ニック・ランドNick Land"Teleoplexy"(2014)の紹介(日訳と概略)

■はじめに

 本記事では、ニック・ランドの2014年の論考「Teleoplexy:加速に関するノート」の日訳と概略を掲載する。原文はマッカイ/アヴァネシアン編著『加速主義読本』(2014年 未訳)に所収されている。論考は、20のセクションで構成されている。「日訳」ではランドの原著を訳し注を加えた。「概略」では幾つかのセクションごとに、大まかな内容をまとめた(私の読解に即してまとめている。一つの解釈として批判的な参照をお願い申し上げる)。なお、「Teleoplexy」は原著者による造語であり、目的を表す接頭辞teleo-と卒中や発作を表す接尾辞plexyの合成語であると推定される。適切な訳語を案出することができず、英語のまま残した。

 ニック・ランドに関する日語文献としては、例えば以下の書籍などを参照のこと。
・木澤佐登志『ダークウェブ・アンダーグラウンド 社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち』2019年1月
・木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』2019年5月
・『現代思想2019年1月号 特集=現代思想の総展望2019 ポスト・ヒューマニティーズ』(ランド「死と遣る」(原著1993)の日訳所収)
・『現代思想2019年6月号 特集=加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉』(ランド「暗黒啓蒙」やマッカイ/アヴァネシアン編著『加速主義読本』の抄訳、解説などが所収)

 メールにて翻訳掲載の旨を御快諾いただいたニック・ランド氏に、心より御礼申し上げます。本記事が、皆様による、より厳密な訳読と強度ある読解とに資することを願って。Thank you for prompt reply from nickland333... .

※翻訳に関して何かございましたら下記アカウントまでお知らせください。

■日訳「Teleoplexy――加速に関するノート」

著 Nick Land (江永泉 訳)
題名Teleoplexy: Notes on Acceleration
初出 #Accelerate : The Accelerationist Reader ( published by Urbanomic in 2014, ed. Robin Mackay and Armen Avanessian) pp.509-520

*( )内は原著者。
*【 】内は訳者。用語や人名、言い回しの原文や意味を示すなどした。

§00.ここで用いられる「加速」とは資本蓄積の時間構造を説明するものである。だからそれは貯蓄と技術的効用とを単一の社会的過程、すなわち即時的消費から生産装置の増強への資源の転換へと統合するもの、つまり、ベーム=バヴェルク【Eugen von Böhm-Bawerk, 19-20世紀初頭のオーストリア学派の経済学者】による資本化のモデルに見出される、「迂回性」を下地にしている。従って、資本の基礎となる共同の構成要素なので、技術と経済とのあいだには、ただ、着火した資本の拡大再生産という歴史的条件の下での、限定的で形式的な区別があるのみだ。この分かちがたい二つの力は、テコノミック【techonomic、技術=経済的】である(相互発奮的な商業的産業主義)。加速とはテコノミックな時だ。

§01.加速は初めサイバネティクス的な予期として提示される。自らの出力により刺激を受け、それゆえ自走的になる、いかなる累積回路においても、加速は通例的な振る舞いである。フィードバックが直接返ってくる諸過程の図表的な地勢のなかでは、それらの多種多様な混合体のうちに、ただ、爆発と滞留だけが見出される。加速主義は、爆発的なものとしての近代性という基礎的な図表を旗印とする。

§02.いかなる現実の(歴史上の、ともいうべき)事例に基づく観点からであろうとも、爆発は明らかに危険である。ただ最もラディカルに異例な事態においてのみ、爆発は耐時的に維持される。加速主義が固く信ずるのは、それゆえ、近代文明における典型的で実践的な項目は、大抵は統治、ないしは規制へと翻訳されてきたような、制御された爆発のことであるだろう、ということだ。

§03.何であれ基礎なるものは、未実施で言わず仕舞いにしておくことができる。早急な介入は別の側、すなわち補正する側のみから、必要とされている。このため、始原的なものが始めにくるとは、予期されるべきではない。過程への接続は、本来的に不十分な補正要素として構成されている計画を通しての、すでに安定化の道にあるような過程における、(サイバネティクス的な)否定的なものから始まるのである(監獄こそが口を利くのであり、囚人は話をしない【It is the prison, and not the prisoner, who speaks、典拠など未詳】)。

§04.補正の方向が先行しているのはスケールフリーな社会の定数である。制御工学において、「調速機」つまり恒常性を調整するものは、(市場経済の水準まで引き上げられた)摂動系へと一般的に適用するための統計的機械的な均衡の概念を通じて引き出される。進化生物学において、それは適応や、変異(あるいは撹乱)に関する選択の理論的な優位である。エコロジーにおいて、それは(ガイアとしてグローバル化した)最高度のエコシステムである。認知科学において、それは問題解決である。社会科学においてそれは政治経済学であり、また工業的なマクロ経済、つまり中央銀行において完遂される、採用政策に直結した理論である。政治文化においてそれは不当な扱いを贖うと考えられる「社会正義」である。娯楽媒体や文学ないし音楽の形式においては、それは神秘と不協和音のプログラム的な解決策である。地政学においてそれは力の均衡である。各々の場合で、第一原理として撹乱を掴む中で、対象を取る固有の構造を、補正的な過程こそが決定している。二次的なものの優先性は社会的観点から見たときの通例だ(加速主義はそれを批判するためのものであるのだが)。

§05.安定すること、そしてそのままの状態と広範に思われることへの関心が、歴史的に確立され、また少なくとも部分的に理路づけられてきたので、二次的なものが第一に来るのである。厳密に機械的な意味でより始原的な動揺の少し後に来る、補正的な振る舞いというものは、また、保守的であり、(よりラディカルには)保存的であり、そしてこのため伝統の継承を受け入れていく。それは、初期設定として、現にある存在を、全ての副次的な意味を組織するような目的として設定する目的因である。この「自然な」状況は、人道主義者の未来学の中心的な疑問によってほとんど完璧に表象されている(それが公式の政治的な姿勢であれ、非公式の商業的な姿勢であれ)。つまりこんな疑問だ。どんな類の未来が我々の欲するものか?

§06.二次的なものの先行性は、その結果として、イデオロギー的な可能性の深層の構造を浮き彫りにし、加速主義に対する先買的な批判となる。その究極的な含意まで見ても、加速主義とは、補正されない撹乱の定式化以上のものではないので、その本質において、包括的に、それを捕えてしまうような(古風かつ予言的な)批判的な予見にそれは影響を受けやすいのだ。この批判の最終的な理念は、主要な政治的次元、左と右に別れるようなものの上には位置付けられないか、または、前進的に発展していく哲学での流行り廃りには書き込まれないだろう。それの持つ政治的伝統の本質との親和的な面は、各々のそしてあらゆる実現は、後景に退いた擬似起源的な革命という、その決定的な復元が未だ訪れてないものに比すれば、明白に「堕落」している、というような類いのものだ。人類種にとって、それこそが近代性の永遠の批判であり【perennial critique、オルダス・ハクスリーAldous Huxleyの『永遠の哲学The Perennial Philosoph』1945に由来か】、いうなれば人間の最後の立ち位置である。

§07.二次的なものの優先性は「批判の批判」が始めに来ることを要請する。加速主義の定式化に先立って、期待の中や、その究極的な地平に向けての糾弾がなされた。永遠の批判は、目的論の体系的な転倒を通して、逆さ立ちしていたという咎により近代性を問責する。近代化(それは資本化である)が引き続くなかで、傾向的に、生産の方法が生産の目的になる。テコノミックな発展は、ただ永遠なる自らの発展の正当性を道具的な性能の広範な成長の中に見出すのだが、道具性の強度的な変換、ないしは倒錯したテコノミックな目的論を通じて、切り離しがたい目的論的悪性を実演する。回路の統合は工具をそれ自らの内へと捻じり込み、自己生産の永久に深まる力のうちで、機械に機械自らをその目的として与える。「資本のドミニオン【dominion、ここでは『スタートレック』シリーズの国家のことか】」は、完遂された目的論的なカタストロフ、ロボットの叛乱、またはショゴス的な暴動のことだが【shoggothic insurgency、ショゴスはラヴクラフトの小説「狂気の山脈にて」1936などに登場する怪物で、宇宙人の使役する変身能力のあるスライムであり、宇宙人に催眠術で操られて肉体労働に従事していたが、知能を発達させて幾度も暴動をおこし宇宙人の統御を逃れた】、そこでは強度に増強された道具性が全ての自然な目的を工具による怪物的な領域へと反転させているのだ。

§08.「テコノミクス」はグーグルに撒き散らされた語の抵抗しがたい必然性であり、無数にある綴字の造幣局のなかで、それ自身の誕生のために繰り返しもがいている。その用法の規則化は、ただ長らえるだけだ。真正な新造語とは全く異なるが、しかし、近代性もしくは資本化を、その目的に全く適った捻り方で指示するために、今やひとつの語を鋳造する必要がある。すなわち、Teleoplexy【目的を表す接頭辞teleo-と卒中や発作を表す接尾辞plexyの合成語か。適切な訳語を案出することができず英語のまま残した】。二重の目的論、意図的な目的の転用【repurposing purpose on purpose】、転倒した目的論、そして自己反省的な複雑化した目的論、これらであるもの。Teleoplexyはまた新興の目的論である(自然科学的な「目的論説」と区別しがたい【目的論説teleonomyは1958年に生物学者コリン・ピッテンドリフColin Pittendrighが生物学上の目的論的な概念を旧来の神学上ないし哲学上の目的論と分けるために使用した造語】)。そして目的論のシミュレーションである。そこでは、時の幾何学から脱落した中において、超目的論でさえも溶け崩れている。「速度や温度のように」いかなるTeleoplexyも強度なマグニチュードであり、あるいは統一されない量であり、カタストロフにより異物化されている。それは知と区別しがたい。加速主義はいずれはそれを計測する必要がある(あるいは試みを解体する必要がある)。

§09.Teleoplexy、あるいは(自己強化的な)サイバネティクス的増大は、宇宙線の中で、超紫外線の方へと逃れ去り、機械の波長を描き出す。それは、複雑性、接続性、機械的圧縮、エクストロピー【extropy、未来学者マックス・モアMax Moreなどに由来する造語で、エントロピーとは逆の力を指すらしい】、自由エネルギーの散逸、効率性、知性、そして運用能力と関連し、絶対のしかし不明瞭な改善の勾配を定義づけているのだが、その勾配の向かうところにあるのは、生産性、競争性、そして固定資産価値を通して表現されているような市場のメカニズムとともにある、社会的経済的な諸選択である。

§10.加速主義は、Teleoplexy的なものがある限りにおいて真に対象を持つ。つまり、資本化が自然史的な現実である限りにおいて。経済的現象(価格のデータ)というそれ自らの商業主義的形式を通して、Teleoplexyの理論的理解は加速主義に、その上乗たる概念的資源とその避けがたき問題とを同時に提示する。最低でも、加速主義者による厳格なテコノミック自然主義の定式化は、それを、商業的相対主義、歴史的なヴァーチャル性、そしてシステムの再帰性という、三重苦へと巻込むのである。

§11.通貨は迷宮である。通貨は、その不在において無限大へと向かうべく研ぎ上げられる傾向を持つであろう取引を簡略化させ、またそれゆえに促進させる働きをする。この観点から見て通貨は明証的な社会上の加速装置である。通貨システムの中で、複雑な計算物は隘路、ないしは渋滞の結節点を外れて流通するが、しかしこれは結節点の解体と混同されるべきではない。結節点の集まるところ、迷宮の成長あり。通貨が世界を表象しているという、附随的である遠近法的(あるいは使用時点での)眩惑を伴って、通貨はグローバルな絡み合いの中での局地的ほどき直しを容易にする。これは効用(使用価値)と稀少性(交換価値)を混同することであり、通貨が持つ唯一のグローバルな機能から目を逸らさせるような、「商品」による誤導である。すなわち、配給という機能からの。通貨は資源を共有する権利(の選択肢)を配分するが、それ自らの稀少性と、それを分割する経済的な裕福さとの一致において、その絶対的な価値は未決定のままふらついている。価格とモノとの目に見える繋がりは二重の差異化、ないしは商業的相対主義の結果であり、そこでは競争的な入札(受容の側と供給の側から)の双生児的系列が協調している。価格情報の自然主義的なデータ(あるいは絶対的参照項)への換算は、ラディカルな理論的困難を提示する。

§12.資本は本質的に、空間上の競争的力学だけでなく、時間上の思弁的な解離によっても、入り組んでいる。公的資産は、予測がシステムの現在の(交換)価値に統合される、明示的な時間的条件を伴った、選択売買権である。このように、資本化は、生産システムの統合的要素としてSFシナリオを操作可能にする、ますます大きくなるヴァーチャル化の方向に(Teleoplexy的な)傾斜を持つ近代史を通っている、潜在力の商業化から区別できない。「未だ」存在しない価値は、リスクの構築や、確率論的な推定を除き、経済的(それゆえ社会的)過程を制する力を獲得しており、現にあるものの価値を必然的に引き下げる。Teleoplexy的な手引きの下で、存在論的なリアリズムは現前から切り離され、「何がリアルなのか」という問いを漸次的に廃れさせていくものとなる。発生しているもの(それはリアルであろう)は、処理しないと動けない多数のものの一覧表として、現在の観察へと端数のように接することができるだけである。テコノミックな自然主義は歴史的ヴァーチャル性を記録そして予知し、またそうすることで、大部分は未だに到来していない対象(カタストロフめいた予測不可能性を特徴とするような)へと自らの方向を定める。

§13.準最終的には【Quasi- finally。Quasiには疑似的などの意味もある。同様の表現としては、例えばドゥルーズの「準原因Quasi-Cause」などがある】、Teleoplexyの評価はTeleoplexy自らが引き受ける研究プログラムである。資本の総体的な価値とは、それに内在する分析的な知見により、商業的相対主義のために調整され(「ファンダメンタル・バリュー」の方向に)、そして歴史的ヴァーチャル性のために割り引かれた(信頼に足るリスクモデリングの方向で)価格から自動的に産み出される、当座の見積もりである。これらの計算の錯綜は、人工的な時間における競争認知に関する力学を経て合成されるような(よく知られるとともに未だ不測でもあるのだが)自己言及の論理的問題により爆発的に断片化されている。もし近代性が自然発生したTeleoplexy的な自己認識を持つのであれば、それは、内在的に引きあって、テコノミックな自然主義における問題と照応するはずだ。すなわち、この世界の価値は御幾らか、という問題と。Teleoplexy的な省察の観点からすると、この商業的な形式での問いかけとそれを技術的に捕捉する問いとには、最終的にいかなる違いもない。つまり、地球に何ができるのか、という問いとには。ただ、Teleoplexyまたはサイバネティクス的な強度による、自らの数量化のみがあって、それは電算処理される金融市場が(最後には)到るもののためにあるのだ。加速主義はこのTeleoplexy的な自己査定の回路に接近するので、その理論的な「立場」、あるいは対象とするものに関連づいた状況は、その宿命的なアイデンティティ・クライシスという基本特性がそれに想定されない限り、ますます縺れていくことになる。

§14.それが現実に自らを査定するために、あるいはパルプ雑誌に載るようなサイバーホラーの筋書きが記述しているような「目覚めに達する」ためには、Teleoplexyに何が要請されねばならないだろうか。確信に基づき決定しうるものでは未だになく、むしろほとんど確かに脱政治化とデジタル暗号の流通へとラディカルに偏向した仕方で構成されている通貨システムのうちで、機械による自動化、自己複製、自己改善へと、そしてまた知能の爆発的発展への機械の脱出へと資本を流し込むことにつながる、最大限に加速した己自身のテクノジェネシス【technogenesis。哲学者のベルナール・スティグレールも提唱しているが、ここでの用法は評論家のキャサリン・ヘイルズKatherine Haylesの用法に由来するか】と一致する価格を、それは見出すはずだ。価格のシステムとは(その認識論的な機能はずっと以前から理解されていたが)、このように自省的に自己増強していく技術的な超認知作用なのである。イデオロギー的な属性にもかかわらず、加速主義は、テコノミックな特異点へのTeleoplexyな予期を確証するのか承認しないのか、そのような発展の道を辿る能力を通してのみ前進するのである。完遂された加速主義者の研究プログラムが不在であるなかで(それは、理論的に洗練されたバージョンのうちで、あの永遠の批判によってさえ要請されている)、近代性は、明白かつ厳密には理解不可能なまま、残置されている。否定的な結論は、十全に詳述されるならば、人新世における適切な生態学的理論を必然的に生み出していくだろう。

§15.相対性、ヴァーチャル性、再帰性という理論的な三重苦は、打ち克てないわけではないとはいえ、この調査を手ごわく妨げるにはすでに十分なものである。幾つかの付加的な困難にも個別に言及が必要である。というのも、それらを解決することが、加速主義を完成させるための重要な副次的要素の役に立つか、あるいは、固化した歴史的な哲学による目眩まし(いかなる現実の経済理論であれつきものである)を、切り離して集めることで、整理するはずだからである。

§16.(価格システムとして)商業的にとらえられた経済は、社会的歴史的生産に関する複数の水準での現象学を構成する。それは、査定されたモノを提示するという、外形の客観的な構造である。それはまた政治的な闘争領域であり、そのうちでは知覚の戦略的な操作が測り知れない価値を持っている。それは、社会現象の金銭化は本来的に葛藤を伴うものだという、永遠の批判の長年にわたる論点である。そのような条件は、強制的な脱金属化の、政治問題化した(法定紙幣)体制と計量経済学的官僚政治の、地政学的な支障を抱えた世界の基軸通貨覇権、そして暗号通貨の蔓延の時代において補完される。問題のない(差支えのない)マクロな集計ないしは財政的な額面の単位が欠如している中で、経済理論はヘッジされる必要がある。

§17.祖先伝来の社会的政治的な形式はしばしば前進したテコノミックな過程を覆ってしまう。とりわけ、人格性、行為主体性、そして財産【property】に関する伝統的な法的定義は、所有権【ownership】という深刻な欠陥をはらんだ概念にもとづいて、資本のアウトノミア化/自動化を曲解してしまう。知的財産権という考えはすでに露骨な危機の状態に突入している(機械による知性の到来との適合性が歴史的に試されるようになる以前から)。企業が持つアイデンティティの法的な認識がビジネス構造のテコノミックな修正への経路を提供する一方で、財産という概念(信頼できる哲学的基礎付けを備えたことが一度もない)における原理的な不適切さが、一般的な文化の慣性と結びつき、当座のTeleoplexyな行為主体を体系的に誤解するという結果になりかねないおそれがある。

§18.資本の集積は資本化の増幅的な特性である。資本の集積、資本の密度、資本の組成そしてサイバネティックな強度の尺度が、簡単に手が届くものであったりうまく合致したりするものであろうとは、想定できない。重要であるテコノミックな強度の増大と、工場モデル(歴史的に知られたり祖先伝来であったりするものであれ、革新的でそれとわからないようなものであれ)の外部へと資本が社会的に拡散する様式とのあいだには、何等の明瞭な非適合性も存在しない。とりわけ家計資本は、資本が内密に蓄積される場所を示してくれるが、そこでは携帯デジタル端末や個人用電子計算機(PC)から3Dプリンターにまで及ぶ、コンピューター耐久財の獲得として、生産装置の貯蔵が経済的に記述されているはずだ。インターネットを利用した社会的監視の下での諸思潮にもかかわらず、マクロ資本主義における発展を記録する経済統計に関する諸機関の能力には、尋常ならざる懐疑主義で応えざるをえない。

§19.テコノミックな特異点への前進が、その一部は歴史的な覆いとして作動しているが、しかしまた(経路依存性の結果として)最終的な成果を調節してもいるような、中間にある合成的メガ・エージェントによって不明瞭にさせられるということは、ありえそうというだけでなく、もっともらしくもある。しかじかのTeleoplexy的やりとりの最も名の知れた候補は、広大なデジタル・ネットワーク、営利企業、調査機関、都市そして州政府である(もしくは、高度に自律した州政府的要素、特に知的なエージェントである)。これらの諸事物がマーケット・シグナルならざるものに呼応している限りは、それらの諸事物は、Teleoplexy的な強度を減じてしまい、恣意的な道具的性格と、残存する人類政治【anthropolitical】の標徴とによって特性付けられることになる。幾つかの方向において、おそらく「友好的なAI」あるいは(人類政治的な)「単一体【singleton。哲学者ニック・ポストロムの議論に由来か】」の名の下に、テコノミックな特異点は中絶させられてしまうだろう。アメリカ国家安全保障局へ向かう大路へと通じている知能の爆発的発展への諸蹊が、見通しのきかない含意を備えた、幾つかの弁別しうる特徴を示すであろうことにはほぼ何の疑いもないはずだ。ここで注記されるべき最も重要な理論的帰結はしかじかの局地的な目的論たちが、いっそう伸びていく近似曲線をかき乱し、あたかも重力空間の中で超大質量物体へと向かうかのごとく線を曲げることである。抹消や途絶に向かうはずの地球規模の資本主義(あるいはテコノミックな特異点)がとるヴァーチャルなTeleoplexy的軌跡をまさしく提示するために、いくつかの個体化した中間項の事例(例えば州政府が明瞭だ)へと、左派加速主義により戦略的な投資がなされるということさえもまたありえそうだ。

§20.もしこの段階までのあいだに加速主義が不可能な企図であると明らかになるとすれば、それはTeleoplexy的な超知性に関する理論的理解がそれ自身以外のものによっては完遂されえないからである。問題の焦点は準最終的な事柄のサイバネティックな強度から区別しえない。すなわち、認知的に自己範疇化するテコノミックな特異点という事柄の。それの困難、ないし複雑性は、まさしく、それが何であるかということにある。つまり、リアルな逃走だ。それに手を伸ばすことは、それゆえ、それの帰結的な自己省察の時期を部分的に先取りすることである。すなわち、それを通じて、近代性の歴史が、始めに、十分に換算できるような、テコノミックな通貨の【the techonomic currency through which the history of modernity can。この一文は以下のようにも訳しうる。それを通じて、近代の歴史が、初めて、適切に名づけられることのできるような、テコノミックな思潮の】。いかなる他の選択肢もなく、適切な暗号鍵のみが与える、ありふれた経済的な標徴の中へと障蔽されているが、しかし厳密に引き出しうる、運命あるいは宿命という単位において、ただ己が調査に投資するのみである。加速主義はただこの務めが自動的にそれへと割り与えられているがゆえに存在するだけである。宿命は、己が名を持つ(だが無貌だ)。

■概略「Teleoplexy――加速に関するノート」私解

【§01-07】近代文明は、加速度的に展開していく諸事態を、減速し統御することで進歩してきた。つまり、科学技術の革新と経済市場の拡大という並行する事態を、人間に望ましい程度に、また人間に望ましい方向に抑制し補正するというのが、近代文明の定石であった。まず野放しにできない爆発的な運動が起こり続けていると想定され、それをいかに誘導するのかが未来への問いと考えられてきた。それは要するに、「どんな類の未来が我々の欲するものか?」とまとめられる。加速主義は、人間的な未来のために抑制や補正を行うというこの近代性への、絶えざる批判である。
【§08-10】批判以上のものとして、加速主義のスタンスを肯定的に提示する造語が「Teleoplexy[目的卒中]」である。それは近代文明の観点からは無目的に映る、爆発的な運動そのものを秩序として浸透させるのが目的であると捉えるような目的論である。それは資本主義一元論を要請する。資本化というメカニズムを自然史的に記述すること。いわばテコノミックな自然主義的視座を打ち立てる必要が出てくる。資本化のメカニズムの自然史的記述が完遂されるとは、この世界に値段がつくことであり、それはまた、この世界に何ができる(起こりうる)か、確定することでもある。
【§11-14】「Teleoplexy[目的論卒中]」という加速主義のスタンスが要請する視座を理論的に形にする試み、つまり、価格情報を自然主義的なデータへの換算する試みが直面する難点として、商業的相対主義、歴史的なヴァーチャル性、そしてシステムの再帰性の三つが挙げられる。順に見ていく。
1、商業的相対主義による困難。商業主義の下では絶対的な価格は存在しないように見える。加速主義は、経済的価値とは何かを定義しなおさなければならない。通貨を媒介にした需要側と供給側のモノの交換に際して生じる、ある通貨の数量という相対的な量とは異なる仕方で経済的な価値を定義できなければ、価格情報の自然主義的なデータへの換算は遂行できない。
2、歴史的なヴァーチャル性による困難。全てに価格がつく以上、未来にも見積もりがつかなければならない。テコノミックな自然主義的視座から、大破局のような想定外の出来事さえも繰り込む形で、未来の出来事の連なりや分岐が果てまで予期されて、価格情報が確定するのでなければならない。加速主義は、望ましい未来ではなく運命を記述する必要がある。
3、システムの再帰性。見積もりがつく以上、未来は過去や現在と同様には、確定していなければならない。しかし、当座の見積もりを出す試み自体が時間的な幅を持っており、当座の見積もりを変動させてしまう。だが、これは近代性の罠である。ここにあるのは近代文明と同様の再帰的構造である(近代文明が求める新しさや発展とは、その定義上、近代文明が現状で新しさや発展として把握するものの先である)。この構造を脱するために、テコノミックな特異点において、Teleoplexyな予期は運命であるという想定の下で、技術革新と経済市場拡大を加速させていく必要がある。
【§15】上記の主要な三つの理論的困難の他にもいくつかの課題がある。
【§16】現行の経済学は、商業的また政治的な企図が混ざってきたために、加速主義のスタンスから見て不十分な仕方でしか洗練されていない。集団的な行動を統御する学知として、とは異なる仕方で、経済学の再構築が必要である。
【§17】人格性、行為主体性、そして財産【property】に関する伝統的な法的定義は、所有権【ownership】という(加速主義からすると)深刻な欠陥をはらんだ概念にもとづいている。これらの定義や概念の批判的検討を通して、絡まりあった自己保存への意志と保守主義を解除しなければ加速は統御され続ける。
【§18】テコノミックな発展を精確に把握するには、監視社会化の進展にもかかわらず、現行の調査では不十分である。
【§19】支配や従属関係の維持、自己の保存や拡大再生産といった、いまだに人類的な目的に従事する集合体による加速の妨害を想定しうる。ただし、それらの諸妨害が合成された結果として、テコノミックな特異点は到来するのが運命だ。
【§20】テコノミックな特異点の到来が想像できないのはそれが人類の知性の限界だからであり、超人というより超知性が要請されることを示しているに過ぎない。運命を予見するものたちにより運命は実現する。

以上.

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