料理は祈り

 料理をすることは祈ることだと思っている。
 食事を整えることは、身近にいる誰かと自分自身とが明日もまた健康であるようにと祈ることだ。

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  夫の暴力からの逃走生活が始まり、仮住まいのマンスリーマンションに落ち着くことはできたものの、台所には満足いくだけの調理器具など揃っていなかった。用意されていたのはフライパンが一つと薄い金属製のいかにも貧弱な鍋だけだ。もちろん調味料だって何一つ手元にない。

 必死の思いで駅前のスーパーで手にしたのは昆布だった。

 鍋に水をはって昆布を割り入れる。弱火から火にかけてしばらく待つ。水温が上がってくると小さな気泡がふつふつと昆布につき始める。  鍋の様子を横目で見ながら私はざくざくと無心で野菜や肉を刻む。その日に食べたいと思うものは何でも自由にいれることにする。白菜、水菜、葱、しいたけ、えのき、しめじ、豆腐、鶏肉、豚肉、鱈。組み合わせはその日によって違って良い。スーパーで食べたいなと思ったものを買ってきて、何でも刻む。刻んだものは次々と鍋に放り込む。
 料理の本にはたいてい「澄んだ出汁をとるためには沸騰直前に昆布をひきあげること」と書いてあるが、そんなことは気にしない。
 鍋の底に敷かれた昆布の上にいろいろな食材が地層のように折り重なる。安っぽい鍋は全ての食材を包み込んでコンロの上で少し頼もしく見える。

 頃合いを見てそれをただポン酢で味付けして食べる。昆布の濃い出汁の香りと野菜の滋味がじんわりと身体にしみこみ、身体が温まって気持ちがほぐれる。 

 どれほど気分が沈んで動きたくないときでも食材を刻んで鍋に昆布と共に放り込むだけならばできる。どれほど食欲がなくても出汁の味の沁みた野菜ならば食べることができる。

 逃走生活を始めた私の身体を支えていたのは、間違えなく昆布出汁だった。

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「自分の望みを自分で叶える練習をしなさい」

 夫の暴力に悩みながらも家を離れる決意が出来ないでいた頃、カウンセラーは私にこんな課題を出した。 彼にどう思われるか、「世間」にどう思われるかを基準に物事を判断することがあなたの癖になっている。まずはその癖から脱しなさい。それが彼女のメッセージだった。食べたいものを食べたり、してみたいことをしたり、自分の望みを自ら知って自ら実行する練習が私には必要だという。
 彼女は励ますように言った。
「大丈夫、あなたはどんなに目一杯わがままなことをしても、通常の人の30%くらいにしかならないはずだから」

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  何でも好きなものを出汁でくつくつと煮て食べることは、私にとってこの「練習」の一つなのかもしれない。それは抑圧された価値観を解放することの第一歩になりうるのかもしれない。
 思うままに料理をし、好きなように食事をし、私は少しずつ力を取り戻しつつある。
 
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 料理をすることは祈りだと改めて考える。
 たとえ短く、慌ただしく、時にやや乱雑なものであったとしても、祈ることはきっと明日を少し良くすることに繋がっている。

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