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弔われる権利
弔われる権利
(私自身のプライバシーも守るために、脚色と省略を重ねた結果、異様な文になってしまった)
今年の春、恩師が亡くなった
私が激重抑うつ状態の時に出会い、仕事は出来ないが引きこもりにもなりたくなかったので、平日昼間の先生の読書会に参加させてもらった。
お蔭で参加している先生以外の人(高齢者だが)とも交流ができた。
私にとって葬儀は1年ぶりで、親族さん方より泣いてたので、周りが抑えて慰めてくれた(多分愛人とか隠し子と勘違いされないため)
いや、マジでずっと泣いてた…
一か月以上、ふと先生を思い出していきなり家の中で泣き出すとかあった。
「期待してるよ」と何を私に期待してるのか分からないがともかく、いつもそう言って励ましてくれた。
目から汗が…
あれから4か月… 私は葬儀に4回参列した。
そう、私は30手前にしてはありえない頻度で喪服を着ている。
他の方にももちろん思い出があるが、今回はこの後書く人たちと恩師だけにしておく。
マジで一人ずつ思い出したら眠れなくなる。
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生活保護には主に8種類の扶助があることを知っているだろうか
生活、教育、住宅、出産、生業、医療、介護
そして、「葬祭扶助」である。
今回これを書くきっかけとなったのが、実は亡くなった後に、受給者だったと知った方だった。
近所のお一人暮らしのおばあさんだった。穏やかな方だったが、ちょっと怒ると、怒り方というより、メンタルを抉る系の発言を悪意無くされるので適度に距離を取っていた。
少し入院されるのかな、と思ったら
本当にすぐ亡くなってしまった。
正直こんなにすぐ人が亡くなるとは知らなくて(全員高齢者ではあるが)
こちとら
「ちっちゃな時から死にたくて、小3で自殺を考えた」(某子守歌の替え歌)
でして、未遂したことないけど、全然死ねないと言われてたので、驚いた。諸行無常ってこれか…と思った
だが、葬儀のたびにその方のストーリーが話されるわけだが、本当に皆さん艱難辛苦を乗り越えてその時が来るまで生きられていたんだと、そのたびに気づかされた。
そりゃ私、「若いから大丈夫」って言われるわけだ。
日本の将来はかなり怪しいが…
話が逸れた。
それで、遠縁の親族の方のお蔭で、私はその方とお別れができたようだ。
その理由は生活保護の「葬祭扶助」は生活保護法の第18条に書いてある。
葬祭扶助は、困窮のために最低限度の生活を維持することのできないものに対して、左(下)に掲げる事項の範囲内において行われる。
1検案
2死体の運搬
3火葬または埋葬
4納骨その他葬祭のために必要なもの
そう、「葬儀」が含まれていないのである。
もし遠方の親族の方が援助しなかったら、下リンクを読む限り火葬場でお別れだったようだ。故人の信仰する宗教で弔われることなく、骨になっていたのかもしれない。
これは「日本国憲法」の信教の自由の侵害ではないかと思い、条文を読んだ。
第二十条
1. 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2. 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3. 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
1を読み確かに保証されていると思った。
だが、2を読み、もし葬儀ができる状況でも生前に葬儀の同意が無ければもしかして「葬儀」は強制になる。。。のか???となった。
正直私は法学として憲法を学んだことはないし、生活保護のケースワーカーでもない。
それに、これは独居や個人の信仰を隠している人が突然死した場合も同じだろう。生活保護受給者に限った話ではない。
ただ、無宗教で弔われる権利も、故人の信仰に基づいて弔われる権利も「死人に口なし」で良いのだろうか。
生活保護受給者の葬儀はどうなる?本人や家族が費用を用意できない場合の制度を詳しく解説 | ひとたび (tokyohakuzen.co.jp)
(時間が無く)何も調べていないが、倫理の授業などで仏教のメジャー宗派、一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラーム)、ヒンドゥー教に触れて、宗教の存在意義の半分くらいは死後のためだと思っている。
葬儀は遺族の自己満足なんて言葉もある。そういった葬儀に参加したこともある(これは親族だから言える)。
日本人のマジョリティは恐らく「うちは代々この宗教だから」と仏教のどこかの宗派で弔われているが、生前その宗派のお経や教えを日々留めていたいた人はぶっちゃけ少ないと思ってしまう。
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私はこの4か月の間に一度しか会ったことのない親族の葬儀にも出た。
親族だったので焼き場にも行った。長い時を待ち、焼かれた後を見た。本当にショックだった。
それは人がもう元には戻らない形をしていたからではない。むしろそうやって、人の形からゆっくり焼いてもらったあとだということを実感したからだ。
去年出た葬儀で霊柩車で送らなかった人がいる。
献体の同意書を亡くなられる10年以上前にサインをされていたからだ。
初めて「家族が死後、臓器提供をするのはいやだ」という人の気持ちが少し分かった気がする。
もちろんその方は、「自分の身体で医学に貢献できるなら」と思われたかもしれない。
でも、棺ではなく病院へ運ぶ専用のストレッチャーでおくる葬儀は初めてで、この方が骨になられる時におくれるのは恐らく親族などではないのだろうと思うと悲しかったのだ。
だからこそ、親族が始終立派に弔わられ、ゆっくり焼かれたお骨を見て、拾い、骨壺に入れるとき、私には幸福そうに見えた。
そして、今世界中でどれだけの人が「葬儀」をされて、それぞれの文化や信条、宗教に合った弔いをされているかを思い、涙が止まらなかった。
書いた通り一度しか会ったことない親族だ。もちろんその方が亡くなったことも悲しかったが、日頃パレスチナ関連の情報を積極的に取り入れているからこそ。
そしてWW2体験者の祖父母の話を思い出しながら、遺骨が無く石が送られてきた人の話などを思い出しながら
葬儀とは象徴とまではいかないが、人の心がまだあり、平和をあきらめないことのしるしと思った。
散文で申し訳ない、ソースもきちんと確認できていない。
実はおとといから書いていたが、先ほど訃報が来たんだ。
なんなんだ今年は
最後に
被害ではなく加害のフラッシュバックで自己嫌悪から死にたい、生きていて申し訳ないと言ったときに、迎えのタクシーを待ちながら『それは生きるための試練で乗り越えたら人として成長できる』と答えてくれたあなた
私が虐待されていることに気づき、唯一行動してくれたあなた
戦争を体験されたのに、「自分の経験よりあなたは中学で酷いことをされたのね」と言ってくれたあなた
一回しか会ったことがないが、代わりに懸命に生きてくれたあなた
そして、なんでもっと話さなかったんだろうと後悔しているあなた
弔われて良かった。一人の人間として、尊厳があって良かった。
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