やさしい人

こんなことを言うと何だかやな感じだなと思うけれど、私はよく「優しいね」と言われる。
そう言われる度に思う。『違うよ、優しいわけじゃないよ』と。

本当の「やさしさ」には、相手のことを思う気持ちが伴っているんじゃないかと思う。

洋服のサイズ表記のシールが付けっぱなしになっていることを教えてあげたり、ケアレスミスをさりげなく教えてあげたり、本人が気付かず人を傷つけている事実を時には厳しく伝えることもあるだろう。
悩んでいるときは話を聞き、解決はできなくとも自分はその人の味方であると伝える。

私は、どれもうまく出来ない。どう思われるかとか、どれが正解かだとか考えているうちにタイミングを逃してしまう。そうでなくても、相手が欲しがっている言葉をただ発するだけになってしまうこともしばしば。

やさしさってなんだろう。某アーティストに倣って、やさしさについて本気出して考えてみたけれど、明確な答えは見つからない。行動ならば、ぼんやりとイメージできる。だけど、それはきっと誰かの「やさしさ」を目にしたいつかの光景なんだろう。

若い頃の話。学生時代や社会人になりたての頃、随分とトゲドゲした気持ちを抱えていた私は、自分の弱さを公言する人が大嫌いだった。

「人はそんなに強くないから」「こうするしかなかった、仕方がなかった」「1人は寂しいから誰かといる」

そんなことを言う人は逃げてるだけだ、強くあろうとしないなんてかっこ悪いと思っていた。何か分からないものと戦おうとして、強がったり怒ったりして生きていた。

それから10年以上経った今、私はとても弱い。すぐに落ち込むし、よく不安になる。だけど、そういった部分はあまり他人には見せられないでいる。

「#やさしさにふれて」というハッシュタグ。真っ先に思い付く“あったかくて優しい人”がいるのだけれど、そんな人と暮らし始めて少しだけ柔らかい気持ちをもつことができるようになってきた。

人は弱い部分も強い部分も持っている。自分自身の嫌だと感じている部分が露呈してしまった時でも「そういう日もあるさ。」と受け止めてくれる人もこの世にはいるのだと知った。

やさしさは色んな顔をして現れる。目に見えるものもあるし、もっと感覚的なものもある。

ここまで書いてみて、ふとある事に気付いた。
やさしさはきっと個人的なものなのだ。自分にとっては何気ないことでも、相手にとって「やさしい」と感じることならばそれはやさしさなのではないか。
そうだとしたら、私自身は優しくなんてないと思っていても、誰かにとっては「優しい」人なのかもしれない。それはある側面から見れば正しいのだ。

そうだとしたら、嬉しい。

また、前述した“あったかくて優しい人”と生活している中で、分かったことがある。
「私がこの人生で本当のやさしさとやらを発揮できる相手は、きっとそんなに多くない。」ってこと。そう、関わる人すべてにやさしくなんて出来ない。いや、もしかしたら出来る人もいるかもしれないが、私には出来ないみたいだ。

どうか、大切な人に「やさしさ」を発揮できる人生でありたい。場の空気を整えるうわべだけのやさしさや気遣いに疲れて、本当にやさしくしたい人のためのエネルギーを失いたくない。

疲れない程度にほどほどに人に優しく、そしてひとりよがりでない優しさを模索しながらこの人生を生きていきたいと、今はそう思う。

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