機だし、パスタをゆで過ぎた日曜日だって人生の転機だ。
何の転機か知らないけれど。

ぼくの人生の転機はいつだったんだろう?

たぶん、あれとあれとあれだ。あとあれも。
うそです。
そんなにあるわけないじゃん。

本気で振り返ってみたけど特にない。
基本、のほほんと生きてます。

人生の転機はないけれど(たぶん)、なぜか子どもの頃に読んだ本の一節がその後の人生にずーっと残っているということがたまにある。

例えば灰谷健次郎『太陽の子』で出てきた「本は買って読め。家は借りて住め」というフレーズ。
なぜかは知らないけれど、「そういうもんだ」とぼくの中で息づいて、もはや数少ない人生の方針のようなものにまでなった。たまに友人に「家建てないの?」と尋ねられたときにも便利だ。

例えば伊丹十三『再び女たちよ!』での「女の体の骨は、男の骨にくらべると、短い割に太く、肋骨や歯列などの彎曲の度合いも、男にくらべて強いのです」という一文。そして、この文に「これは詩だ!」という伊丹十三。
それきりぼくは中学生のときから、女性は短くて小さなカーブをその身に持っていると思うようになった。そして、詩とはどこにでもあって、詩とは視点なのだと思うようになった。

伊丹十三には本当にいろんなことを教わった。

例えば人生の恋は三回で終了するという説でのこんな文体。
「夜の道を行き交うヘッド・ライトや、街の灯すら、なんとはなしにうるんで見えたりしやがって、おれはもう知らんぞ。おれはもう三回済んじゃったから、断然ふてくされるぞ。勝手に街の灯なんかうるめ、お前たち!」

例えば薯焼酎のうまさでの踊るような口調。
「……プフワァーッ いいですねえ、どうも。ツルっと飲めてしまうんだから。こりゃどうにも結構なんだな」

中学生のぼくはなんて旨そうな飲み物なんだと思い焦がれ、大人になった今でも薯焼酎を飲むときは胸の中で「……プフワァーッ いいですねえ、どうも。ツルっと飲めてしまうんだから」と口ずさんでいる。




なんでここで行間が空いたかというと、「さて、続きは何を書こうかな」と散歩をしてきたからです。真夜中だけど。鈴虫たちの大合唱の中、秋の雲に浮かぶ満月がきれいでした。

最近は散歩をしながらいろいろなことを考える。というか、考えごとをしたいときは散歩をするようになった。休日は何回もする。すぐ帰ってきたり、一時間近く歩いたり。
でも、冬になったらどうすればいいんだ、かえるくん。

散歩して分かったことは、どうもぼくは小さな頃から「大人たちが面白がっていること」を面白がっていたみたいだ。よく分からないけれど覗いてると何だかわくわくするような。

そういえば、先日借りた平田オリザのDVD『走りながら眠れ』も大人の世界を垣間見ているようで面白かった。
いや、正確に言うとめちゃくちゃ面白かった。もちろん大杉栄の話だから最後には死の予感が漂うのだけど、それでも。

全編ただよう可笑しみは良くできたコメディのおかしみと何ら変わらないくらいで。ぼくは絶えずクスクスしていた。最初から終わりまで。

いい大人が(たとえ当時を代表するアナキストでも)好きな人と二人でいるときの、普通の、どうでもいい、他愛もない、心を許せるやり取りがそこにはあって。
ただそれだけが静かに、賑やかに、他愛もなく続く。二人だけが分かる言葉で。まるで同じ毎日が明日も約束されているかのように。

そして、それはとても身に覚えがあって。ぼくはクスクスしながら、もしかしたら「身に覚えがあること」を積み重ねることが大人になるってことなのかもしれないなと思った。他人を理解するということは結局はそういうことなんじゃないだろうかと。
ぼくは登場人物の二人がとても愛おしかった。そこで過ごされる毎日が。とても。

執筆:2014年9月11日

『大人になれば』について

このコラムは長野市ライブハウス『ネオンホール』のWebサイトで連載された『大人になれば』を再掲載しています。


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