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身体性を伴うSNSの使い方。


一日にSNSを見る頻度が日に日に減っている。
そもそも全く開かない日もあれば、ほとんどスマホに触らない日だってある。
そして、そういう日は大抵充実した日を送れている。
現に音楽や畑仕事、家族や友人と過ごす時間の密度が高い日や、素敵な空間や美味しいものを食べた日になんの記録(写真や動画)も残ってないことはよくあるし、それは空間を満喫できていたともとれる。何故だかよく撮ってる日もたまーにある。おそらく、そこに温度の差はあまりない。全ては"たまたま"だ。

充実した日にスマホをあまり触っていないのは、僕個人の日常から弾き出される一つの統計結果でしかないが、そこから「SNSは人生を直接的に充実させるものではない」という見方は十分できそうだ。

そうすると、SNS自体もういらないのではないかとも思うことも(実はかなり)ある。
しかし例えばインスタはネット上の住所的な使い方として、Twitterは情報収集の場としての側面も持っているので、いざ無くしてしまうかと言われると尻込みしてしまう。
(そこに実際には、自分が拡散する情報からのフィードバックを得たい欲求も存在する。恥ずかしながらゼロでは無い事は認める。)

今回はその「情報収集の場としてのTwitter」という部分について記していきたいのだが、大前提として言っておく必要があるのは

「Twitterに流れてくる情報なんて大抵劣化してる」

ということだ。



そもそも大切なことを、伝えたい文脈を備えたまま書ききるのに、140字という制限はあまりに少なすぎる。
故に抜け落ちるものが多すぎる。

その人の文脈を読みとらずして(例えば発信者が発信内容について記している本に目を通してみるなど)、140字の中に含まれる「単語」や表層的な印象で簡単に批判したり、その批判が連鎖する様子は、中々に珍奇である。

140字以内の情報に慣れた人は、中々に長文を読むことや理解をする事に苦戦するような気がする。ブログの文章量でもしんどいならば、おそらく本を読むのもしんどいだろうし、そうすると文脈を探るという行為そのものがしんどいものになってしまい、結果として表層的な「わかりやすい」ものに極端に反応を示してしまうという部分はあるのではないだろうか。

更に顕著なのが動画である。
Tiktokをはじめ、YouTubeやインスタでもショート動画が大流行りしている現在。
30秒そこらの動画を見て、また次の動画を見てという繰り返しの中に残るものとは一体何なんだろうか。ユーザーの滞在時間を伸ばすデザインや、可処分時間の奪い合いとなっている"コンテンツ"のビジネスに、利用者の心身の充実を求めるのは難しい。
故にショート動画に慣れた人は20分の動画、あるいは4〜5分の動画でも長いと感じるかもしれないし、1時間を超える長尺のものを見ることは、間違いなくしんどいだろう。
「もっと簡潔でなきゃ見る気が起きない」かもしれない。
そして簡潔になればなるほど、大切なことも抜け落ちるのは先ほど記した通り。

話を戻そう。
では、そんな劣化した情報が流星群のようにキラキラと流れ続けるTwitterを情報収集の場に使うとはどういうことなのか。

これを考えるのに大事なポイントは一つ。

「その情報が、自分を実際の行動に駆り立てるかどうか」

である。



まず一つの前提として、僕は自分のTwitterのブックマークを開く時間が割と好きだ。

Twitterのブックマークはオンライン上に存在する「自身の興味関心を強く惹きつけるモノ図鑑」という位置付け。

ここには古今東西、僕がゾクゾクするような面白い情報が綴じられている。
これどういうこと?これは素敵だ!もっと知りたい!面白い!etc..
兎に角純粋に心躍るものの羅列なので、見ていて結構楽しいのである。

強い好奇心を駆り立てるものは、もっと知りたいという気持ちを産み出す。
そこから本を買ってみたり、レコードを探してみたり、ある場所に行ってみたいと予定を立ててみたり、そして本当に行ってみることに繋がっていく。
即ち、ドーパミン由来の「行動に直結する情報群」なのだ。

情報が僕の身体を動かし、実際に行動を起こすことに繋がる。身体性を伴った情報に、僕はある程度の価値を見出している。
これが、僕がTwitterを情報収集の場として利用しているという側面の具体的な内容の一つである。


イレギュラー的に面白い情報に出会う以外では、僕がチェックしている人は大体決まっていて、実はほんの数人である。

それは心から応援しているあるアーティストや、私生活や子育て感が面白いなと最近気になっているアーティスト。実生活でも関わりのある人だったり、知らない世界を覗き見させてくれる博識な方たちだったりする。
限られた彼らの投稿を僕は結構楽しみにしている。
そして出来ればその気持ちを「いいね」だけで済ませたくないと思っている。

例えばアーティストにしてみれば、本当に応援するのであれば音源も買うし、ライブにも行くし、何か力になれる事がありそうなら実際に動きたいと思うし、実際に動いてもみる。
要は彼ら彼女らの情報も、僕にとっては「身体性」に直接的に繋がるものなのだ。
何かしたい!力になりたい!と自発的に思うことが多々ある。
そうすると最早身体性だけでなく、社会性すら持ち合わせているとも言える。

劣化した情報の羅列を眺めていると、「なんてつまんないんだ。もうTwitterなんて辞めてしまおう。くだらない。」と思うこともあるが、大抵のことはスルーして、自身の行動に繋がるような魅力的な情報を積極的にすくいあげていけば、全然楽しめるものかもしれない。

結局なSNSの使い方も、自分次第でいかようにでもポジティブなものに変換していけるのだなと、やはり全ては自分次第だなと月並みな言葉に帰着した。


しかしまあ、Twitterなんて10年ちょっと前はみんなが「○○なう」とか、本当に意味ないことばかり呟いていたのに、すっかり投稿すること自体に大きな意味合いを乗せたり、意図せず乗ってしまう事もあるような、扱いがナーバスな媒体に成り果ててしまったようだ。

たかだかネットの情報。そもそもそんな間に受けなくていいものばかりなのにね。
そこで一つの単語や文節だけつまみ出して、文脈を読み取ることもせずに挙げ足取りのように批判したり、そこに反応してみることよりも、自分の周りにいる人たちに、今出来ることを考えたり、実際に行動してみることの方がよっぽど大切ですし健全ですね。

さて、明日自分に出来ることを早速また一つ実行していくとしよう。

SNSなんて適当適当。スマホなんてただの道具。スマホに操縦されるんではなくて、ツールとして誰かのために使うことが出来るかどうかはいつだって自分次第だねーまったく。

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