見出し画像

15年後のチャンス 前編

人生は頑張っても報われない。
私は、そう思って生きてきました。
受験戦争の時には、いつもイジメがあり、集中して努力が出来なかった。
仕事で一生懸命に頑張ったけど、ADHDと診断されて解雇された。憧れていた姿からは程遠い…生きていても仕方ない。そう思っていた。

だけど、人生は分からない。
そうとも思っていました。全ては過程だったのかもしれません。そんな話を書いていきます。

【学生時代とイジメ、そして憧れ】

学生時代に私は、よくイジメをうけていました。
今思えば発達障害の影響もあったと思います。
筆箱がない時は大体ゴミ箱の中でしたし、胴上げで3メートル近くから落とされて、物理の授業が命の授業になることもありました。いわゆるイジメアンケートも、私のために10回近く行われた事もあった。
そういった中での15年前の高校受験は上手くいくはずもなく、目指していた名門国立大学とは違う、不本意な私立大学への入学となり、大変に落胆しました。

そんな大学生活のある日の飲み会で
「お前アタマ良いからコンサルに向いてるんじゃね?笑」と冗談で言われた事がありました。
「またまた」と私は返事をしました。
ただ、国立大学でキラキラしている高校時代の同級生を見て嫉妬していた事もあり、彼らが目標とするであろうコンサルタントと同じ舞台に俺が立てるのかも、そう思いました。

私は、ある本を買いました。
それが「考える技術 書く技術」でした。
ピラミッドプリンシパルという論理的思考の古典であり、大手コンサルタント会社でも推奨されるコンサルタントの古典です。

買った時は希望に満ちていましたが、現実は甘くなく、大学卒業後、中小企業の訪問販売会社で働く事になりました。

【社会人生活と発達障害、そして解雇】

訪問販売から始まった私の社会人生活は、紆余曲折あり、本社で責任者候補と呼ばれるほど成績を上げる事が出来ました。
営業に関する本は約20冊読破して、1000件近くの商談をレポートに書き出し、営業トークも100時間以上掛けて練り上げました。
国立大学に行った彼らへの嫉妬と俺はこんなものじゃないという思いで、とにかく必死でした。
そういった中で、自分ならもっと出来るという思いを私は持つようになります。
当時は地元で働いていましたが、同級生達が都心部でキラキラ働いている姿を見ていたのもあり、東京で働こうと思うようになりました。

零細企業の転職エージェントとして東京で働きはじめた私は、休みの日に営業したり、寝る間も惜しんで努力をするようになりました。
これは、憧れを目指して懸命になったから…ではなく、パワハラがあったからです。

採用した上司が「分かってんの?」と椅子をガンガン蹴る。「大学卒業したんだよね?」「君には思い遣りがあるの?」と1時間近く人格否定をする。そんな毎日でした。
何としてでも成績を上げたいと1年経たずで300万以上の成績を上げましたが、零細企業で経営が厳しい事もあり、パワハラは続きました。

「君には障害があるんじゃないの?」
ある日上司がこう言ってきました。
「君の為に病院へ行った方がいい」
私は、その言葉を信じてしまった。
ADHDという診断を受けたと回答したら
「辛かったね、ごめんね」と言ってきました。
その翌日に、補助金申請の書類を上司が手に持っていたのを覚えています。
申請が通らなかったタイミングで、経営状況と発達障害を理由に私は退職を頼まれ、解雇になりました。

【絶望と再起、そして休職】

解雇された私は正直生きる事をやめようと考えました。地元では噂になり、後ろ指を刺されて、もう自分には何も出来ないと思っていました。
だけど不思議なもので、親友の先輩が察して毎日電話をしてきました。家庭も仕事もある中、1時間も2時間も電話してくれた。
「お前はこれからだよ、まだ分からないよ」と言ってくれました。

私はドアノブを見つめて考えました。
このドアノブに紐を取り付けて首を括る。
それは簡単な事かもしれない。でも、まだ分からないかもしれない。それを知る為には、この先を生きていくしかない。
私は再起を図ると決心しました。

私はADHDである事、解雇された事を包み隠さず話した上で、とあるIT企業へ入社しました。
当時は27歳、隣には22歳の新卒
彼らと同じ立場で夜間勤務からの再スタート。

私は、IT業務なのに人差し指でキーボードで打っていたのを、歳下の彼らにバカにされました。
それから私は2、3ヶ月、休みの日も含めて毎日タイピングの練習をしました。
「まだやってるよ…」と陰で言われました。
そこからバカにされる事は無くなりました。

休みの日はiPhoneのボイスメモで何度もリピートして電話業務を練習する。迷惑がられるほど業務中は先輩社員に質問をしました。
残業がつかない形で業務を覚えようと、会社に30分早くきて、30分遅く帰っていましたが、流石に止められました。
また、この頃から発達障害の特性に対処しようと、ヨガや瞑想を行うようになり、ノンカフェイン飲料、乳酸菌を摂るようになりました。

「なぜそこまで頑張るのですか?」
リーダーとの面談時にそう言われた事もあります。全ては再起を掛けていたからだと思います。

そんな中でプロジェクトマネジメント業務の話が私に舞い込んできました。数千万、1億案件のプロジェクトを担当する話でした。これはチャンスだと私は感じました。プロジェクトマネジメントの本や動画を数十時間も見て勉強しました。

でも実態が酷かった。すでにスタートが4ヶ月遅れている大炎上案件だった。私はプロジェクトの火消しに奔走しました。当時、一緒に働いていたビジネスパートナーの口癖は
「やらないといけないのは分かります。でも、もう気力が無いです」でした。
酷い時は小さいものも含めて6案件も並行して進める時もあり、火消しの目処が立った時には、私が燃え尽きていました。
医者から1ヶ月の休職の診断を受けました。

【後編に続きます】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?