書評:木澤佐登志『闇の精神史』2023, ハヤカワ新書014

0.これを書いた経緯

 木澤さんから、たぶん「闇の自己啓発」等々の縁もあって、新著『闇の精神史』を送ってもらった。とてもありがたいことだった。たのしく読んだ。さいきん書き物のスタイルを変えてみようと思って、自分はいろいろ試しているところだった。そんなわけで書評をつくってみることにした。約5300字になった。ただし『闇の精神史』に実際に何が書いてあるか知りたい、というニーズにはあまり応えられていないかもしれない。以下がその内容。


1.どんな本だと思ったか(1800字程度)

 火星移住という壮大な夢を実現しようとするイーロン・マスクの逸話から木澤佐登志『闇の精神史』(2023)は始まる。著者はマスクが体現しているとされる長期主義(longtermism)を手短に解説する。そこに活路を求める人々のニーズや、より深い思いや願いそして欲望をも見据えつつ。しかしながら長期主義に付和雷同することもなく。
 そして、『闇の左手』や『夜の言葉』、それに『ゲド戦記』などで知られているはずの作家、アーシュラ・K・ル・グィンに触発されたこの新書の著者は次のように述べる。「私たちは「陰」のユートピアを志向しなければならない」(p.9)。こんなわけで理想郷を志向するに至った著者は、その思考をうまくおし進めていくため、様々な出来事に立ち返っていくことになる。
 それで何だというのか。
 つまり以下みたいな本だ。
 これは様々な事例を通して「Imagin / 想像してごらん」と呼びかける本であり、そして「理想郷」を創造してみてごらんと促す本である。もちろん、さしあたりは読み手の頭の中で。この画面上ないし紙面上に綴られた著者の遍歴の旅程を眺め、読者自身が思い思いに「ユートピア」を思い描くまたは発見するとき『闇の精神史』はその最良の力を発揮したと言えるであろう。
 私から見た本書の要点は上記の通りだ。
 思うに、『闇の精神史』で評価すべきポイントは、書評で要約して伝えうるコンテンツ自体のほうではない。とはいえ、少なからぬ読者にとっては、目新しいトピックが列挙され、十分に面白い内容なのではないかとも思う。
 例えばこんな感じだ。ボグダーノフやフョードロフといった思想家を取り上げつつ論じられるロシア宇宙主義の思想と現代社会のつながり。サン・ラーやリー・ペリーといった音楽家が体現したスタイル、「アフロフューチャリズム」に息づく宇宙へのイマジネーション(なお、関連記事として橋本輝幸「いつでもSF入門」vol.3の「さよならアフロフューチャリズム」を挙げたい)。そしてマッキントッシュからパチンコホールまで登場するサイバースペース論/メタバース論。……たとえ本書のもとになった連載「さようなら、世界――〈外部〉への遁走論」(『S-Fマガジン』2021年2月-2023年2月)を読んでいたとしても刺激的だろうし、同書によって様々な記憶が喚起されるはずだ。
 しかし私は内容が最大のポイントではないと考える。
 どこに評価のポイントがあるのか。
 肝腎なのは話の中身というより、話の機能だ。
 つまり、この本で想像力を培えるということだ。
 人文教養の本だって科学技術の本と同じで手や頭を動かすやり方を覚えて役立てる目的で使える。これは技術系の本が、ただ実用的なテクニックやコンセプトを効率よく心身に叩きこむだけではなく、学び手の感じ方や考え方を変革し世界をより鮮やかにきめ細かく享受できるようにしてくれる効用を持つのと、表裏一体の話だ。
 その観点から、以下のように評したい。
 明け透けに言えば、これは読み手の側でうまくイメトレ・脳トレに使ってこそ活きる本だ。何か調べたいときにこれ一冊で済ませるのではなく、新たに調べ物をするきっかけに使うほうがよい本だ。装丁でも文彩でも目を楽しませられるし、差し出される話題に食いついたり話のつながりに驚いたりしながら愉快に読める本だが、それで済ませるには勿体ない本だと私は思う。
 ところで「精神史」というのは多義的な言葉であり、歴史がある。だからこの語を用いる言葉づかいの流派が複数ある。例えば「精神史」をドイツ語のGeistesgeschichte(Geistガイスト=精神、Geschichteゲシヒテ=歴史)に由来するとして使う流派もあるし、英語圏のintellectual history(インテレクチュアル・ヒストリー)という分野の訳語だとして使う流派もある。それに「精神」は日常生活でも使う語だし、何か「史」なるものがあるという発想は、どんな分野の専門家であっても、いや専門家でなくても現状では当たり前のように使っている。
 いずれにせよ「精神史」は人文学っぽい語である。
 そんなわけで人文教養っぽい本の使いかた、いろんな思想の動きとカルチャーの潮流を足して(二で割って?)紹介する本の意義について、みたいな話を添える。一般論ではあるが同書を読む上でも大事ではないかと思う。

2.こうした本にどんな風に接すべきだと思うか(2500字程度)

 私は学術書と人文書の区別が時折よくわからなくなるが、少なくともこの新書が人文教養の本として読まれるのは確かだと思う。どうも本書が現代史だか現代思想だかの「裏」入門だという売り文句を見た記憶もある。
 なお、私は<「裏」入門>みたいなネーミングセンスが嫌いではなく、かつて彦摩呂がグルメレポートで発して人口に膾炙した「海の宝石箱」や「お肉のIT革命」と同じくらい素敵だと感じる。そもそも私は木澤佐登志・ひでシス・役所暁と同じく『闇の自己啓発』の共著者であると真顔で名乗る側だ。
 それはともかく話を進める。
 木澤佐登志『闇の精神史』、これはポピュラー人文書って言える本だと思う。
 いわゆるポピュラーサイエンス本を念頭においてこう書いている。
 例えば『闇の精神史』のように、ルポルタージュと呼ぶには人文学要素が濃いけど、学術書と呼ぶにはポピュラーサイエンス本みたいな間口の広さをもつコンテンツのどこをどう評価するのか、って意外と人によって考えが異なっていたりする(木澤佐登志の著述は全般的にそのようなスタイルのものだと評していいようにも私は思う)。
 自分の場合は次のような感じで考えている。
 一般に、内容の是非――うまく話をまとめているか、話が間違ったり大雑把すぎたりしていないか、誰かが即座に知りたいと思っているトピックがどれくらい上手に提供されているのか――というのは大切ではあるにせよ、それが良し悪しの評価のアルファにしてオメガだとは思えない。
 例えば小説や漫画などのフィクションでは高度に専門的知識を有する立場の評者からすれば論外に等しい記述を含むものも少なくないはずだが、それだけで評価が決まるわけではなく、当然ながら広く人気になるかどうかが決まるわけでもない。ある観点から専門家がどう評価しようが、読まれるものは読まれるし、流通するものは流通する。それ自体、良し悪し語りうる現象だとは思う。
 日本語は識字率がほぼ100パーセントに近いという一億総中流みたいな発想が当たり前になっているからか、しばしば忘れられているが、調べ物や考え事のエキスパートというのはある分野のアスリートに近い。サポーターやスポンサーが支援し、整えられた設備にアクセスし、蓄えられたリソースをふんだんに使いながら、あるレギュレーションの下で凄まじいパフォーマンスを発揮する人々だ。
 まずそこを認識する必要がある。
 他方でアスリートも只人である。
 なので、人生に思い悩むし世間に物申すわけだ。
 そして思い悩みや物申しをやり取りするためのレギュレーションは実質的に存在しない。
 いや、こんなレギュレーションがある、とは幾らでも言えるかもしれないが、少なくともアスリート用のそれらがイコール世間用のそれら、とはならないはずだ。
 それにそういうレギュレーションが自分自身の状況にうまく対応してくれているのかということに、特に保証はない。保証する向きはあるかもしれないが、そこが何かあったら責任を取ってくれるというわけではないと思う。
 そんなわけでプロ人文書のほかにポピュラー人文書が必要になるわけだ。
 例えば、どうして現在のイーロン・マスクのようなムーブがこの世界に出現したのか問うときにロシア宇宙主義とアフロフューチャリズムとサイバースペース/メタバース論を組み合わせて考察したりできるわけだが(それこそ『闇の精神史』のように)、そんなパフォーマンスの巧拙をジャッジするプロ用のレギュレーションは存在しないはずだ(部分的なジャッジを組合せていくことは可能だが)。
 ニーズがあってもプロが育っていないフィールドはあるし、プロの妙技を関係者のみならずより広範なオーディエンスに解説するニーズはそこかしこにある。思うに、ポップとマニア、ポピュラーとエキスパートの架け橋はまだまだ足りていないのではないか。そう思う。
 こういうのを世に問うとき、アカデミック・ジャーナリズムの拡充の必要性、みたいな言い回しをしてもいいかもしれない。ただし大学の研究産業の下請けに留まる仕事ではなさそうだということが、話をややこしくする。それにこのジャーナリズムという言葉は、何らかの専門家が世間の動向にかこつけて専門外の話をする口実ではない、と強調する必要もある。
 思うに、ひとが教育経済学を学んでいなくても教育制度や施設の改革を話したくなったり、教育心理学を学んでいなくても学生論をしたくなったりするのは、例えば自分が親として子育てをした経験から教育論をしたくなったり、自分が労働者としてOJT(職場内訓練)に携わった経験からビジネス論をしたくなったりするのと同じ、社会人の宿痾というやつだろう。
 もちろん、世間並みの紋切型の開陳に終始しないよう気をつけて話をするならば、そんな話ももっとした方がいいとは思うし、私は例えば市民科学みたいに市民人文学もあっていいだろうとか考えがちな立場だし、そういえば人文とかカルチャーとか取り扱うYouTuberとかも増えてきている。
 ……ポジショントーク塗れになるのでこの話題は止める。
 私も社会人の宿痾に多かれ少なかれやられていて、そういう話のときやけに饒舌になる。
 というか老若男女問わず社会で生きているのだから、人類皆、多かれ少なかれ社会人なのだが。
 この意味での社会人って国民と言ったほうがいいのだろうか。なんらかの勤め人だけが社会人ではないし、社会人の代表でもない。勤め人が国家運営に重要であるのと、勤め人が人間のあるべき正常な姿であるかどうかは別の話だと思う(持続可能な勤め人のビジョンを練り上げるのは急務なのかもしれない)。
 話が脱線しそうだ。戻す。
 ともかく、木澤佐登志のような書き手のやっていることを評価するには、また、どうしてこうした書き手がインターネット発で出現し存在感を持つようになってきているか考えるためには、必要になりそうな話がある気がしていて、私はそれを述べたかった。だから書評に絡めて一般論というか、具体的な本の中身よりも抽象的でメタっぽい観点で、本書のようなコンテンツの扱い方の話をした。
 最後に、ブックデザインの話をする。個人的に今回の新書のカバーは目を楽しませてくれるものだった。

むすび.ガワが素敵な本について(1000字程度)

 木澤さんの単著は第一作『ダークウェブ・アンダーグラウンド』2019からそうだが、デザインが凝っている。それは大事なことだと思う。

 凝っている、というのは、讃辞ばかりが寄せられる事柄ではない。例えば『ニック・ランドと新反動主義』2019については、ページデザインのせいで書き込みができないという不評も見たことがある。
 いずれにせよ木澤さんの各著作ごと、ヴィジュアル上で様々に実験が試みられているように見受けられる。自分もいつも、木澤さんの本のデザインに魅入られてきた。

 昔のことだが、大きめの駅の地下に広がるショッピングモールにあった、とある書店で、「インテリア」と題された主に小物類を販売しているゾーンに夏目漱石の文庫本や全集などが配置されていたのを見たことがある。
 初めて見たときは大変驚いたが、考えてみれば漱石自身がブックデザインにこだわりを見せていた作家であったはずだし、往時には「軽文学の王」とも評された新聞小説家だったのだから、もっともな話かもしれない。
 そういう業態を批判的に考えることはできるし、商売には商売の徳というか良し悪しの基準があるわけだが、学術界でも漱石アンドロイド(喋る漱石人形)が展示されたりしていた記憶があるし、いま見世物化(スペクタクル化)の批判をするならば、二重の基準が必要になるだろう。
 ひとつは見世物化=スペクタクル化の現状そのものの批判。何がどうなって現状に至ったかを理解する努力。そしてもうひとつは、私的にアップロードされる文書や画像ですら商売の算段に織り込むのが制作側・流通側の前提に映る世界で、どういうやり方なら筋を通しているとか仁義を守れているとか言えるのかについての批判。たぶん一律に適用できる普遍的なルールに基づく判定というより、様々な局面での多元的な評価軸を鑑みながらの個別事例の勘案と呼びたくなる、諸々に対する各々での折り合いのつけかた。
 これらふたつの層での批判である。
 もちろん、ここでいう批判とはチェックリストに従って採点して基準以下ならバッシングするって感じのやつではなく、いや、そういうのもやっていいとは思うけれど、良し悪しどちらもしっかり眺めてみて、その吟味の過程を記録するとか、そういうのに重きを置いたやつを想定している。
 それを批判と分けて批評とか呼んでもいいかもしれないが、こういう使い分けはローカルルールに過ぎない、って立場を取っておきたい。それに大事なのは、自分がすることをどんな看板で表明するかだけではなく、現に何をするかだし、どうやってそれをしていくのかだ。現状私はそう信じている。
(了)

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