視聴したMVの話02(落ちもの:セカイ系と、感傷マゾの傍ら/廃墟、過客、追懐:ポスト・アポカリプスと、反出生主義の傍ら/「知性のペシミズム、意志のオプティミズム」:加速主義の傍ら)

はしがき

小売店でスナック菓子の陳列された棚を前にするとき、パッケージを見比べて購入する商品を選ぼうとしながら、でももうこの味は知っているし、あの味もわかっているんだよなと心内で独言することがある。目耳鼻舌を通して何が起こり、どんな記憶と結び付けられ、どんな物思いが走るのか、それが私の心身をどうするのかなど、およそのところをシミュレートできたつもりになってしまうと、飽きる。もちろん思いがけないことは時折起こるけれども、それにどれほど期待すればいいのかも目算が立っていくと、やはり飽きがくる。自分の感覚器官の粗雑さや繊細さの程度や、心身のうちで働かせることのできるリソースにも、おおよその上限や下限の見込みがついていく。飽きる。でも、そんなときにふと、そもそも私の中で響いたあの独言は、私のオリジナルな言葉ではなくて、ずっと前に耳にした誰かの科白の受け売りだったと思い出したりする。そして、私は私が忘れていたことを忘れていた無数の記憶たちと接続され一切の相貌が変様する。微細な陰影から、露骨な輪郭まで様々に。構成要素は有限であるのだが組み合わせは私の数え上げる力を超えて膨大にあり、小さな一撃が固化したように思えていた私の視座を見る間に倒壊させ、私は転び、私は笑う。ここにいる、実感がわいてくる。私にはわかっていなかったことがあり、私にはわかることもできると知る。知りたくもないことを知らされたりするから混乱していたが、私には、まだ知りたいことがありわかりたいこともあり、いま知ってわかっていることの他にもそんなふうな諸々がいろいろあるようだった。驚く。変わる。笑う。

前回

今回の曲一覧

・槇原敬之『Fall』2014〈落ちもの〉
・Caravan Palace『Plume』2019〈落ちもの〉
・モーモールルギャバン『消えて』2019〈感傷マゾ〉
・suzumoku『Pupa(蛹 -サナギ-)Bronze ver』2012〈「僕の爆弾」〉
・Ghostleg『幽霊になるとき』2019〈「どこか遠いところを夢見て」〉
・イ・ラン『患難の世代』2020〈反出生主義〉
・モーモールルギャバン『IMPERIAL BLUE』2018〈加速主義〉
〈 〉内に付した語はMVと関連付けるのが不適切に映るかもしれない。私は、個人的に、各々のMVの視聴体験と、各々の語に即した私の想念に、通じ合う部分があったと感じた。それを書いたのが以下の文章である。

落ちもの:セカイ系と、感傷マゾの傍ら

以前ひとに、先輩は「感傷マゾ」をどう思いますか、とたずねられたことがあったのですが、そのときはうまくこたえることができなかった覚えがあります。cosMo@暴走Pの『感傷マゾヒスト』(2014)を視聴したり座談会の記事を読んだりもしたのですが、どうにもピンときていませんでした。もちろんもっと調べたり学んでいけば、体感できるようになるのかもしれないですし体感できるか否かとはおそらく独立に、理解し語るということはできるはずなのですが。思い出すのは初めて新海誠監督『秒速5センチメートル』(2007)を視聴したときのことで、たしか痛切な気持ちになるという前評判で、先輩みてくださいとすすめられて視聴する運びになったのですが、話が終わり、どうでしたか先輩と訊かれて私は、てっきりラストの場面であの男のひとがあの女のひとの乗った電車に飛び込んで死ぬけれどただの人身事故として無関係に処理されるのかと予想した、そうしたら日常の運行を阻害する障害物として消えていく一方と次世代再生産を繰り返す装置に組み込まれて相応の生涯を送るであろうもう一方というコントラストが映えたと思う、みたいなな主旨――もちろん口頭ではこんな風には図式化できていませんでした――の話をして、先輩さすがにその感想はいかがなものか、と引き気味の反応をもらったのでした。どうも、この作品に触れてうまく心を動かすのは、当時の私には不慣れな作業であったようです。もちろん練習を繰り返せばうまいつたないはともかく、習得はできることだと思ってはいます。私はある本を読んで以来、もし小説を読んで味わうのが楽器を演奏するようなものであるならば、心身を動かすというのもきっと演奏のようなものなのではないか、と考えるようになっていました。そして今では「感傷マゾ」と似ている気もする心の動かし方を、私も持っている気がしており、それにこだわっているような気がするのです(だから、うまく把握できないまま、学びたがっているのだと思います)。この前、先の座談会の出席者の方のツイートを目にして、「感傷(静的なもの)とマゾ(動的なもの)が交互に来る」ということ、そして、暴力と叙情の組合せ、そうしたテーマからであれば、私の感じたり考えたりしているものと「感傷マゾ」との同じさまた差異をうまく測ることができるのではないかと思いました。それでは「きみ」と遭遇する話から始めます。

槇原敬之『Fall』2014〈落ちもの〉

思うに「感傷マゾ」というテーマは、一種のカップル形成(例えば、ある種のボーイ・ミーツ・ガール)に伴う感情を扱うあれこれの類型と関連付けうると思います。なので、迂遠ではありますが「セカイ系」と「落ちもの」というものを並べるところから始めます。粗い言い方になりますが、「セカイ系」はカップル形成(成否問わず)に伴う種々の情の喚起とローカルな共同体の掟を度外視するような激変とをリンクさせるところに、その眼目があるように思います。私自身は、それらを「落ちもの」という言葉と関連付けたくなります。「落ちもの」もカップル形成に関連する類型です。例えば宮崎駿監督の『天空の城ラピュタ』(1986)で、気を失ったシータが上空からゆっくりと降りてきて、鉱山で労働するパズーがそれ見つけシータを受け止めるという場面があったと思いますが、こうした出会いに伴う一連の展開や心の動かし方のセットが「落ちもの」だと思っています。ゼロ年代で言えば、TVアニメ『化物語』(原作・西尾維新、監督・新房昭之、2009)の「ひたぎクラブ」の始まりも、宙空から落ちてくる戦場ヶ原ひたぎを阿良々木暦が受け止めるという出会いが印象的だったように思います(ただエピソード「ひたぎクラブ」に限定して言うならば、ひたぎが暦に出会い、ついに自身の日常を、背負いなおす話とまとめられると思うので、例えば人類滅亡のような――高橋しん『最終兵器彼女』を念頭に置いています――激変とは逆へと向かう話だったはずですが)。私はこの辺りの系図を、まだ、うまく作成できていないのですが、恋に落ちるという言い回しや、恋をアクシデントにたとえる発想などを可能にしている想像力と、既存の関係を破壊し別の関係を再構築する衝動のうちでも恋愛が肯定されやすい(その極端な例として、駆け落ちや心中の是非を描く作品が挙げられると思います)風土が相まって、劇的な出会いを夢見ることと、この世界の激変(例えばローカルで閉塞的な場を圧倒していくようなグローバルな厄災、または革命)を夢見ることとの、短絡が生じやすいのかなと思っています。――書いていて気づきましたがここまでの話は、私は自分が「落ちもの」として把握している型を経由してでなければ「セカイ系」や「感傷マゾ」のことをうまく考えられずにいる、という類の自己分析に過ぎなかったのかもしれません。そして、ここからの話も?――話を続けます。私にとってわかりやすく思える「落ちもの」的なMVは槇原敬之『Fall』で、この曲はTVドラマの『きょうは会社休みます』(2014)の主題歌でした(原作は藤村真理による同名漫画作品。少女漫画誌『Cocohana』に2012-2017連載)。

そんなとき君が現われて
こっちへおいでと手を伸ばす
その手に一瞬触れただけで
世界が違って見えた

本当はこんなタイミング
待ってたのかもしれない
見たこともない世界へ
誰かと落ちるその時を
槇原敬之『Fall』2014

ずっと以前、私が自己嫌悪としての「感傷マゾ」というものを初めて知ったとき、真っ先に想起したのは、このような「君」を欲する思いの切実さへの半ばの共感とないまぜになった、誰かが「君」の役柄を担ってくれるように欲する思いに感ずる禍々しさと、半ばの拒否感でした(誰かに対して望み通りの役柄を背負わせるという振る舞いの、おぞましさ)。私はそこに見出しうるように思われる切なさや自己諧謔のようなものに執着がある一方、完全には感情移入しきれない齟齬も抱いています。書きながら思い出してきたのですが、『Fall』のそれとは別に、かつて私が自分に近しい(しかし完全には没入しきれない)情趣として想起していたのは大槻ケンヂ『新興宗教ヲモイデ教』(1992)の「僕の爆弾」――「僕」による、グロテスクで自爆的で問題含みの夢想――のくだりでした。私はそこに相応の近しさと隔たりとを覚えます。

 僕は、自分を取りまく者達全てに、平等に、憎しみを抱いて暮らしていたのだ。偉いとされている人のパレードを、アホ面下げて、小旗を振って、わずか数秒のために人だかりをつくって、そんな自分を疑わない、悪いとも思っちゃいない、つまらないとも感じていない、恥じることもない、自らの命を絶つ勇気もない、そんな人間達のこの世界が、そしてそんな世界のやはり一員である自分が、僕は憎くてしかたがなかったのだ。
 いつか、足がもげる程に自転車のペダルをこいで、どこか遠いところへ逃げよう。
 逃げた街で、目も口も耳もこわれた人の様に暮らすのだ。
 西日しか射さない部屋にこもって、爆弾を作ろう。
 世界を燃やしつくし、壊しつくし、逃げまどう子供たちの耳たぶを焼き切り、はむかおうとするサラリーマンのワイシャツのボタンを噴きだす臓物ではじき飛ばし、奥さんの乳房をくり抜いて、義父の口の中へつっ込み、老人をアザラシと交尾させ、顔から無数のキノコが生えた赤子を産み落とさせる。
[……]
 爆弾ができたら、また自転車のペダルを猛烈にこいで、学校に乗りつける。
 フットボールのタッチダウンみたいに、僕の爆弾を、僕の机の上に思いっ切りたたきつけるのだ。
 秒読みはわざと十から数える。十秒の間、みんなは僕を遠まきに見つめながら、うわ言みたいに哀願するのだ。「助けてくれ、なぜこんな目にあうのかわからない」
「爆発したら、お前も死ぬんだぞ!」
「でも、お前らも死ぬんだろ」と僕は答える。

[……]
 爆弾を思った日は、必ず眠りの中になつみさんが現れた。
[……]
 小馬鹿にしたように、彼女が笑う。
爆弾って何よ? 君にはそんなものつくれないと思うよ
大槻ケンヂ『新興宗教オモイデ教』第4章「僕の爆弾」1993年角川文庫版87-89頁

これは「彼女」を思う「僕」と激変を夢想する「僕」との短絡の典型的描写かもしれません。私は、ここに含まれる(1990年代的な?)悪趣味な想像力や通り魔的暴力性を手放しで肯定する態度は(今日では)できそうにない――というか、むしろ、こんな粗暴な妄想はゆるされないと切り捨ててしまいそうにすらなる――のですが、けれど破壊的な妄想の果てで「爆弾って何よ? 君にはそんなものつくれないと思うよ」と実行(アクティング・アウト?)をギリギリで押し留める言があるこの描写に、ほとんど困難な激変への待望がデザイン済の鬱憤晴らしに結実するのとは異なる仕方で、だが単に個々人の内で抑圧するのでもない仕方で、いわばオリジナルな昇華の仕方に至る余地を示唆してもいると、解したい思いもまだ残ってます。――とはいえ、この小説自体は、破壊や死を与えるような超常的な力があっても、社会も周辺も思い通りに変えることはできないという意気阻喪と、突発的で憂さ晴らし的な暴力の実行と、「爆弾みたいな絵」の制作、そしてひとりきりでの落涙で決着してしまうのですが。――あまりに「時節外れ」の夢想に、かかずらいすぎたかもしれません。「落ちもの」の(そして「セカイ系」と「感傷マゾ」の?)の話へと戻りたいと思います。以下のMVは「きみ」に拒まれて、異邦(?)の社会で死に至る「ぼく」の物語――逆「落ちもの」的な情趣を伴うような――に映ります。――「セカイ系」にも通ずる駆け落ち失敗の哀切。

Caravan Palace『Plume』2019〈落ちもの〉

このフランスのエレクトロ・スウィングバンドの楽曲は、空から降ってきたロボットが、東京の繁華街をさまよい、現地の外れもの(大道芸人や遊び人)たちに初見では歓迎されるもついになじめず、拒絶を受けて動揺し事故死に至るという物語ゆえに――オリエンタリズムと解せなくもありませんが――一種の「落ちもの」構図として見ることができると思います。――そもそも自分の日常とは異なるものに属する「きみ」との出会いを待ち望む姿勢自体が、そうした夢想と通じ合う面を持っている、ということかもしれません。――また、周囲の動作をぎこちなく模倣するほかないロボットという形象には、いわゆる「定型発達」的圏域への馴染めなさとされる感情を仮託したくなる要素が見出されるかもしれません。相応のリアリティがある異国(日本)の繁華街とレトロフューチャーじみたロボットフェイス(キャラバン・パレスの有名なアルバムは『<|°_°|>』(2015)でした)という意匠の組合せは、例えば細田守監督の『サマーウォーズ』(2006)や新海誠監督の『君の名は』(2016)など、都会と田舎といった舞台装置をSF的(?)な意匠と組み合わせる、ある種の恋愛物語を想起させなくもない面があると思います。――ただ実際にどれくらい同じなのか、また違うのかは、今の自分では掘り下げられそうにありません。――このMVは激変(の可能性)を明示的に描いてはいないと思いますが、もしも、上遠野浩平『ブギーポップは笑わない』(1998)や谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』(2003)も、平凡な日常こそが、激変の阻止によって成立していると確認する物語だったと解しうるならば、宙空から降ってきたロボットが人類に受け入れられることの阻止で終わる物語として『Plume』もまた、ある種の「セカイ系」的な情緒をもたらすMVだと言いうる余地があると思います(シリーズとしての「ブギーポップ」や「涼宮ハルヒ」総体を考えるとき、このようなまとめ方で済むとは思えませんが、話を最初の1巻だけに絞って考えるならば、上記のような見方でも、そこまで的を外してはいないだろうと思っています)。――そもそも、アクシデンタルな一撃というテーマがどこか暴力性を帯びていると捉えるべきかもしれません。私が思い出すのは、古橋秀之の短編小説「ある日、爆弾が落ちてきて」です。同名の短編集(2005)に所収後(2017に新装版)、大森望編『逃げゆく物語の話 ゼロ年代日本SFベスト集成〈F〉』(2010)に収録され、2013年にはTVドラマ化もされたこの作品は、「僕」のもとに、初恋相手だった「少女」に似た面影を持つ、「爆弾」を自称するキャラクターが宙空から降りてくるという物語であり、参照している文脈を問題含みでない仕方でうまく取り上げるのが今日ではとても難しいように思われるのですが、いわばトラウマ的でフラッシュバック的な構造が、ゼロ年代の「落ちもの」作品のなかでも際立って明確であり、暴力を背景にして叙情を読後に残すラブコメディの範例として、一種の「セカイ系」的な意匠を、ここに見出すことができるように私には思われます。錯時的な言い方で説明すれば、「ある日、爆弾が落ちてきて」は転倒した構造を持つアニメ版『Plume』であり、もし、これらの作品の、暴力と叙情を繰り返した果てにある、死を伴うような離別の結末それぞれに「少女に、自分の本質的な部分を見透かされて、的確に本質を糾弾されたいという欲望」が認められるのだとすれば、私は(私にも)、「感傷マゾ」のことが、少しくらいは、わかる、と言いうる余地があるのかもしれないと思えます。――私が、セカイ系や感傷マゾといった言葉を用いてなされる感情の動きの語りに見出したがっているのは、改めて考えてみると、桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(2004)を読んだときに私の心が動くときに、通ずるようなメカニズムだったのかもしれません。――暴力と叙情、回想と痛み。藻屑の嘯く「人魚」たちに倣った、「とにかく、ここじゃないところ」への旅立ち、理想郷、「どこか遠いところを夢見て」EXITすること、その失敗。

 窓の外が別世界みたいに荒れている。世界に二人きりになってしまったように、教室の中だけが静かで、安全で、薄暗くて……。
『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』173頁
 ――嵐は藻屑の妄想を爆発させたような激しさで校舎を揺らして、空を暗黒色に染めて、夜になるまでおさまらなかった。あたしと藻屑は教室にぼんやりと立って、外に出られるぐらい小雨になるのを待っていた。夜の七時を過ぎた頃にようやく、大嵐は過ぎ去った。日本海には世界中から人魚たちが戻ってきて、ぷちぷちと卵を生もうと待ちかまえているはずだった。あたしと藻屑は手をつないで教室を出た。暗い廊下を走り、階段を降り、雨でぬかるんだ校庭に出た。
 暗い空はものすごい勢いで雨雲を遠くに連れ去っていた。きれいな群青色の夜空が現れてきた。あたしと藻屑はいつもの田舎道を歩きながら、学校から離れるほどにぬかるみがなくなり、ついには、まるで雨なんか降ってなかったように道が乾いていることに気づいた。嵐はあたしたちの学校を覆い尽くして揺さぶって去っていったようだった。乾いた道をあたしたちは歩いた。
『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』176頁
 微笑が余韻を残すように少しずつ、閉まっていくドアによって遠ざかっていった。そのままあたしはそこに立って、藻屑と一緒に行くはずのどこか遠いところを夢見ていた。そこは、とにかく、ここじゃないのだ。あたしも藻屑も自由になるのだ。そうだ、そこにはあれがあるのだ。あたしも藻屑も知らないし、必要なのかどうかもわからないもの。あれ……。
 安心がある。
『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』179頁
 あたしは、暴力も喪失も痛みもなにもなかったふりをしてつらっとしてある日大人になるだろう。友達の死を若き日の勲章みたいに居酒屋で飲みながら憐情たっぷりに語るような腐った大人にはなりたくない。胸の中でどうにも整理できない事件をどうにもできないまま大人になる気がする。だけど十三歳でここにいて周りには同じようなへっぽこ武器でぽこぽこへんなものを撃ちながら戦ってる兵士たちがほかにもいて、生き残った子と死んじゃった子がいたことはけして忘れないと思う。
 忘れない。
 遠い日の戦死者名簿の中に、知らない土地の知らない子たちの名前とともに、ひっそりと、海野藻屑の名前も漂っている。[……]
『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』203-204頁

私は、一種のガール・ミーツ・ガール小説としても読みうるであろう『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』が私の心を動かすメカニズムは、「落ちもの」や「セカイ系」のみならず、ひょっとすると「感傷マゾ」にさえ通ずるようなものなのではないかと思ってしまいます。どうも遭遇した少女への恋着というテーマには還元しきれないものがそこに含まれているように思います。例えば、桜庭一樹『ブルースカイ』(2005)がゼロ年代にセカイ系として受容されてもいたことなどを念頭に置けば、こうした捉え方も相応に検討の余地があると言ってよいようにも思えます。すでに言説の蓄積があるとはいえ、「落ちもの」「セカイ系」「感傷マゾ」といった言葉で語られる心の動きの記述や諸作品の関連付けには、まだ掘り下げていく余地があると思います。考えてみれば、TV放映版の最終話サブタイトルが(ハーラン・エリスン作品の題名を捩って)「世界の中心でアイを叫んだけもの」だったアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(TV1995-1996)の取り上げられ方に比して、片山恭一の小説で映像化もされ受容されていた『世界の中心で、愛をさけぶ』(2001)があまり掘り返されない(難病と早逝という要素ゆえに、住野よる『君の膵臓を食べたい』(2015)のような恋愛物語と比較もできるはずです)といった、今日の状況を念頭に置くだけでも、この辺りのジャンルの系図のつくり方には、まだ様々なヴァリエーションが残されていると言ってもよいように感じられます(私の不見識ゆえに、おそらくすでに提出されているはずの様々な系図を見落としている面もあるかとは思いますが、それでも)。私自身はここまで、「落ちもの」を軸として、世界の激変(社会の度外視)にも通ずるような一種の駆け落ち願望(とその失敗や不可能性、それらに由来するトラウマ的追想)の行方として「セカイ系」や「感傷マゾ」を位置づけようとしてきたのだと思います。こうした見立てを取ることで私は、己の執着する情感を催させるように思える作品を、すでにあるジャンル用語と、うまく接続させることができるようになってきた気がしています。例えば、以下のMVの「エモ」さは、ポスト・アポカリプス的かつロードノベル的なセカイ系小説と言える、萬屋直人『旅に出よう、滅びゆく世界の果てまで。』(2008)に通ずるものであるのではないでしょうか。――物語世界内で蔓延しているとされる「喪失症」に抗い、かろうじて残されようとする旅の記録の「エモ」さと通じ合うような切実、そしてそれが儚い一瞬以上になることの困難と共にある叙情。

モーモールルギャバン『消えて』2019〈感傷マゾ〉

『旅に出よう、滅びゆく世界の果てまで。』の「喪失症」は、全てのひとの生から固有のディティールを奪い、すり切れた紋切り型そして消滅へと至らしめますが、このMV『消えて』も、「命」や「永遠」また「僕らの日々」を「消えて」は「繰り返す」とリフレインし続けることで、その各々に固有であったはずの精彩、重みを、ほとんど無化せしめているように思えます。――cosMo@暴走Pの『感傷マゾヒスト』の一節「架空の空を食べすぎて/本物の夏に心えぐられる」に絡めていうならば、これらの小説や楽曲では、全ての「夏」が「架空」と同じ水準に落とし込められているのであり、そのいわばエモ的光景のシミュラクル化の中で、「本物」を前提とした「虚構」への哀切に耽溺することすらできなくなるという形で「感傷マゾ」的境地へと誘導されるメカニズムが働いているように感じられます。――とはいえ、もはや自己嫌悪と混ざり合った気持ちよさを感じることすらもゆるされないだろうという意味では、この楽曲や小説は、虚構エモや感傷マゾよりむしろエモ涅槃とでも呼ぶべき境地へと、ひとびとを連れ去っていくものだと呼ぶ方が適切なのかもしれません。「喪失症」が破壊的な事態というよりは消滅に近いように、『消えて』のもっとも暴力的な瞬間も、映像から人間が消滅するのに合わせた無音の顕現するところであったように思われます。そこで想像されるのは何かを残したり次に繋げたりする要素を含む食物連鎖的暴力というよりは、全てを帳消しにする絶滅的暴力の善用の形態であり、たぶん悪夢的なバージョンで平和の到来を想像する際の叙情であり、(ベンヤミンの語を借りれば)神話的暴力というより神的暴力の希求であって、――「架空」より消えがたい「本物」などを想像する余地すら残らずに、一切がただ生滅するだけの何かとして並び立つような――かわいた無情な世界であるように私には思われます。――そして、世界の激変をもたらすような駆け落ちから世界の激変以後の旅路へと力点を移すのであれば「セカイ系」は「ポスト・アポカリプス」へ変容することになるのでしょう。――滅んだ世界の情景。

廃墟、過客、追懐:ポスト・アポカリプスと、反出生主義の傍ら

かなり疎漏のある見立てとはいえ、激変が到来するかもしれない、あるいはその渦中にある中での叙情的な関係を描くことをセカイ系と呼んだり、激変が来てしまった、あるいはその渦中にある中での叙情的な関係を描くことをポスト・アポカリプス(の少なくとも一部)と呼んだりすることが、可能だとするならば、時雨沢恵一『キノの旅』(2000-)や萬屋直人『旅に出よう、滅びゆく世界の果てまで。』(2008)のような作品群を、ポスト・アポカリプス的な世界でのロードノベルという観点から概括できるかもしれません。二つの作品は、各々の仕方で、現行で作動しているはずの社会なるものの中の何かが取り除かれてしまっている世界を描いているように思えます。――そしていずれの作品でも、暴力と叙情を、独特のしかし似通ったやり方で接合しているように私には感じられます(例えば×××××がユートピア/ディストピアを追放されて、自らを逃がすために死んでしまったように思える旅人の残したバイク、エルメスに呼びかけられ「キノ」となった短編「大人の国」を含む第1巻に限定して考えれば、『キノの旅』は、カタストロフの後にトラウマ的なアイデンティティ――死んだ初代キノのように旅人としてあること――を背負ったキャラクターが、相棒と一緒に荒野(メタ・ユートピア?)に点在するコミュニティを次々と旅するというロードノベル的な構図が前景化することでしょう。また、出立時の約束のままに、少年と少女が全ての個を無化していく「喪失症」へと抗い、旅をしながら(固有名を排した)日記をつけ、セカイの果てを目指す萬屋直人作品は、原初の暴力的出来事がどこにもない場所への旅路を、わかりやすい形で動機づけているように思われます)。そもそもインフラへの包摂が統治体制への吸収と表裏一体になりがちなことや、侵略と観光が紙一重であることを思えば、旅や過客を描く物語には、暴力を下地にした両義的で紙一重な叙情が付きものなのかもしれません。――無論こうした見方は大雑把なもので、例えば、つくみず『少女終末旅行』(2014-2018)や、その他「ポスト・アポカリプス」的と評されもする諸作品が、上で挙げた作品とどんな要素を分かち持つと言えるのか、また、各々の作品にしかない要素とは何か、といったことも考えるべきかと思いますが、今の私にはそれを掘り下げる準備が足りないため、上記のような略述に留めます。――廃墟という場景の「エモ」さには、上で述べてきたような、暴力を背景とした叙情として捉えられる場合もあるように思います。『最終兵器彼女』が、大量死と大破壊の痕跡を「きみ」(ちせ)と「ぼく」(シュウジ)の関係性がもたらす感傷の背景にしてしまっているように、衰退や争乱そしてその渦中にあったはずの暴力や悪感情が、ある種のロマンティックさや荘厳な静謐さの背景になることがあり、その点で「落ちもの」「セカイ系」「感傷マゾ」などと「ポスト・アポカリプス」は、「廃墟」という舞台装置や「追懐」という情念定型を共有していると捉えうるように思います。黒沢清監督の映画『カリスマ』(1999)を「黒沢清的セカイ系」と評したブログ記事もありますが、そこでも言及のある同監督の映画『回路』(2000)や、また『叫』(2006)などは、言ってみればある種のセカイ系的ホラー映画として解されうる余地を持っているのかもしれません。――『回路』や『叫び』を視聴した方は、そこに「廃墟」や「追懐」、「きみ」と「ぼく」の関係、そして世界の終末といったモチーフを容易に認めることができるでしょう。――こうしたことをあれこれ考えるうちに私は、廃墟を舞台にした二つのMVが、上で書いたある種の情緒――大槻ケンヂ作品でいう「僕の爆弾」や桜庭一樹作品でいう「どこか遠いところを夢見て」といったテーマに相当すると思えるもの――に通じていると(私的連想ではありますが)感じられることに気付きました。

suzumoku『Pupa(蛹 -サナギ-)Bronze ver』2012
〈「僕の爆弾」〉

例えば、このタイトルを見て茂木清香の漫画『Pupa』(2011-2013)を、また映像を見て黒沢清の映画を想起してしまうことが、このMVに触発され抱く私の心象を歪めているのであって、むしろこの楽曲は、谷山浩子『意味なしアリス』(2003)のように無聊と閉塞感を(独特の味付けで)歌い上げていると解すべきかもしれないのですが、この記事では、私は私の心象を辿っていこうと思っています――思い続けてきました。――「暗がりの四畳半に一人」という歌が四畳半ではない廃墟で歌われるわけですが、もうアットホーム感の失われた自室というもの、テリトリーからの疎外というものがここで歌われているものであり、「そいつ」への暴力が、自己の疎外感を消す大洋感情のようなもの(または「安心」)を得ることに結び付いていると解するなら――「そいつの全て」を奪う願望には「そいつ」に自分と同じような空虚を分有してほしいという同化の願望を読み込めなくもないと思われます――部屋と蛹と廃墟に、よそよそしく閉鎖された、自分だけの、自分しかいない部屋のイメージの通底を、認めることも可能なのではないかと思います。おそらく自分の鏡像であるような「そいつ」の傍らには、幽霊のように通り過ぎる、他者がいて、「暗がりの四畳半」から脱するためには「そいつ」との争闘ではなく、幽霊めいた過客につられて、別の風景の見方を持たねばならないのでしょう。――「爆弾」を捨て、幽霊になり、賑やかな廃墟を、巡ること。

Ghostleg『幽霊になるとき』2019
〈「どこか遠いところを夢見て」〉

「ここから飛んでって元の姿に還る」という飛び降り的衝動は、先ほどの曲『蛹』で「そいつ」に向けられていた暴力の真反対に向けられたそれであるように私には感じられます。むしろ重要なのは私を破壊したり消去することではなく「どこか遠いところを夢見て」旅立つEXITであり、都市であれ田園であれ存在する「暗がりの四畳半」、あのよそよそしく息苦しいスペースに埋め込まれた自分を解放して、もはや「廃墟」を眺める様に、別の相の下で眺められるようになることであるように私には思えます。――『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』のなかで、なぎさと藻屑は、「狂った父がいる家」、「担任教師が貴族を打倒しようとやってくる家」、そして「大人の知らない暗黒の社交界」、そんなスペースしかない、堺港市(に投影されている、現行の社会)を脱するために旅立とうとしたのですが、この点で、人魚になることと幽霊になることとは、旅人になることでもあったように私には映ります。

「なぎさ。……どっか行くのかい?」
「に、逃げる
 あたしが言うと、友彦はかすかに顔を歪めた。
「そっか。ふぅん……。ぼくも、どこかに行きたいなぁ
 それだけつぶやくと、友彦は乱暴に襖を閉めた。ぴしりと大きな音が響いて、あたしは心臓を掴まれたみたいに飛び上がった。それから鞄を掴むと転がるように家を出た。もう帰ってこない。もうご飯もつくんない。おかあさんの手伝いもしない。実弾なんてもう一発も残ってないんだ。
『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』177頁

誰かと旅立つ欲望を駆け落ちや心中として構想しうるならば、一人で旅立つ欲望が飛び降りの構想と通じ合うこともそう不可解ではないように感じられます。ドロップアウトとEXITは、是非の判断を別にすれば同じこと――閉塞した場からの抜け出し――を欲望しているように映るからです。この限りで私は、反出生主義という語を、ポジティヴに使うことも可能なのではないかと思っています。――とても深く「別世界」を夢見る欲望、その名として。

イ・ラン『患難の世代』2020〈反出生主義〉

私はこのMVを視聴したり歌詞を読んだりすることが、反出生主義の一般的な理解をする上で役立つと主張したいわけではありません。デイヴィット・ベネターの提案した議論、様々な厭世的な議論の蓄積、そうした知の絵解きとしてこの作品を捉えたいわけではありません。私がしたいのは、私の追究するところの欲望をうまく形にすることであり、だから反出生主義と『患難の世代』を並べるのは、それらが、私が、思考せざるをえず、また感知してしまい、衝き動かされざるをえないものを、そこに仮託できるような予感がするから、それを記すことで形にしようとしているからです。――私はこのMVに『旅に出よう、滅びゆく世界の果てまで。』とも通じ合うような暴力と叙情の組合せを見出します。――「別世界」の到来と、「激変」の感触。

「知性のペシミズム、意志のオプティミズム」:加速主義の傍ら

あれこれとMVと渉猟するに気付かされたことのひとつが、ゼロ年代に私が触れていた、気に入っていた曲の中には「加速主義」的な気風が見出せるということでした。例えば、子供向け教育番組『天才てれびくん』内における音楽コーナーで流れていた以下の曲はかなり「加速主義」的だと思います。

海にかかる橋も 空を翔ける船も
100年前は誰かの夢
空想してたことを 想像してたことを
未来の世界で膨らませ

毎日絵を描きたい 太鼓叩いてみたい
イルカといつも遊んでいたい
見たいものはなあに 知りたいことはなあに
大好きすきすき 突き進め
じゅげむさん『未来船ゴー』2004

格言風に流布している「空飛ぶ車が欲しかったのに、手にしたのは140 文字だった」(ピーター・ティール)といった物言いの下地にある気風は、この曲『未来船ゴー』の下地にあるそれと大差ないように私には思えます。楽観的なテクノユートピア主義とでも呼べそうな雰囲気がここに横溢しているように感じます(「未来船」という表現はバックミンスター・フラー由来の「宇宙船地球号」というコンセプトをおそらくは踏まえていて、ここには、地球の未来をデザインしていこうとする熱情が歌われているように感じられます)。そしてこうした楽天性は必ずしも「男性的」なものではありませんでした。例えば、少女漫画雑誌『ちゃお』に連載されていたあらいきよこの漫画『Dr.リンにきいてみて!』(1999-2003)のアニメ版OP曲である以下の歌の一節は、(もはや今日では)反道徳的にさえ響く爛漫さを帯びているように思えます。

今 未来を決めなくちゃダメ?
恋に命をかけてもいいじゃん

GO! GO! Ready? GO?!
行かなきゃ乗り遅れる
ハデなキミのジェットコースター
今週の占いラブ運は絶好調?!
とにかく Ready? GO?!
やっぱり不安? 考えればもっと不安?!
心配は親にまかせ 今できることをやってみるのだ~!
AiM『Go! Go! Ready? Go?!』2001

リスクに制約され、断念の結果として決定されるような「未来」を考えるのではなく「恋に命をかけ」ること。それは「毎日絵を描きたい/太鼓叩いてみたい/イルカといつも遊んでいたい」といった「夢」に恋焦がれる心境や「大好きすきすき/突き進め」と「夢」の実現に邁進する情緒など『未来船ゴー』で歌われていたものとも通じ合うところがあるように感じます。――おそらく私は、「ハデなキミのジェットコースター」と「未来船」との区別をなし崩しにして、このOPを受容していたのでした(「ほれほれ船が出る/乗るのは誰ですか?/みんなの元気を乗せてゆく/誰かの見た夢が/ひとつひとつ全部/未来の世界で膨らむぞ」『未来船ゴー』)。――私は加速主義の眼目を、逆張りや現状肯定ではなく、この衝動にあると解したい思いがあります。そこでなぜ「資本主義」の過程なるものを加速させる必要があるのかという疑義は何度でもさしはさまれるべきですし、例えば、『加速主義読本[#Accelerate: The Accelerationist Reader]』(2014)のような論集を読めてない状態で加速主義を語ることに、少なからず躊躇もあるのですが、ここでは、レイ・ブラシエ「さまよえる抽象」(『現代思想』2019年6月号所収、星野太訳)の一節(抗ウィルス剤と資本主義の関係を説いた箇所)を引きつつ、当座の姿勢、このトピックに私が仮託したいところのものを述べたいと思います。

 いまや、生命をおびやかすウィルスの蔓延と、グローバル化した資本主義社会の諸様相に直接的な相関関係が存在することは、疑いようのない真実である。また、後者[グローバル化した資本主義社会の諸様相]を根こそぎにすることが、前者[生命をおびやかすウィルスの蔓延]を根絶するもっとも確実な手段であることも、おそらく真実である。さらには、富によるのではなく、必要に基づいて抗ウィルス剤を分配することが、ポスト資本主義社会[という文脈]における現行社会の諸様相の[新たな]役割を思索することよりも急を要する政治的問題であることも、同じく明らかである。にもかかわらず、前者[必要に基づいて抗ウィルス剤を分配すること]の緊急性が、後者[現行社会に見出される諸様相がポスト資本主義社会という文脈においてどんな役割を発揮するのか思索すること]の重要性を取り除くことはない。資本主義社会と、その働きのすべてを決然と、もしくは漠然と否定すれば、資本主義によって生み出された病理は根絶されるだろう――ただしその場合、目下その機能を資本に従属させられている諸技術に潜む、解放のポテンシャルを取り消すという代償を支払うことになるのだが。[……]未来を締め出すことにより、視野狭窄な否定は、過去の復権を望むほかなくなる。そして物事の以前の状態を焦れるようになる[……]極めつけは「もしも資本主義が起こらなかったら」というわけだ。[……]資本主義が起こらなければ、と望んだところで、目的の再設定という問題を避けることはできない。
ブラシエ「さまよえる抽象」現代思想2019年5月 星野太訳 93頁 (原著2013) ※本note記事の文脈に即して、原著のWeb公開版を参照しながら訳文の一部を改めた。[ ]内は、江永による解釈である。

未来あるいは目的というものを、今ここできることを断念するような抑圧のために用いるのではなく、むしろ、今ここでできることを解放へ向けた善用のための指標として用いること。あるアクションを断念するのではなくそのアクションが善用/悪用される基準として、目的あるいは未来を設定しなおすこと。それを加速主義の眼目として私は考えたいと思っています。――それとは別に、具体的疑問として、例えば縁故関係での贔屓や己や身内可愛さでなされる保身が、資本主義社会固有の悪徳であるとは私には思えないので、むしろ組織や共同体の保身すら解体するものとして、さながら「正義はなされよ、世界は滅びよ」(フェルディナンド1世)のいう「正義」のごとき「純粋公益」に動機づけられる、無情なルールとして、資本主義的なプロセスなるものを考えたいという思惑もあります。実際、ニック・ランド「目的論発作[Teleoplexy]」(2012)のようなエッセイでは、うまく書かれて(またうまく私が読めて)いるのかはともかく、占有とシェア、また私と公といった区別を温存しえなくなるほどに「加速」が増大していく中で目的性が再考されなければならないという立場が提示されているように感じられます。――グローバル化への反発としてのローカルな連帯、という題目の、グローバル企業の運営するメディアを介したシェア、という捻じれた今日における脱領土化再考。

どのような革命の道があるというのか。それはひとつでも存在するのか。それは、サミール・アミンが第三世界の国々にすすめているように世界市場から退いて、ファシスト的な「経済的解決」を奇妙にも復活させることなのか。そうではなく逆の方向に進むことなのか。すなわち市場の、脱コード化の、脱領土化の運動の方向にさらに遠くまで進むことなのか。というのも、おそらく、高度に分裂症的な流れの理論や実践の観点からするならば、もろもろの流れはまだ十分には脱領土化してもいないし、脱コード化してもいないからである。過程から身を引くことでなくて、もっと先に進むこと。ニーチェがいっていたように、「過程を加速すること」。ほんとうは、このことについて私たちはまだ何も理解してはいないのだ。
ドゥルーズ+ガタリ『アンチ・オイディプス』第3章第9節、宇野邦一訳、文庫本下巻50頁 (原著1972)

また一つ別の格言的に流通する言い回しとして、「知性のペシミズム、意志のオプティミズム」(アントニオ・グラムシの書簡に由来)を挙げたいと思います。元の文脈から逸脱した、その意味では不正な使用かもしれませんが、私は加速主義を「知性のペシミズム、意志のオプティミズム」に結び付けて捉えたいと思っています。――資本主義によって生み出された病理の否認はせず、このままでユートピアが到来することはないと認識しながらも(知性のペシミズム)、資本主義が可能にした解放的なポテンシャルの善用は欲望すること(意志のオプティミズム)。何かを毒として作用させるではなく薬として作用させるために、その目的を問いなおすこと。――止まらない過程を暴力と呼ばざるを得ない面があり、私の姿勢が、現行社会での暴力の全面的是認とは別物でありうるのかということは常に問われねばならないし、私が耽溺しがちな叙情がどういう暴力を下支えに生産されているのかを、見失ってはならないでしょう。それでも、「意志のオプティミズム」を持ち続けたいと私は欲しており、この欲望が、単に私という一個体の惰性的な守旧の念や、公言しない利害関係といったものにおさまらない、何かであると信じたいのです。――最後に、私にとって加速主義的であり、感傷エモ的な暴力と叙情の組合せを認めることができ、「きみとぼく」のEXIT、そして「過程を加速すること」、それら一切を担えるように私に感じられるMVを挙げて、この記事を結びたいと思います。――『さらば人類』(2015)から、3年後のMV。

モーモールルギャバン『IMPERIAL BLUE』2018
〈加速主義〉

[了]

次回


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