千葉雅也さんの2021年1月22日付ツイートに関連する私見[2021.01.28]

はじめに

共著『闇の自己啓発』にて千葉雅也さんに推薦の辞を頂き御礼をお送りしたものとして、また、自分でもレオ・ベルサーニなどを読んでいきつつ、千葉さんの言葉に励まされながらある種のクィア批評に触れてきたものとして、自身でも私見を記しておくべきだと思いました。ただし私は、クィア研究の教授資格に類するものを持たない点で「教授」ではなく「一般人」か、ないしは制度上「教授」でもないのに研究書や論文を読みかじりあれこれと己で考えて話をしようとする意味で、「半可通」であるので、千葉さんの言葉を専門家としてこう受け取ったといった話はできません。以下は私が千葉さんの幾つかのツイートをどう読み何を考えたか書いたものですが、せいぜいが「半可通」の私が専門家の言葉の是非に気軽に口を出せる風潮があるということに何か妙な感じもします。以前、カムアウトをなさっているレズビアンの研究者の発表記事やツイートに対し「一般人」が攻撃的な態度でコメントをする例を私は目にして、これは何かおかしいのではないかと思ったのですが――そのときは、このような記事を書きました――今回の出来事も私は、何よりもカムアウトなさっているゲイの研究者の発言に「一般人」が攻撃的な態度でコメントをした例と感じてしまっており[注1]、よしんば、レズビアンとゲイでは状況が異なる側面も見出しうるといった議論を私も聞き及んでいるにせよ、己が何者かカムアウトしていない人間(私)がそれを言うのも全くおかしな話だと思うので、まず、名の知れた識者だからと、あたかも壊れるまで叩きうる玩具を扱うがごとき攻撃的コメントを投げつけてもよしとする風習はおかしいと思っていることを表明させてください。ただ、私にとって二つの出来事が全く同一の事態に映る、というわけではありません。私自身は、田崎英明『ジェンダー/セクシュアリティ』2000や、竹村和子編『“ポスト”フェミニズム』2003、また村山敏勝『(見えない)欲望へ向けて』2005に三浦玲一「クィア批評」(大橋洋一編『現代批評理論のすべて』2006所収)などと巡り合った2010年代前半の時期に、千葉さんの批評や論文に触れ、私自身、こういってよければ、触発され、それでクィア理論やクィア批評の著作を少しずつ読んできた身でした。それでいま私は、ちょっと冷静には文を書けなくなっています。

注1:この「何よりもカムアウトなさっているゲイの研究者の発言に「一般人」が攻撃的な態度でコメントをした例と感じてしまっており」という一節を引用して、私の認識が「異常」ではないかとご指摘なさっている発言を、お見掛けしました。私が「異常」であるかどうか、自分では判断できませんが、冷静でなかったのは確かで、今もあまり冷静ではありません。というのは私が目にした諸発言の中で、カムアウトした同性愛者男性の発話した内容を批判するのみならず、例えば(同性愛者男性と異なり)自分は「結婚」しているので「女性」に理解があると主張しているようにすら映った「異性愛者男性」の発言を見かけてしまったり(「結婚」でなくても「学べる」し個人差も大きいとその「異性愛者男性」が付け加えていたにせよ)、その方の発言とは別に、批判というよりもセクシュアリティを揶揄または無視した嘲笑に映った発言も目にしてしまったりしたからです。これを書くときそういう諸発言が頭にありました。それだけでなく「追記[2021.01.29]」の項で書いたような諸々、私自身がいじめを受けた際の体験の記憶などを想起してしまったということも私の「異常」な認識に関わっているのではないかと思います。一連の言説の中に、自分のいじめ体験との関連性を見出してしまったことが「異常」だと言われると、一考の余地は感じます。私が冷静でないのは、自覚があります。上記のような発言を目にしたことや自身のいじめ体験を想起してしまったことなどが私の記述に影響を与えているので、この記事が「異常」かはともかく網羅的な記述ではないのは確かです。この記事が、一連の言説で挙げうる全文脈を列挙したものではなく、私でも説明しうる幾つかの文脈を述べたものであるのは確かです。この記事が全てを説明するとは自分でも思いません。また、私が「追記[2021.01.29]」で追補した以外にもこの記事で扱いきれなかった様々な論点があるのも強調したいと思います。その上で、「研究者の発言に「一般人」が攻撃的な態度でコメントをした例」という箇所についてさらに述べてみます。私は、ある制度上で専門家だと保証されている人の見解を、批判ではなく罵倒したり嘲弄したりする、自身が専門家だとは名乗らない人のことを念頭に置いて、「「一般人」が攻撃的な態度でコメントをする例」と書いていました。SNS上でのやりとりにはそのような人の声しかなかった、と言おうとしたのではありませんでした。ただし上で触れた「異性愛者男性」の発言よりずっとひどい表現を含む非専門家の方の言も、私は眼にしたと感じていました。なので、以前私が目撃した別の「「一般人」が攻撃的な態度でコメントをする例」と同様に「研究者の発言に「一般人」が攻撃的な態度でコメントをした例と感じてしまっており」と、私は書きました。もっと適切な表現がうまく見つけられずに、そう書きました。私の一連の記述が、いじめを受けた体験の想起ほかの事情で、私がうまく冷静に考えられていない状態だったからこうなった可能性は私自身でもかえりみたいと思います。この記事に関しては、私自身でも、もっと冷静に考えられるようになるまで、少なくとも一旦は、この注を最後に加筆を止めたいと思っています。[2021.02.03.01:41]

以下では、私の限定された視点からの意見を述べます。私の力不足(すぐに参照できる文献の不足、論理的文章の作成能力など)から、そして私自身の体験と紐づいた、未だにうまく制御できない諸々の感情などから、傍から見ればよりいっそう適切な文脈や用語を与えたり、要約したりするのが容易な記述や、事実誤認、1日程度は調べればわかるはずの事柄への言及不足などが以下には見出されてしまうかもしれません。また今日まで連ねられた様々な方のコメントの網羅的把握はしきれませんでした。何卒ご寛恕ください。

1私が考えうる「誤読」の例、並びにそれが「誤読」であると私が言う理由

私が表題に挙げた千葉さんの当該ツイートとは、柴田英里さんによる生理をめぐる発言を念頭に提示されたものです。

ここでいう「柴田さん」の発言は、千葉さん自身がRTなさっている、以下の記事(2021年1月21日付)で示されているものだと思われます。

ここでまとめられている柴田さんの発言のうち「“生理をもっとオープン”にという人はいるのに、なぜ“射精をもっとオープンに”という人はいないのだろうか」という箇所が、とりわけ、以下の千葉さんのツイートの内容と関連が深いものであるように映ります。それでは、2021年1月22日になされた、Twitterの制度上、リプライとして繋げられているツイート3つを示します。

※3番目のツイートの「このツイート」とは、1番目のツイートを指します。

まず、巷間でなされたと思われる「誤読」の検討から始めます。[注記:以下は、これだけは避けなければならないと私が考える「誤読」に関するひとつの例です。千葉さんのツイートに対してSNS上でなされたと思われる全てのコメントの論点を包括しているわけではありません。2021.01.30.00:07筆]

ざっくりとまとめれば、それはこのような「誤読」です。――俗説として、「女性の生理」のように「自然」なものとして「男性」の「射精切迫」を喩える言説は、この社会では「男性」による「女性」に加えられる性暴力を「そうならざるをえない」ものとして正当化する(免責する)ために用いられてきた。そのような俗説が幅を利かせているという認識の下で見たとき、当該ツイート群は、たとえ「男性を「能動性、自由意志のジェンダー」だと前提する誤り」を批判して「ジェンダー対等的な見方」を打ち出すためであれ、「男性」の「マスターベーションを必要性で捉える」という物言いゆえに(「マスターベーション」は他人との性行為の下位互換であるという仮定を差し挟むとするならば)、「女性」の望む望まぬを度外視してすらも「男性」が「女性」との性行為を「切迫が生じるので、する必要がある」という、性暴力を容認しかねない見方を強化してしまうのではないか。――上記のような感想が抱かれたとしたらそこには明らかな「誤読」があると私は思います。

上記を私が明らかな「誤読」と呼ぶのは、上の読解(というよりは、文言の切り張りによる主張の改変という方が適切かもしれませんが)を成立させるのが、発話者のセクシュアリティーー千葉さんがこの社会でゲイとしてカムアウトし、その立場から公に発言していること――を無視した、異性愛中心主義的な発想だからです。それだけではなく、例えばマスターベーションを対人性愛者が性行為の下位互換として行うとする見方など様々な視野狭窄というか偏見が含まれているとも思いますが、何より致命的なのはツイートの発話者(千葉さん)が身を張って示してきたはずの立場性を無視している点すなわち異性愛中心主義的観点の自明視であると思います。つまり「男性」の「射精切迫」が「女性」への欲望に直結するという主張を上記ツイートから読み取るのは、「男性」なるものの典型例は異性愛者であるという異性愛中心主義的男性観に根差した「誤読」である、と私は思います。

それでも、こういう反論の余地がある、とされるかもしれません。――現に社会は異性愛中心主義ありきの俗説が幅を利かせているので「誤読」が発生する余地のない表現を選ばねばならないのではないか。――しかし、この類の物言いが異性愛中心主義の再生産(この社会は異性愛者中心だと、そうは思っていない人々に教え込む悪循環)を助長してしまうのではないか、との再反論も出せることでしょう。例えば以下の千葉さんのツイートはそうした陥穽への抵抗の企図を念頭に置き読まれるべきものだろうと私は思います。

2千葉さんのツイートを読解する(ベルサーニを念頭にした江永の読解の例)

それでは柴田さんによる「“生理をもっとオープン”にという人はいるのに、なぜ“射精をもっとオープンに”という人はいないのだろうか」などの話題を受けて「フォロー」として提示された千葉さんのツイートは、どう理解するべきでしょうか。もちろん、まずは各々が字面を丁寧に読むというのが始めになされるべきことだと思いますが、以下では、私がそれをどう理解したかという一例を示してみます。ざっくりと言えば、私は千葉さんのツイートを以下のような発話だと理解しています。――「男性」と「女性」は相容れない別のものだ、という分断を強化させがちなトピックを取り上げなおし、例えば、同じ「人間」だから性差は関係ないといった物言いで反駁するのとは別のやり方、つまり「男性」にも(「男性」ならではとみられる要素においてこそ)「女性」と「似たところ」が見出されるのだというような(私の理解では)ベルサーニ的な捻りを加えた再解釈により、当該トピックと、その是非や真偽の議論が招きがちな、二元論の固まり方を変える実践だったと。

なお以下の文章では、月経と「女性」性、射精と「男性」性が紐づけられているかのような、ある種の二元論的な性差観が検討されています。例えば、「産む性」と「産ませる性」、「男性」と「女性」、「異性愛者」と「同性愛者」等、様々な諸ジェンダー諸セクシュアリティの複雑な絡まりや重なりは踏まえた上で、なお、そうした二元論的なステレオタイプの「善用」が、ここでの取り組みとなっているからそのような言葉遣いをしているのだ、ということを共通了解としたいと思う旨、どうかご寛恕ください。「男性」と「女性」からなる二元論の批判的な考察に関する話を、以下で、千葉さんのインタビュー記事(雑誌『WIRED』日本版Vol.36)から引用します。

つまり何の〈らしさ〉ももってない人はいないということです。〈らしさ〉の解体とみんな安易に言いますが、〈らしさ〉を強制して全員を同じく染め上げようとすることへの抵抗という意味では賛成です。
しかし、〈らしさ〉が一切なくなることはありません。だから〈らしさ〉の暴力性もなくならない。そうである以上、その暴力性を減らすことを考えようということです。できるだけ〈らしさ〉を善用する、あるいは〈らしさ〉を複数重ねるということです。
[……]
人間は半分動物で、半分は人為的構築物であり、そのハイブリッドであることが人間の特徴です。その意味でも「男らしさ/女らしさ」には、素朴な「雄らしさ/雌らしさ」という部分があり、解体しきれないものです。重要なのは「ジェンダーを問題にする必要がないところで問題にするのはやめてくれ」ということです。ただ、ジェンダーの問題にかかわる場面とそうでない場面の区別は難しく、おそらくそれを一意に定めることはできません。
(千葉雅也「いまあえて主張しないといけない。複数性とは「悪」である:これからの〈らしさ〉のゆくえ #1 」MANAMI MATSUNAGA構成,2020,03,19)

千葉さんの用いる「男性」と「女性」という語の文脈として、私は上記記事を念頭に置いています(そのような見方で千葉さんの文章を読みました)。

大雑把な言い方を許してもらえれば、千葉さんは哲学研究を専門にしつつ、テクストの捻って読解を提示してきた書き手である、と言えると思います。例えば千葉さんの博士学位論文審査要旨では、その論文が「存在のセクシャリティにかかわるドゥルーズ哲学の内的な限界をもえぐり出す批判的試み」でありまた「哲学固有の文脈を、その隣接領域である精神分析の理論との対決を通じて、脱構築し、哲学の言説そのものを表象文化論的に批判するテクスト読解を行っている」との記述があります。千葉さんがここで取り上げている当該ツイートでも〈らしさ〉が惹起しがちな悪しき「シンプルな対立」の「脱構築」を念頭に置いていたということは、例えば、以下のようなツイートと合わせて考えた場合、妥当な読み筋だろうと私は思っています。

千葉さんが当該ツイートで示した、あるトピック(「女性の生理」と「男性のマスターベーション」とに関連する)の再解釈は、「男性と女性の「分身性」というテーマ」を念頭に、例えば〈男性性=能動的/女性性=受動的〉といった対立構図と紐づいた分断意識を強化するのではなく、むしろそれらの差異を認めつつ「似たところ」を見出すという、私の見立てではベルサーニにも通ずるところのあるものだ、と私は理解しています。以下のツイートでも示されているような、当該の3つのツイートの勘所として千葉さん自身が強調する「同じ」ことと「共通性」や「似ている面」などの意味合いの違いについては、千葉さんがたびたび言及してきた、レオ・ベルサーニの議論を踏まえると、呑みこみやすくなるように、私には思えます。

ベルサーニは、従来の同一性と差異をめぐる議論が敵対的な対立を煽る傾向があったことを批判して、「ホモ-ネス」(「同一性」と別様の「同じさ」)というコンセプトを打ち出しています。以下、ジュディス・バトラーの研究書などでも知られる藤高和輝さんのベルサーニ評と、ベルサーニの文の私訳とを引いてみます(私が以前書いたこの記事から孫引きさせてください)。

ベルサーニはアイデンティティを性急に「乗り越える」よりも、それを「たとえ一時的にではあれ受け入れる」(Bersani, 1995, p. 5) べきであると主張し、さらに彼はゲイのアイデンティティや欲望をラディカルに引き受けることを通して、そこに自己同一性をむしろ破壊してしまうような「ホモ‐ネス」を見出そうとした(したがって、彼がクィアを批判したからといって「本質主義」「アイデンティティ主義」であるとみなすことは誤りである)。(藤高和輝「アイデンティティを引き受ける : バトラーとクィア/ アイデンティティ・ポリティックス」(『臨床哲学』第16巻 2015年 29頁))
ホモネスに関する新たな内省は、差異の値付けの健康によい仕方での解除へと――あるいは、より正確には、差異を克服すべきトラウマとみなす考え方(とりわけ、性別のあいだにあるとされる敵対関係を亢進する見方)ではなくて、むしろ同じさを脅かすことなく追補するものとして差異を捉える考え方へと――我々を導くことだろう。(ベルサーニ『ホモズ』1995序文第8段落)

またベルサーニがもっと直截な言で、「差異」への寛容の今日的な在りかたを批判している記述として、「精神分析と美的主体[Psychoanalysis and the Aesthetic Subject]」(2006初出)の一節を以下に引いておきたいと思います。

差異と折り合いをつけるのが我々の文化における支配的な関係性の様態であった。そうした折り合わせは第一に、差異を圧倒したり抹殺したり、また最もよい場合でも、それを容認するという試みに存したものなのである。我々の最もリベラルな訓令とは以下のようなものであった。すなわち、諸差異がコミュニケーションにしくじることを事実上保証しているような世界でコミュニケーションをとる(またはとる振りをする)術を学びなさい、と。[Leo  Bersani『Is the Rectum a Grave?:  and Other Essays』 2009,p.150,私訳]

「性別のあいだにあるとされる敵対関係を亢進する見方」とは別の「差異」の捉え方、それは、「差異」は確かにあるが、「同一性」が大切な然々の話ではそれを持ち出してはならないと禁圧する(あるいは、任意の話題で逆に「同一性」を口にするのを禁圧する)といった「アイデンティティを性急に「乗り越える」」捉え方ではなく、一般には相容れないとされる各々の個別性の中にも「似ている面」あるいは「ホモ-ネス」が見出されるとする捉え方です。例えば「女性」や「男性」という個別性を切り捨てた「人間」としての「同一性」ではなく、その「人間」という「同一性」に回収しきれないとされるところの「男性」や「女性」それぞれの中にすらも見出される「似たところ」を語るという試みはこうした文脈で把握できるものだと思います。

もちろん、例えば「女性」限定でも「男性」限定でもない要素として然々の「受動的面」を「人間」の要素に含みこめば話が済む、というものではありません(また私は先の「女性」や「男性」を数え上げうる限りの諸ジェンダーや諸セクシュアリティに増やしたり、「人間」を「生命」や「感覚や知性を持つもの」などに置き換えたりすれば、ここで言おうとする話が済むともどうにも思ったりできません)。「ゲイのアイデンティティや欲望をラディカルに引き受けることを通して、そこに自己同一性をむしろ破壊してしまう」のがベルサーニの試みだということを踏まえれば、千葉さんのツイートは――まずは「女性や男性の「分身性」を考えるというテーマ」を念頭におきつつではありますが――「射精切迫」を「ラディカルに引き受けることを通して」、「同性愛」と「異性愛」の分断や「男性」と「女性」の分断で成り立つような「自己同一性」を「破壊してしまう」というよりもむしろ「分身」化する――私の把握する限りでは、各々なりの仕方で銘々に体現されるものとして見出しなおす――という試みの込められたツイートとして読解すべきものになると、私は感じます。

千葉さん以外の言葉も交えつつ、まとめます。千葉さんによる当該ツイート3つは、柴田さんによる「“生理をもっとオープン”にという人はいるのに、なぜ“射精をもっとオープンに”という人はいないのだろうか」などといった問題提起が、従来「男性」(の異性愛者)による「女性」への性暴力を認容するため用いられてきたとされる構図、すなわち「生理=射精」なので同意問わず「女性」側へ「男性」側が性的に迫ってしまうのだとというような、異性愛中心主義的かつ女性差別的な構図へと、回収されてしまわないようにするために、ある方向へと「議論をうまく展開」しようとして述べられたものであり、どのような方向へかというと、「男性」の「アイデンティティや欲望をラディカルに引き受けることを通して、そこに自己同一性をむしろ破壊してしまうような」もの、いわば「男性と女性の「分身性」」を見出していくという方向へであった、と私は認識しています。そのツイートの文脈としては、レオ・ベルサーニなどの、クィア理論の学知があった、と私は認識しています(それがどういうものかは、私なりに上で述べてみました)。

3千葉さんのツイートとベルサーニの議論とのさらなる読み合わせ(江永による一例)

また、千葉さんのツイートの、ベルサーニの議論に寄せられている面として私は、以下のような身体のままならなさ、たまたまこの身である己の「どうしょもなさ」の話もあげうると思います。例えば、千葉さんの以下のようなツイートはベルサーニ的な議論に裏打ちされていると私には感じられます。

ベルサーニの著作でいう「ホモ-ネス」の見い出しは、また千葉さんのツイートでいう「同じではないが「似ている面」」の語りは、「共通性を見出す」と同時に既成の「自己同一性」の輪郭を崩すような効果も備えていると思います。千葉さんはとりわけ性感の自己破砕的な(私の理解では、統一された主体という認識に伴う主意主義的な心身観の想定や自己効力感などをくじくような)側面というベルサーニ的なモチーフを強調してもいます。

遡れば、千葉さんはベルサーニについてこのようなツイートもしています。

前景化するものの差、その度合いは各々に異なるにせよ、「共通性」を見出すことによる「二元性」の揺るがせないし「破壊」と、対他的にあるものとしての「自己」の揺るがせないし「破壊」とが、連動している、というより表裏一体であるのではないか、ということをベルサーニも千葉さんも述べているように私には思われます。例えば、ベルサーニの以下のような議論は、「どうしょもなさ」の「否認」ゆえに、ひとは他人の差異性、他者性を攻撃したくなるのだと述べている一節であるようにすら私の目には映ります(再びベルサーニ「精神分析と美的主体」から引用します。結論部分です)。

 同一化についてのセミネールの中で、ラカンは問うている。私の犬と人間主体のあいだには何の違いがあるのか。彼は、彼の犬が決して自らを何か他のものと取り違えることがない一方、他への誤った同一化が人間なるものの構成要素である、と答えている。ある意味で、それゆえ、ラカンの犬は彼の主人よりもすぐれた、世界としての世界の観察者である。私がここで議論してきたことに照らせば、誤った同一化とは、世界が独立してあると認めるのが我々にできないことに、またはそうするのを我々が拒絶することに根差した機制なのだ、と我々は言えるだろう。この拒絶自体が、人間の幼年期の長引く無力さ――動物の中でも唯一の――と他者への依存の帰結なのかもしれない。もしも、フロイトが言うように「そもそもの始まりにおいて……外界、客体、そして憎しみの対象は同じものである」ならば、そしてもしも、同じくフロイトが言うように、「さまざまな対象によって喚起されてしまう不快反応の表出の形なので、[憎しみは]自我保存の諸欲動との内密な関係をずっと保持している」ならば、その理由とは、外界が潜在的に脅威であり、例外的に長い我々の原初の時期のあいだ、そこで我々を守ってくれるものが身体的にも心的にないからである。[……]しかしながら結びに述べれば、我々がいつくしみに十分に満たされないことが人間の運命の複雑さの一部をなしており、それゆえ我々は――断続的にだけでも――他者性を抑圧するという幻想的享楽が、その中に身を寄せる我々自身を見出すことのよろこびを凌いでしまいうるということも、きっと主張するのを止められないだろう。[Leo Bersani『Is the Rectum a Grave?: and Other Essays』2009p152-153私訳]

ベルサーニは、外界と切り離されて自存するような「能動性、自由意志」の担い手として自己を認識し自己と外界を対立させるような図式自体が、人間のままならなさ(上記でいう「人間の幼年期の長引く無力さ――動物の中でも唯一の――と他者への依存」そして「我々がいつくしみに十分に満たされない」という「人間の運命の複雑さの一部」)を認めまいとする機制、言い換えれば差異としての他を、愛して自分のものにしたり憎んで破壊したり、とにかく自己の輪郭のトラブルゆえに関わらずにいられなくなる機制を作動し続けているのだ(掻けば掻くほど痒くなって皮膚を搔いてしまうかのような塩梅で自や他の境界をどうにかしようとして暴力の悪化を生ぜしめてしまうのだ)、と論じているように思われます。千葉さんによる、「どうしょもなさ」を「否認」し「表の言葉」のみをドレスコード化することで「問題」が生じやすくなるという指摘を私はこうした文脈で理解していました――「もっともリベラルな訓令」ですらそれだけでは「他者性を抑圧するという幻想的享楽」の圧倒を抑えきれない、というベルサーニ的な議論を念頭に。――ベルサーニの議論や精神分析の理論については、これ以上深入りせず、いったん結びます。

4当該ツイートとジェンダー学、男性学などとの接続に関連しての私見

千葉さんは、性科学的ないし生理学的にもある程度は語りうるであろう人体の在りように「振り回される」ような「受動的面」を抱える人間のある種の「どうしょもなさ」に注目するような視座において、「女性の生理と男性のマスターベーションには似たところがある」と述べたのだ、と私は理解しています。千葉さん自身、「受動的」な観点から見て「似たところがある」のが千葉さん当該ツイートの勘所だとする以下のツイートをRTしています。

【仮に〈「女性の生理」は「自由意志」と無縁の「受動的」なものであって、(「男性の」のみならず「女性の」も含む)「マスターベーション」は「能動的」に「自由意志」によって行うものだ〉といった捉え方をするならば、「男性」と「女性」の隔絶を強調してしまうのではないか】という問題提起自体は理解を拒むものではないと私は思います。しかし、それは観念的で、記号を操作するといった水準の話に過ぎないのではないか、それの何が現に問題だというのか、といった訝しみも発生するかもしれません。私としてはこう応答したいと思います。〈「男性」には「女性の生理」に相当するような「自由意志」と無縁の「受動的」なものがない〉という見方に対して警戒を示す所作は、それを呼び水に〈男性性=能動性=加害者性/女性性=受動性=被害者性〉という問題含みの構図が暗黙裡に導入されてしまうという事態に対する、危惧に裏打ちされているのではないか、と。先の章段でも少し触れましたが、例えば「男性」が「男性」から性暴力を被るリスクがないという発想には、異性愛中心主義に陥る危険があるのは確かでしょう(私が念頭に置くのは例えば、「刑法が改正されても「性暴力被害者は女性、加害者は男性」との認識は根強い」との一節がある『西日本新聞』2018年1月22日最終更新の記事「「同性間は性暴力ではない」警察の理解不足、根強く 男性やLGBT、知識に欠ける対応で二次被害も」などです)。この意味で千葉さん自身もRTしている以下のツイートが示す「レトリック」への警戒心はむしろ、(警戒する対象、注意する力点が別様だとはいえ)千葉さん自身の抱いているものでもあるのではないか、と私は感じます(少なくとも、「素人」のひとりであろう私自身はこういう「レトリック」への警戒心がありますが、私は千葉さんを非難する多くのツイートよりはむしろ千葉さん自身のツイートの方にこそ、そうした「思考を操る」ような「レトリック」に己が抗うための糸口を見出せると感じることが、多くの機会で、あります。)

「男性の射精はできるときにする、しなければしないでいいのだろうという認識」が「男性を「能動性、自由意志のジェンダー」だと前提する誤りと結びついて」いき、ついには、この「能動性、自由意志」が「加害性」と混同されてしまう。――このようなステレオタイプ(「男性性」=ある種の〈らしさ〉)の悪しきレトリカルな横滑り(害のある濫喩)、より暴力的な意味拡張の浸透を抑えるための試みのひとつとして、「できるだけ〈らしさ〉を善用する、あるいは〈らしさ〉を複数重ねるということ」という千葉さんの実践が、言い換えれば、この記事で扱ってきたところの「性に関わる自然的な「そうならざるをえない」が定期的に訪れるという意味では、女性の生理と男性のマスターベーションには似たところがある。[…]/[…]男性には射精切迫に振り回される受動的面が多分にあり、マスターベーションを必要性で捉える方が、ジェンダー対等的な見方だと思う」との、千葉さんによるSNS上での再解釈の実践が、あったのではないかと私は考えており、それは人文学的で批評的な営為のひとつだと、私は感じています。

私見では、千葉さんの当該ツイートは、いわゆる「男だってつらい」「男がこうなのは仕方がない」といった反動的(と認定されるような)言説を批判することにも、資するものです。「男性」の「射精切迫」から見出されるという「能動的な行為の中にある受動的な面」を考える視座は、「刑法が改正されても「性暴力被害者は女性、加害者は男性」との認識は根強い」今日において、「男性」が「性暴力」の「加害者」になりやすいのは「自然」だといった物言いを批判するためにも有益でしょう。『痴漢外来――性犯罪と闘う科学』の著者原田隆之さんの記事や、『痴漢とはなにか――被害と冤罪をめぐる社会学』の著者牧野雅子さんの記事を読むだけでも、「男性」がただ「自然」な「性欲」のために「女性」を対象とする性的犯罪(例えば「痴漢」)に走りがちといった説明では抜け落ちる要因があるということが私には明らかに思えます。当然ですが、各々の「性衝動」が何らかの「加害者」となること、つまり具体的な「性犯罪」を実行することへと「自然」に短絡するはずもなく、そこには様々な諸力や諸装置(犯罪行為への依存症とでも呼ぶべき状態にひとを至らしめる諸々――先ほどとは別の原田さん記事へのリンクです――や、犯罪行為を軽視させたりそそのかしたりするような言説など)の介入があります。千葉さんの当該ツイートによる「男性」の「能動的な行為の中にある受動的な面」へと着目させる当該ツイートは、私の観点で言えば「性犯罪」の発生を現に根絶する試みにも益するであろう、こうした諸相(犯罪者の「能動的な行為の中にある受動的な面」)についても注意を向け、見際めていかねばならない、と強調する側の視座だと思います(そしてそれは、例えば「専業主婦」の「万引き依存症」などが、当人に厳罰を下すだけで済む問題ではなく、「能動的な行為の中にある受動的な面」を考えてそれを変えていくべき社会問題としても捉えられねばならないと考えるときひとが立つ視座にも通ずるところがあると私は思います)。実際には、千葉さん自身の「責任」に対する議論は、上で私が書いたものよりももっと丁寧かつ複雑なもので、その議論のうちごく一部の面しか私はここで扱えなかったのですが、以下のツイートはここで引用してもよいものと私は思っています。

また、「男性」の「射精切迫」並びに「マスターベーション」の「必要性」について、男性学でどのような研究があるのか、これらを書きながら私は気になってきました。「男性」は能動的に快楽を得るために「マスターベション」に勤しんでいるとは限らないという話は、検討に値すると思います。例えば、森岡正博『感じない男』初版2005決定版2013の、マスターベーションに関する内省的記述では、〈男性には「射精切迫に振り回される受動的面」があるのではないか〉という見方に適合的な内省的記述があったと私は記憶しています。ただし私自身は森岡さんの著作でいうところの「むなしさ」を経験的にはうまく理解できません。加えて、森岡さんの記述は真摯な内省と感じるが内面化されたイデオロギー(赤川学さんのいうところの「オナニー有害論」的な要素)の反映にも映るという印象も持っていました。しかし、このような内省を記した類書を私はほかに知らないので、この本は男性学的な観点から性行動を解釈する際に重宝するとしか評価できないのもまた、私にとっては確かなことです。ある「男性」の性経験や身体感覚がどの程度男性一般なるものに妥当する知として敷衍できるかは、他の様々なカテゴリーの当事者言説と同様に要検討の事柄であるとは思います。いずれにせよ私は、哲学や社会学に加えて、性科学や人類学を始めとする現代の「男性」の性行動や性文化に関する学知をもっと勉強せねばならないだろうという気持ちになりつつあります。

5当該ツイートと性科学、フェミニズムなどとの接続に関連しての私見

千葉さんは、2020年8月30日付のツイートで、個々の人生が既存の社会問題の事例集や一覧表に分類されてしまうような状況を、批判的に捉えています(近時SNSや匿名ブログでそういう類の私語りやニュースがバズっているような印象は、私も持っています)。もちろん、これは2021年1月22日発言と短絡的に結び付けられない程度には時系列的に隔たったツイートですが、千葉さんが、柴田さんの出演した番組におけるフェムテックの話などを中心に語るのではない仕方で柴田さんの言から議論を展開するという姿勢を取る理由を汲み取りうるツイートとして捉えることができるように思います。

なお、今回の当該ツイートに関連すると思われる千葉さん自身の「性に関するファクト」の扱いは、以下のようなコメントで見解が示唆されています。

以下は千葉さんのツイートが念頭に置いていた柴田さんのコメントがなされた「フェムテック」関連のところから、「生理」と性科学、フェミニズム、クィア批評などの接点に関連する話をします(なので、千葉さんのツイート内容からは遠い話になると思います)。またこのニュース映像自体は申し訳ないのですが未見で、私は簡便にまとめられたアーカイブ記事(冒頭リンクを貼ったもの)を閲覧したに過ぎない点はあらかじめ申し上げておきます。

もちろん、そもそも柴田さんの発言した『報道リアリティーショー#アベプラ』の「普及するフェムテック、“もっと話そう”というムーブメントに戸惑う声も? 和田彩花と考える、生理のこと」(2021年1月20日)が、今日でのフェムテック普及を妨げるものとして従来的法制度や月経のタブー視を挙げており、「女性の生理」の負担が公にはあまりに顧みられずに、私的に「女性」個々人に背負わされてきたのではないか、という問題提起に裏打ちされていた面がある番組だというのは、踏まえられてしかるべき事柄でしょう。日本の産科学的知識の普及状況は議論の対象になっているようです。例えば田中重人「「妊娠・出産に関する正しい知識」が意味するもの:プロパガンダのための科学?」2016などによれば、2015年時点での高校保険副教材にも(いわゆる「卵子の老化」言説に関連して)相当に問題がある記述が含まれていたようです。とはいえ、そうしたことを踏まえた上でなら、柴田さんの言から議論を展開した千葉さんのツイートを受けて、フェムテックの前提とする性差観がどの程度「ジェンダー対等的な見方」になっているのか、などといった問いを立てることも可能だと思います。参考として先ほど言及した田中論文の結びの一節を引きます。

「性差」ということばが男女共同参画基本計画に入ったのは、2005 年の改訂のときである。このなかには、いわゆる「バックラッシュ」を反映した文面もある。「性差に応じた的確な医療である性差医療」なる文言が登場したのもこの時だった。性差や医療に関するどのような知識であれば「的確」なのか。それは誰が決めるのか。その判断基準は、平等の理念とどうかかわるのか。専門家によるプロパガンダが顕わになってきた時代に、知識の生産・流通過程をきちんと監視し、評価することがますます重要になってきている。田中重人「「妊娠・出産に関する正しい知識」が意味するもの:プロパガンダのための科学?」『生活経済政策』230号,2016年

当該ニュースのリード文で「フェムテック」は「FemaleとTechnologyを組み合わせた造語で、生理・妊娠・更年期など女性特有の課題をテクノロジーで解決しようとするサービス・アイテムのことを指す」とされており(「女性特有」という限定も相まって)、上記論文で引かれる「性差に応じた的確な医療である性差医療」めいた文脈につながってしまう余地も感じられます。もちろん、それだけでよしあしを言えるとする立場は私も取りません。ただ柴田さんのいう「ヘルスケア市場が拡大していく中で、“私の体について知ろう、そのためにはこういう製品を使うべきだ”と、個人の身体に資本主義が介入してくるような違和感を覚えることがある」といったコメントには、賛否は措くとして一考の余地はあると思います。むろんこのコメントが「生理」について語らないようにと圧をかけることで従前の搾取や抑圧を伴った月経嫌忌などを再生産しようとする向きに使われていたら、私は抑圧や搾取の再生産を批判すると思います。しかしフェムテックへの批判的な観点も、揶揄や拒絶以上の意義がある限り、取られる余地があるものだと思います。一方で「性に関するファクト」の普及(を通して、悪しき抑圧や搾取を減らしていくこと)を評価しつつ、他方で「フェムテック」の伸張に伴う「知識の生産・流通過程をきちんと監視し、評価すること」――例えば、誰が何をどのように「女性特有の課題」としているのか、それはどこまでが「テクノロジー」で「解決」すべきもので、どこからが制度や構造を変え「解決」すべきものか、「女性特有の課題」を「解決」する「テクノロジー」について「性差や医療に関するどのような知識であれば「的確」なのか。それは誰が決めるのか。その判断基準は、平等の理念とどうかかわるのか」などを問うこと――は、それこそ、フェミニズムやクィア批評の知見の活きる営為だと私は感じます(もちろん性科学の知見もしっかり踏まえられるべきでしょう)。

ただし、「専門家によるプロパガンダが顕わになってきた」という認識や、「知識の生産・流通過程をきちんと監視し、評価することがますます重要になってきている」という危機感を持った「素人」が現にアクセスできる情報では己のニーズが満たされないからこそ(己のニーズを満たす面の含んでもいる)〈陰謀論〉や〈疑似科学〉にアディクトしてしまう、といった事態も起こっているのではないかという疑いを、私は持ってもいます。例えば、産科学上の「専門家」の知と、「素人」だが当事者であるひとが欲する情報とのギャップを埋める(埋めてしまう)ような言説として「子宮系」(ある種のスピリチュアル言説)の機能を分析した、ジェンダー学者の橋迫瑞穂さんによる以下の記事などのことを私は思い出します。

――「子宮系」言説が流通し浸透するのは、個々の人々の迂闊さの問題には還元できない。そうではなく、「医学は妊娠・出産に向けた知識を教えてくれるが、現在の不安やプレッシャーを緩和してくれるものではない」ため、「社会からのサポートは十分ではなく、たとえ子供が欲しくて出産をしたとしても幸せになるとは限らない」今日の状況下で「妊娠・出産の可能性を保持したいという思いに寄り添う」ような言説として「子宮系」は機能してもいる。しかし「子宮系」は「女性の出産とキャリアの選択におけるジレンマを緩和するだけではなく、逆に、ジレンマそのものを強化する事態に追い込んでいる可能性もある」。それらは「あえて自分の内にある子宮と向き合うことで、不安を鎮めたり、出産へのモチベーションを高めたりし、相対的に〈社会〉の側の問題に対しては目をつぶる」ための言説としても機能してしまっている。――以上のような知見が上記の記事には記されています。フェムテック産業の利害関係者と、ジェンダー学ほかの専門家、あるいはすでにあるスピリチュアリティ産業の利害関係者などが、現に「生理・妊娠・更年期など」を体験する人々とどのような関係性を築いていけるのか、といった問いは立ちうるし、そこには、必ずしも産業の現状に対して肯定的でない立場からの研究さえも様々な人々に寄与する余地が、残されているはずです。

ちなみに、社会調査や言説分析などだけでなく、「素人」目に見ていかにも「哲学っぽい」知、形而上学なども、こうした社会問題に寄与する余地が、見出されているようです。例えば、胎児の形而上学的位置づけが両立するかわからない(両立するように見えない)2つの見方に分裂している(それは代理出産や人工妊娠中絶を巡る議論の従来的な対立構図の基礎が分裂があるため、対立する双方の立場が理論的修正をする必要があることを示唆する)ということを論じるような、「妊娠の形而上学」に関する議論の蓄積もあるようです。

私が千葉さんの当該ツイートと、ジェンダー学、男性学、フェミニズム、性科学などとの関連を考えて文章を書きながら感じたのは、自分がなんとなくでも把握できている知識の、思いのほかの乏しさでした。例えば、私がすぐに名を挙げうるものだと、David Andrew Griffiths「Queer Genes: Realism, Sexuality and Science」2016といった論考がありますが(最近読もうとしていたものです)私はこれを読み通せずあくせくしているところで、もちろんこれはフェミニスト認識論を参照した批判的実在論の立場からの遺伝子論の一例と呼べそうなものですから、私が先ほどの「射精切迫」についてきちんと考えるためには、上記のごとき分析を、性科学や人類学や社会学において行っている学知などから私は探さねばならないわけですが、それができずにおり(うまく手を出せずにおり)、自分でも、もどかしく思っています。私自身の関心が、小説や映画などの読解に向きがちで、ベルサーニのように、文学研究から出発した書き手のものを読みがちなので、「クィア理論」や、「クィア批評」に関わる様々な領野の知、あるいは様々のファクトについてもっと知っていきたい気持ちが増します。他方で、文芸作品やその批評に心動かされた体験の記憶を持つもののひとりとして、文章を深く吟味したり、そこから生じた思考や感情を(必ずしも「日常」の言葉遣いにも各「専門」の言葉遣いにも収まらない言葉遣いで)記述したりする営為にも、何らかの善さを帯びる余地があるはずだと信じていることも付言したいと思います。

おわりに

私は、千葉さんのような仕方で、二項対立に収まりきらないものを語ろうとする言葉に惹かれがちです。「一般人」ないし「半可通」の私は、そういう傾向性もあって、千葉さんの人生や学知に裏打ちされたツイートに学ぼうとしています。例えば、わかりやすい二項対立構図への回収に抗う姿勢を示すように私には思える以下のようなツイートに、私はかなり惹かれます。

ただし、このように千葉さんのツイートを引きながら何かを言いたがる自分自身の立場性も、私はよくよく考えなければならないと感じます。千葉さんはカミングアウトしたゲイという立場性を引き受けながら、異性愛中心主義への「忖度」をキャンセルしたスタンスで発話しており、それを私のように己が何者かを語らずにいる立場で引用して語ることは(むろん、己が何者か語らずにいる場合、しかるべき言葉遣いの範疇におさまる限り、この社会のマジョリティとされるある種の「男性」や「異性愛者」や「日本人」などのカテゴリーに埋没して「ふつう」の何者かとして語りうるし、そう解されてしまうので)どこか同調めいた、あるいはただ乗りないし収奪めいた雰囲気を生じさせてしまいかねない、と自分で感じます(そんなことが実際に発生しているかはともかく、仮に、マジョリティが、千葉さんのツイートを引用しながら、ある種のフェミニズムやジェンダー学、ある種の社会運動などを揶揄するとしたら、私はそのようなマジョリティには与したくないと感じるだろうと思います)。千葉さんは自ツイートの在りかたを、以下のようにも説明しています。

それでは、こうした文章を書く私の立場性は何だというのか。緊急性がある(とても高い)かもしれない様々な社会問題にすら、少し距離を置くような語りに私自身が関心を持つのは、どのような理由か。少なくともいまここで書けることとして、以下のような体験をしたという記憶が、私が「二項対立的、二大政党的」な空気を「忖度」するより、「ちょっとヒネった視点から個人が個として語ること」を好む、というより、己自身そう語る在りかたをしたいと感ずる、一つの理由だと思います。――私は関東外のある地方出身なのですが、地方出身者であることなどを引き合いに、関東の学校でいじめを受けました。ただ、地方の「都会」――そこの学校にはいわゆる転勤族の親を持つ子どもが多かった――から関東の「田舎」――そこの学校にはヤンキーが一定数いて、卒業後に10代で子どもができてトラック運転手になったと噂されるひともいた――に居を移したという意識だったので、「都会」の代表が東京で地方は大体「田舎」とされるような語られ方に、かなり同調が難しくなる場合もありました。自分の東京都内の居住歴もあわせて数年以上あるし、いわゆる「東京者」と扱われることもしばしばあったのですが、地方出身であることが理由で「▽▽菌」(▽▽には私の出身地が入ります)といじめを受けた経験から(また身内の多くが▽▽出身であるといった、いじめ以外の理由もあって)▽▽出身であることに対し少なからぬこだわりを持つ身として、私は「東京者」と見られることに屈託がありました。私は以前ある人に、あなたは東京でしか通用しない考え方を披露していると言われたことがあります。そのとき内心では上記のような屈託からその人に対して激昂していたのですが、事前に私が出身を明示しなかった(私の言説が地方出身者のものだ、という文脈がなかった)以上、それで憤懣を述べることは抑えようと思っていました。とはいえ、同じ方が後で自分は東京出身だが地方のリアルを知っているみたいに仄めかしていたのも見て、さすがに腹が立っていました(そこであれほど腹を立てていなければ、やっぱりこの話はいまでも黙っていたかもしれないので、縁の奇妙さを感じさせられもします)。

一般に、不正義や偏見を被り、緊急性あるいは優先性の高いと判断されうる仕方で苦境に置かれる人々を救済することを念頭に置く場合、巷間での言葉遣いや振る舞いの是非を詮議する所作はいつも一歩以上遅れていると、私は思います。例えば、クラスメイトに「×ね」「▽▽菌」「エ×ズ」(概ね同じ時期に私は、性暴力サバイバーの高校生が「援助交際」を繰り返す生活を経て愛するひとを見つけ、しかしHIVに感染、発症して、死亡するケータイ小説、Yoshi『Deep Love』2002に出会ったりもしたのを覚えています)などと言われていた10代の頃に私が欲していたのは、上記の言葉の悪用が、いかに不適切であって止められるべきものなのかの説明というより、むしろ、露骨にいじめてくる少数のクラスメイトと同じくらいには〈浮いた〉やつであって、地方出身の異物だった、いじめを受ける私の側へと立ってくれるクラスメイト、日常的にじゃれあいで「×ね」という発言を無遠慮にすることなしに、私の側に立ってくれるようなクラスメイトだったように思います(とはいえ私は私なりにその時期に言葉と暴力とをめぐる様々な事柄を考えたのが一因でクィア批評を読むようになった、と言える面もあります)。その頃、私にSNSはなく、仮にあったとしても、SNSの人たちは声をかけるだけで、私の苦しむ現場へと助けに来てはくれなかったことでしょう(もちろん、それは当然で、異なる境遇の者を庇護する、扶養する、自立するまで支援する力がある個人も組織も稀であるし、とすれば、社会問題の直接解決は専門家や当事者以外が容嘴すべきとは私には思えず、だからこそSNSでの言葉遣いの詮議はいつも現場から一歩以上遅れていると私は思います)。とはいえ言葉が人を傷つけることも(でも、急に殴られたりする体験とは、傷つきの質が違う気もします。軽重じゃなく、質が)、言葉が人を何らかの観点で救うことも(私の側に立ってくれるかどうかとはズレた仕方で。というのも私の味方と言いながら無遠慮なことを言ってくる人もいれば、私のような存在を厭う人の粗暴な言葉が、期せずして私を励ましたことすらあるので)私はこの身で経験したような記憶があると思っており(いま私が思い出せるのが精確な記憶であるか、ここに書いたのがその精確な再現なのかは、私には保障できかねるのですが)ともあれ「日常的」な語や修辞が無遠慮に発話されるとき、それが暴力、抑圧や搾取に寄与する作用をどうやって、どういう条件で発揮するのか(おそらく、発話した側が予期する以上の深刻さを伴って)ということには私も関心があり、それらの批判は、(学術界だけでなく)この市井においても、注意深くしかし大いになされていくべきだと私も思っています(上述したような、若干の屈託は抱えていますが)。

以上のような経験の記憶を語ることが(日頃の見解なども混ざってしまいましたが)、千葉さんのようなスタンスからの言葉を私が引用する正当性などを与えるものなのかは私には明言ができませんが、少なくとも、自分のある種の立場性(特定の地方出身であることに屈託を抱えているいるけれど東京対地方の構図にうまく乗れないこと)や、私が千葉さんのツイートのどういった面に自分と似たところを見出したがっているのか(二項対立構図からはズレたところで個として語ろうとするところ)などに関しては、多少なりとも示せたと(読んだ方に)思ってもらえることを、私は願っています。

追記[2021.01.29]

この記事を書き終えた後、幾つかのツイートを見るなどして、追記すべきと思ったことがありました。まず2つのツイートを引用します。フェミニズムとクィア理論を専攻なさっている清水晶子さんのツイートです。

いずれもリプライツリーや引用RTなど、文の続く構造になっていますが、いずれのツイートでも、各々の「身体経験」にある「大きく異なると感じられる」ところと、そうした「身体経験」の異なりようが、今日の社会構造の女性差別的(男性中心主義的、異性愛中心主義的)な在りようとどのように関連付けうるか(私が「「女性の生理」の負担が公にはあまりに顧みられずに、私的に「女性」個々人に背負わされてきたのではないか、という問題提起に裏打ちされていた面」といった文言で念頭に置きたかったこと)が議論されています(私より精確かつ詳細な仕方で。また清水さんのツイートでは「トランス男性研究者たちによるホルモン投与後の性欲増進の経験についての議論」などの紹介もあり、これに関する情報を私は知らなかったのでとりわけ勉強になりました)。この記事で述べた話と同時に参照されるべき文脈として追補いたします。また、これとは別に2つのツイートを引用します。これも清水さんのツイートと、カミングアウトしたゲイの著述家である、北丸雄二さんのツイートです。

私は、千葉さんのツイートが「適当な思考実験とは少し違うある種の必要性がある」ものだと思っています。ただし、「共通でも対称でもない」ところに「共通性と対称性の隘路を見出しかつ示して別の思考回路を示すこと」が「適当な思考実験」だと言い切れない気持ちがあります(もちろん「適当な思考実験」に過ぎない場合もあると思います。そしてそれが有害な、抑圧や搾取に加担してしまう効果を持つ場合も、あると思います)。私自身のこの気持ちは、私がいじめを受け、「×ね」「エ×ズ」「▽▽菌」(▽▽には私の出身地が入ります)などと言われていた思春期の記憶と結びついているものだと私は感じています。以下で経緯を説明します。

私はクラスメイトからいじめを受けて、その日されたことや言われたことを思い出していたら眠れずに朝になったりしていたのですが、うまく「怒る」ことができなかったので、怒りをその場でいじめ加害者に表明しなさい、と指導を受けていました。また私は加害者のクラスメイトに対して殺意に近い感情を抱いていました。しかし人は人を殺してはならないと強く指導を受けました。いじめ被害者の私といじめ加害者の相手が同じ人間であるというのが、どういう意味なのか、「怒る」のは必要だが殺してはならないとはどうう意味なのか、そして、そのことと、私と相手が同じ人間であることはどういう関係があるのか、私は悩みました。あるとき、私は怒りを示し加害者を殴り飛ばす剣幕で迫りました(そのとき私は椅子をつかんでいましたが、すぐ教員に羽交い絞めにされ、事なきを得ました)。この一件以降、いじめは収まりました。そのとき加害者のひとりに「あたまおかしいんじゃねえの、おまえ」と言われて、私はひとが「×ね」と言っても、私に死んでほしいという殺意がそこにない場合も多いということを知りました(私はいじめなどのストレスで自傷行為をする程度には追い詰められていると感じていたのですが)。私はそれがとても不可解なことだと思いました。同じ言葉を使っても、同じはずの人間の感じ方が、まるで違う。言葉と暴力の関係も私は気になっていました。それからしばらく経つと、私は「怒る」が暴発してしまうようになりました。というより、理不尽に直面したからではなく周囲への苛立ちで「怒る」場合が発生するようになりました。「怒る」訓練はしていたけれど、怒らない訓練が足りなかったのでしょう。それで、ある日、部活で「怒る」私を教員が見とがめて、お前はかつてお前自身をいじめていた部の先輩たちと同じだと言いました。先述したクラスメイトの件とは別に、部でもいじめがありました。ある先輩は、練習に来ない先輩をサボってんじゃねーぞと殴っていました。私はつかえねーなお前と蹴られたりしていました。私は、殴られていた先輩に、見返すために一緒に頑張りましょうと声をかけたりしましたが、先輩は部を去りました。それは、先輩にとってよい選択であったと私は信じています。ともかく、私は、いじめ加害者である先輩たちと同じだと先生に言われました。ほかの出来事もあって、私は私を殺すべきではないかということをしばらく悩み続けました。私がいじめ加害者と同じなら、いじめ加害者を殺したい私は、私をまず殺すべきではないか、などとしばらく考えていました。自殺するな、と指導を受けました。人間は人間を殺してはならないというのがどういう意味か、ずっと考えていました。あるとき、私は、もう学校でいじめられず、変だけど優秀なやつとして周りから扱われる自分に気づきました。かつて私をいじめていた生徒はおちこぼれ、周りの人間はその問題児を見下し、かつての行動から蔑んでいました。私はそこで、なぜか、周りにいる「ふつう」の人間に対して怒りを覚えました。私が同じ人間だからという理由で必死にその同じさを理解しようとしていた問題児のことも、私のことも、ついぞ自分と同じだと思ったこともないような「ふつう」のクラスメイトたちに。もちろん、そんなクラスメイトばかりではなかったかもしれません。でも私は「ふつう」のひとより、私をいじめた加害者のうちでも、もっとも要領が悪い人間に私には映っていた、問題児にこそ私と同じところがあったのではないか、と思ってしまいました。私の人生には、おそらくほかの人と同様に色々な出来事があったので、これだけが理由というわけではないですが、私が異なる二項を、加害者と被害者などの、私が憎いものと私自身とのかろうじての同じさを考えなければならないという衝動を走らせてしまうのは、こうした経験がその理由のひとつであると私は思っています。私はこういう衝動に駆られて色々なことを考えるうちに、「脱構築」という考え方に出会い、それを踏まえたある種のクィア理論に出会い、その種のクィア理論に属するものとして、ベルサーニや千葉さんの著作を読み、今日に至ります。ただし「身体感覚」とそれが組み込まれた社会構造に関して考えるひとから見ると、私にとって私を殺すべきかどうか考えた思春期と結びついているはずの「脱構築」が、例えば被害者と加害者の「人間」としての「似たところ」を、加害者と被害者と傍観する周りとの「似たところ」を考えねばならなかった、考えてしまっていた私の、思考と文章が、「適当な思考実験」で世間に茶々を入れているに過ぎないとされる場合もあるのだなと、今回痛感しました(私は「共通性と対称性の隘路を見出しかつ示して別の思考回路を示す」ような営為によって、自他ともに殺すことなく思春期を切り抜けたと思っていましたが、私のこうした記事がそれへの執着の「暴発」なのではないかと問われると、私は考え込みます)。私は茶々を入れるための「適当な思考実験」として千葉さんのツイ-トやこの記事が使われることにもちろん反対しますが、私の「脱構築」執着のもっとよい使い方は改めて考えなければならないと思いました(当然ながらいじめを受けたり自分や他人を殺すべきかどうか上記のような仕方で悩んだりするだけで今の自分の筆遣いや関心のありようが決まっているわけではないはずなので)。クィア理論やフェミニズムは「×ね」「エ×ズ」「▽▽菌」(▽▽には私の出身地が入ります)などと言われたりしていじめられた人間の体験を考えるための理論ではないのかもしれない(少なくとも私自身とは異なるバックグラウンドを持つ人々から生じてきた理論であるのは確かですが)ということも、私はいままで以上に真剣に受け止めるべきなのかもしれないといま思っています。少なくともこの経験にこだわることが誰かの抑圧や搾取に加担につながったとしたら、あのとき誰も殺さずに済ませた当時の私自身をも、私は踏みにじっていることになると感じています。思春期から、10年以上、こういうことを折々に考えてきたので(頭から消せなかったので)、またそこからの蓄積があって私の思考や筆遣いがあるので、すぐうまく変化させられるかわかりませんが、もっとよくしたいし、試行錯誤を続けます。

[了]

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