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文章はいつも、あなたを呼んでいる。

言葉は、
それが聴こえる時によって
それが放たれる人によって
その音に含まれる、質量が変化する。

昨年から写真ラジオを始めた。それらに比べて文章というメディアはとても人に伝わりづらい。でも、自分が文章の道から離れることはないと思う。それがなぜか、書きながら考えている。結果的にいうと”困難は絶景の最大の演出”であり、そういう類の感動に触れたい、つくりたいからだと思った。

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(https://twitter.com/ozAntinnippon/status/1345279157807190016 より引用)

昨夜、こんな画像をみつけた。

言葉は(日本語は)こんなにも伝わりづらい。(句読点という素晴らしいソリューションを使っていないことは一旦置いておきつつ、、)

しかし写真や絵であれば「頭が赤い魚を食べる猫」をひと目で伝えることができるし、ラジオ(声)も間やイントネーションで伝わる精度をあげることができる。

写真は「見る」、ラジオは「聞く」、文章は「読む」
読むの語源は諸説あるが「呼ぶ」に由来するとも言われている。
考えてみると文章を読むという行いは、自らの記憶の貯蔵庫に逐一呼びかけを行っているとも言える。

頭ってどんな意味?赤いってどんな意味?魚ってどんな意味?という風に、そもそも概念を持っているからこそ「頭」や「赤い」などの記号に意味が付与される。

そして冒頭に書いたように、記憶の貯蔵庫への呼びかけと応答は、大変な複雑系にある。例えば「がんばれ」という1言も、誰が、どんな時に、どんな会話の文脈で、どんな速度で、どんな大きさで、どんな目線で放たれるかによって、記憶の貯蔵庫への呼びかけ方が変わってくるのだ。(人間ってすごい、、、)

故に、文章で他者に何かを伝えることは困難だ。

でも、それでいいのです、それがいいのです。

自分がこれまで見た景色の中で最も美しかった風景は、小説の中にある。具体的には『壬生義士伝』という浅田次郎さんの作品にある蛍のシーンが、最も美しかった。

これはいわゆる心象風景というやつだけど、豊かな文章はARのように実際に景色が記号から空間へ拡張されゆく。そしてその美しさは、その景色の中にいる人の心や、関係性など、三次元の世界では読み難く、触れ難いものが読めることによって、異次元の鮮やかさを演出するのだ。

そしてこれは小説の中に封鎖された営みではなく、現実にも延長可能な観察のテクニックであり、見えぬものを見ようとする困難を超えた時に、どんな場所にも絶景が現れたりする。

尊敬するアーティストの永原真夏さんが「幸せは近くのコンビニみたいに近くて遠いなぁ」と言っていたけど、まさにその距離が美しさと自らを結ぶ距離で、必要とされる想像力の量なのだと思う。

書記体型ができてどれくらいの年月が過ぎたのだろう。
岩に尖った石で象形文字を掻いて、それを読む(呼ぶ)人と人だからこそできる密接な繋がりは、現代と比べどれほどの違いがあることだろう。

大陸を超え、文化を超え、共通知とされる概念が世界を包む電波から伝搬される時代において、文章を書く、読むという行いは、まだ共通知とされていないエアースポットに、一縷の望みをかけて放つ祈りのようなものかもしれない。

それであるにも拘らず、表現の形が共通知化された言葉であるということがまた面白い。言葉を用いて、言葉では届かない世界に行こうとしているのだから。

文章はこれからも、技術の進歩と共にメディアの地平が広がりゆく一方で、それにアナーキーな立場を構えて、想像の拡張を促し続けるのだろうか。その拡張は、何に届かんとするのか。その姿は、宇宙にもよく似ている。


「こんな未来あったらどう?」という問いをフェスティバルを使ってつくってます。サポートいただけるとまた1つ未知の体験を、未踏の体感を、つくれる時間が生まれます。あとシンプルに嬉しいです。