『闇の自己啓発』の遠回りな紹介(本の「第一印象」に基づくと見られる、幾つかの質問への応答)

はじめに

本日(2021年1月21日)、江永泉・木澤佐登志・ひでシス・役所暁の共著『闇の自己啓発』(早川書房)が出版されることとなりました。改めまして、note記事にリアクションをくださった皆様、そして書籍出版まで様々な形でお世話になった皆様に、御礼を申し上げます。

本記事では、同書の著者のひとりとして、『闇の自己啓発』という題や概要から抱かれがちな幾つかの予断、先入見に関連する事柄について、一問一答形式で述べてみたいと思います。記号は何でもいいのですが、仮にα、β、γとして三つの問いを立て、それぞれに答えて、順に解説します。あくまで私の答えであり、著者の総意でない旨を始めに表明しておきます。もちろん仮にこれが著者全員の総意であっても、読者は、そうした圧力や指令とは別の仕方で書物と関係を結ぶことができるはずだし、多かれ少なかれ、すべての文章に対し、あなたは、つねにすでにそうしてきただろうし、現にそうしているはずです。

質問一覧

α:「闇の自己啓発会」は「暗黒啓蒙」好きたちの集まりなのか。
β:「闇の自己啓発会」と名乗っているくらいだから、「闇」っぽいもの、悪趣味な物事を称揚したり不道徳な振る舞いを推奨したりしているのか。
γ:この本を読んだら「闇」に詳しくなり、それで人生がマシになるのか。

α:「闇の自己啓発会」は「暗黒啓蒙」好きたちの集まりなのか。

答え:違う。読書会「闇の自己啓発 Dark Self-Enlightenment」は、「セルフ暗黒啓蒙 Self Dark-Enlightenment」とは別のものを志向して始まった。

解説:江永の理解では、四者とも、ポスト・ヒューマンやEXITというテーマに関心がありますが、各々のスタンスは異なっています。私自身が現在漠然と感じているのは、「自己啓発」や「暗黒啓蒙」のようなものを、始めから嘲弄はしないがだからといって丸呑みもせず、まず向き合う、そうした観点を立てる必要性です。会の名称を決める際に、「闇の自己啓発会」と始めに言い出したのは私でした。もしかすると、私も昔から親しんでいたハリー・ポッター作品内の科目名「闇の魔術に対する防衛術」が、自己啓発(光)に対する防衛術→セルフ暗黒啓蒙ではないもの→「闇の自己啓発」、などと私の思考を走らせたのかもしれません。あるいはアニメ『遊☆戯☆王デュエルモンスターズGX』(2004-2008)で登場した、「破滅の光」というフレーズがやたらと記憶に残っていたから、「光」でなく「闇」をという思考になったのかもしれません。ただ、最初に自己啓発とハリー・ポッターとを掛けて、「光の自己啓発に対する防衛術」と口にしたのは役所さんだったような記憶があります。とはいえ、これも朧気な記憶です。あと「心の闇」の不在こそを問題として捉えた立木康介『露出せよ、と現代文明は言う:「心の闇」の喪失と精神分析』(2013)などの「闇」を語る諸著作に、書き手の狙いとは、必ずしも一致しないような仕方で、感化を受けてきたからかもしれません。

ちなみに、本書の英題は「A Dark Self-Enlightenment Party」となっていますが、定冠詞を「The」ではなく「A」としたのは、この会のみが唯一の「闇の自己啓発会」ではなく、近しいスタンスを取る様々な「闇の自己啓発会」がある中の、そのひとつでありたいという願いを汲んでもらって、そうなっています。「闇の自己啓発会」を、ひとつのグループではなくて、諸々によるムーブメントとして位置づけたいわけです。note内記事で「闇の自己啓発会〈のれん分け〉キャンペーン」をあげているのも、それゆえです。(あとは「The~Party」だと政党名みたいになって厳めしすぎるかなというのもありました。それなら綱領とかも策定しないといけなくなりそうだし)。

β:「闇の自己啓発会」と名乗っているくらいだから、「闇」っぽいもの、悪趣味な物事を称揚したり不道徳な振る舞いを推奨したりしているのか。

答え:必ずしもそうではない。少なくともただ「悪趣味だから」という理由だけで「何であれ」称揚するとか、ただ「不道徳だから」という理由だけで「誰にでも」推奨するといった所作は試みていない。それぞれの理由で幾つかの物事に関心があり、それぞれの切実で幾つかの振る舞いに思いを馳せている。

解説:あなたが誰の話を聞くかという選択自体がすでに何らかの価値判断の表明となってしまっているとされるのと同じように、何かへと注意を向けた時点でひとは何らかの判断を示しているものとされるとは思いますから、私もまた、中立・中道だとかを気安く標榜することはできないでしょう。その上で言えば、私は「闇」と悪趣味や不道徳とは同じではないと思っており、「闇」っぽいものなら何でも歓迎するとは、私には言えません。とはいえ、例えばこの記事を読んでいる時点で多かれ少なかれ私の同類だろうといった予断が的外れであるとされるだろうことと同様に、一般論として、何に注目したかの表明だけで「陣営分け」のような振る舞いをするのは、いつも必ず有益である姿勢だとは確言できないだろう、と思っています。

個人的な話をすれば、私は人間と機械のあわいにある(人間もある種の機械かもしれませんが)、いわゆる「機械的な動き」の持つ不道徳さ(または無道徳性あるいは反道徳性)とか、そこで生じる笑いなどに関心があります。かつて、映画『ホーム・アローン』や『ホーム・アローン2』を観た私は、映画の中で子供の仕掛けた罠が作動し、泥棒たちがコテンパンになっていく姿を視聴し、笑っていたのでした。今思えばそれらは、からくり仕掛け――ピタゴラ装置、あるいはルーブ・ゴールドバーグ・マシン?――を観賞するような楽しみとも、あるいは『狂言サイボーグ』を著した能楽師、野村萬斎たちの謡い舞う「ややこしや」に触れたときの驚きや魅惑といったものにも通じ合っていた気がしています(ちょっとした自問。今それらを再び観ても私は驚き魅惑され、笑えるのか?)。無情な笑いに私は関心があります。

笑いを(嘲笑いではなく、笑いを)「単純な喜び」であり、過度でなければ「それ自体で善である」と語るある哲学者は、それに続けてこうも述べていて、私はその一節に強く惹きつけられています。「たしかに、陰険でしかも危険な迷信のみが、楽しむことを禁ずる。いったい人の憂鬱を追放することよりも、人の飢えと渇きをいやすことのほうが人間にとってどうしてそんなにふさわしいことなのか」(スピノザ『エチカ』第四部定理四十五・注解、工藤喜作・斎藤博訳、中央公論新社、362頁)。もちろん、飢えや渇きなどをいやすだけで追放できる憂鬱も多々ある気がしますし、笑いがあれば憂鬱が相殺されるといった計算も、およそ成り立たないだろうとも思いますが。

一般に「闇」は、ネガティヴな、あるいは攻撃的な感情と結びつけられがちですが、こと憎悪に関して言えば、私が惹かれるのはこういった記述です。「しかし、憎悪による破壊は、つねに中途半端な神と人間と世界とが、すなわち、無神論であれ有神論であれ、祈りの対象となる神と祈る人間と祈りに溢れた世界とがいたるところで回帰することにしかならない。憎悪なしに、いかに神と人間と世界とからなる巨大な三角回路の絶対的な消滅過程が実現するのか、それがまさに問われているのだ」(江川隆男「最小の三角回路について」『すべてはつねに別のものである――〈身体-戦争機械〉論』2019年、河出書房新社、222頁)。憎悪なしに、オシマイを。私は、神も人間も世界もオシマイになった、その後の自然、いうなれば〈巨大ピタゴラ装置〉を「生きて」みたいのかもしれません。――もっとも、そこではもう、生に始まり死に終わるような、言い換えれば発生で開始とされ絶滅で終了とされるような、あの恣意的な区切りの想定に伴って現行では支配的であるところの、諸々の暗鬱な掟でさえも、やめたり始め直したりできるゲームのようなものへと、その相貌を変えていることでしょうが。

γ:この本を読んだら「闇」に詳しくなり、それで人生がマシになるのか。

答え:わからない。そもそも、あなたの人生をどうするか指図をしたり、あなたの将来はこうなると託宣したりするのは、私のやりたいことではない。

解説:当然ながら、あなたがどんな状況に置かれているのか今これを書いている私は知らず(憶測をすることは可能だとしても)、あなたがどんな状況かあなた自身で調べなければわからないところがあります(あなた自身では気づけないところもあるのと同様に)。もしかすると人間の人生は何種類かのパターンに分類でき、あなたに関するしかるべきデータを手に入れれば、今、人生に悩んでいたり迷っていたりする(かもしれない)あなたの生き様を適切なパターンに当てはめて、任意の環境下で有効な、処方箋めいた仮言命法を指示できるのかもしれません(もしあなたが××であるならば、▽▽を目的に□□をせよ、○○程度の結果は得られるだろう、等々)。そういう指令を得られれば、割り当てられた役割につきものの日々の苦役や役得を、それなりに我慢して壊れるまでやっていける、という人もいるかもしれません。

私自身は、その、従うべきとされるような生から死までの工程表が、どうもしっくりこなかったので、どこを目指しているのか常に問い直し、どこに何があり、どこに進めるのか探り探り歩んでいくような心持で、いわば、地図づくりめいた仕方で、既知や未知の入り乱れる中を渉猟しているつもりです(それ自体が私に割り当てられた作業なのではないかとも疑いつつ)。この『闇の自己啓発』という本は、いわば(言葉での)実地探査の記録のつもりでした(そんな私の思いとは別の使い道が見つかるなら、それはそれで私にとっても興味深く、ありがたいことではあります)。

『闇の自己啓発』は、2019年から2020年にかけて行われたいくつかの読書会の記事(ウェブサイトの「note」に掲載されています)に大幅な加筆修正を施し、前書きや注記や補論などを加えた書籍です(もちろん、章立てなどの構成をしてもらい、言及した諸々から180件ほどをピックアップして出版年ほかの書誌情報をリスト化してもらってもいます)。本書で加えられた注記は四万字超のはずですが、百科事典的な意味で知識を網羅的に説明しているわけではありません(例えば、第五章で取り上げた反出生主義に関しては、本書の校正中にも森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?:生命の哲学へ!』のような本が出版され、議論が益々重ねられ洗練されていましたが、そうしたもの全てに追いつけていたわけではありません)。あくまで、調べたり考えたりしていく際のガイドのひとつとして使用してもらえればと私は思っています(勉強や独学のやり方に関しては、例えば千葉雅也『勉強の哲学』『メイキング・オブ・勉強の哲学』、あるいは読書猿『アイディア大全』『問題解決大全』『独学大全』など、様々な著作があります)。

おわりに

この記事では、一問一答形式に寄せながら、『闇の自己啓発』をめぐる予断への応答を試みましたが、それらは「違う」「~ない」などの、いうなれば消極的な応答に過ぎなかったので、結局のところはどうなのか、という声があがってきそうな気もします(私の脳内で仮構されたキャラ〈読者としての私〉は今そんな風に声をあげてきました)。弁明すれば、そもそもの問いの前提が共有できていなかったりすると、賛成とも反対とも肯定とも否定とも言いづらくなってしまうことは一般に間々あると思います。もちろん、私はニック・ランド『暗黒の啓蒙書』などを読んでいない人よりは「暗黒啓蒙」に関心を持っていると言えると思いますし、サドやアルトーを読んできたり大槻ケンヂや宝野アリカの楽曲に親しんできたりした点で、「悪趣味」系や「デカダン」系をかじっているのは確かでしょうし(とはいえファンダムに身を捧げているわけでもないのですが)、『闇の自己啓発』を読んでひとが何かを知りあるいは学び、それで人生がよい方向に進んだとすれば、とてもうれしくありがたく思います。――とはいえ「第一印象」だけで事実誤認を含んだ揶揄をされたりすると、さすがにそうではないと言いたくなる気持ちも出てきます。――こういう話を聞くと萎える、もっとポジティブな紹介を見たかったという方も(それなのにここまで読んでくださった奇特な方も)いらっしゃるかもしれません。――そういう方にオススメなのが以下の記事です。『闇の自己啓発』からの抜粋や、読書会記事を読んで、心動かされた人々の声が寄せられている、著者としては大変ありがたい記事です。

また『闇の自己啓発』所収の役所暁さんによる「まえがき」全文が、「まえがきのあとがき」付で公開されています。

もっと短い文章で、ということであれば、Hayakawa Books & Magazines(β)の記事でも引かれている、千葉雅也さんからいただいた推薦コメントを掲げたいと思います。『動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』や『別の仕方で:ツイッター哲学』(文庫版は『ツイッター哲学:別の仕方で』)といった千葉さんの著作の一読者としても、『闇の自己啓発』へと以下に引用するような言葉を寄せていただいたことは、たいへん心強くなり、力づけられる出来事でした。

世界には不快な〈闇〉がある。本書は、その〈闇〉をたんに批判するのでも面白がるのでもない。生きて死ぬことの意味を問い直すために、〈闇と共に〉思考する必要があるのだ」――千葉雅也さんの本書への推薦コメント

自分の切実と思いあわせながら、ためつすがめつしつつ「〈闇と共に〉思考する」ことを、これからも試みていきたい、と私は思っています。

さて、ここまで読んでも、どうもしっくりこない、やっぱり何かが言いたくなるという方もいらっしゃると思います(すでに上記の記事を読んでから、こちらに来ている方もいらっしゃることでしょう)。そういう方にオススメするのは、――実際に『闇の自己啓発』を読んでもらうことです。

追記(2022.12.01)
こぼれ話もあります。

https://note.com/imuziagane/n/n00b1d63ae745

[了]


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