刹那

わたし達は「今」を生きている。にも関わらず、先行きが不安で不安で仕方ない。だからこそ、寂しいという感情が顕著に現れるのではないか。しかし、最近のわたしは、寂しいという感情を忘れてしまった。

寂しい、って、なんだっけ?

でも、きっとわたしの体は「それ」を覚えている。これを良く捉えるか、悪く捉えるか。そこでその人の人生が、好転するか、それとも転がってゆくのかが決まってしまうのだ。

大体、人生なんてものは選択の連続。それに合わせてばかりいては、自分の人生などあってないようなものとなる。だから、わたしは「わがままに生きてみよう」と、毎回そう伝える。

病み垢、メンヘラ。そういった人達は、何についても受動的。仕方ないよね、支配されて命令されて「教育(という名の洗脳)」されてきたのだから。自分を押し殺し、周りに合わせるように訓練を強いられてきたのだから。実に惨い事だと思う。

選択、というのは本来「自分に有利なもの」を選ぶ権利を与えられた場で、その選択は自由なはず。けれども、その選択権が無いとしたら?その選択権は他人が支配する事になる。要は「他人の人生の補助を強制されている状態」となるわけだ。

そう考えるとわたしはきっと「誰の人生を歩いていたんだっけ」と。わたしの家族も機能不全のようなもので、わたしはわたしの人生を歩めていない時期が長くあった。

しかし、今は違う。わたしはそういった時期はもう過ぎたのだと解釈している。そのような意味では、三つ目の自立の途中なのだろうか?わたしにはわからない。

わからない?違うよね。
何処にも正解など無いんだよ。人生は。
その「正解」というのは、自分で決める事。
自分の人生だもの。任せっきりだなんてつまらないでしょう。

わたしはわたしだし、あなたはあなた。
皆それぞれ、最終的には死というところに辿り着くけれど、道は全員バラバラで、それぞれの幸福の定義もある。それは他人に決めさせる事などできる訳が無い「自分だけの領域」だ。
病み垢・メンヘラは、そこにまず気付くべき。しかし、必要以上に優しさ(もしくは恐怖感や不安感)を持つ人は、そこに気付いたとしても、選択権を他人に預ける、つまり「自分の幸せを他人に決めさせる」という癖がある。

「普通ってなんだろう?」と、よく呟く人がいるが、それもまた自分で決めるべきもので、その物差しも自分のものだというのに、他人に任せてはその「普通」と自分との差に悩むのだ。それ、ちょっと違くない?

考えれば簡単に答えは出るはず。

あなたの心臓は、誰の胸で脈打つ?
あなたの人生は、誰を主役とする?
あなたは、誰?

誰の為、生きているのだろう。

自分の為、だよ。
みんな、そう。

アルコールを飲みながら、改めて「自分」を意識した。

何十年も悩んだ、その答え。
わたしは、こうです。

だから、今を生きるのだ。

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