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「被害者」になるということ

 夫に暴力を振るわれたこと。その暴力から逃げ出して一人で生活していること。私はそのことを職場ではひた隠しにしている。「旦那さんは元気にしているの」なんて言われる度に、あいまいに笑って「まあまあです」などと答えてごまかしている。
 自分が悪いことをしている訳ではないはずなのに、私は自分の傷をひた隠しにせずにいられない。 

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 私は「被害者」として特別視されることを自分でも嫌になるくらいに恐れている。「かわいそうな人だ」「気の毒な人だ」と思われるのが辛いのだ。それで頑なに暴力を受けたことを隠し続けている。
 いや、確かに私の状況はわんわん泣きわめきたいほどに「かわいそう」で「気の毒」ではある。結婚してすぐに夫がアルコール依存症で暴力癖を抱えていることが判明するなんて、相当に「気の毒」だ。
 それでも、私は誰かに「お気の毒に」なんて言われたくはないのだ。私は気の毒である状況から抜けだすために情報収集し、記録を残し、医療や法律の専門家に相談して回り、行動している。「気の毒」の枠に押し込められたくなんてないのだ。 

 「かわいそうな人」「気の毒な人」と呼んで同情の言葉をかけることは、一見優しい行為に見えるかもしれない。しかし、そこには「あなたはかわいそうな人、私とは違うのよ」「暴力を受ける人は気の毒な人、普通ではない特別な人」というある種の線引きがあるようにも思うのだ。
 暴力と関わらずに生きている人にとっては、こうして線引きをするのは自分を守ることでもあるだろう。暴力を受ける人は特別な人だと思っていられれば、自分はそれとは無縁であると安心していられる。誰もが暴力の被害者になりうるのだと考えることは、自分の生活の安心感が根底から崩されることになる。それは認めがたく、受けれいられない事実だろう。だからこそ「被害者」は特別視されてしまうし、そのことが「被害者」を息苦しくさせる。 

 「かわいそう」と言われると私は自分の持つ力がそがれるような感覚を覚える。苦悩が続く毎日であっても、私は活力をもって日々を生きている。たとえ渦中にあっても、美しい空の色に感動することもあれば、季節の変化に嬉しくなることもある。「被害者」の立場に立っているからといって、不幸一色に塗りつぶされてしまうことなどないのだ。一言で「かわいそう」と呼ぶにはふさわしくないほどに、私の生活はしっかり力に満ちている。

 「被害者」という言葉で捉えられることを考えるたび、私は自分の体験について一層固く口を閉ざすことになる。第三者からみればそれは偏屈に見えることかもしれない。それでも、私は簡単には口を開けない。冒頭に書いた通り、被害者として特別視されることを「自分でも嫌になるくらいに恐れている」のだ。

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 月に一度、DVの被害にあった女性のための講座に通っている。暴力の背後にある心理や、トラウマから回復するためのセルフケア、より良いコミュニケーションを学ぶための場なのだが、そこでは暴力に向き合う女性のことを少し不思議な呼び名で読んでいる。「被害者」ではなく「☆さん」という呼称を使うのだ。女性たちが自ら輝く力を持っていることをメッセージとして込めているのだという。そしてそれは「被害者」という呼び名が人のパワーをそいでしまうことを避けるものである。

 一番の苦境で私をエンカレッジしてくれたのは「かわいそう」ではなく「頑張っているね」という言葉だった。だから、もしもあなたの近くに「被害者」と呼ばれる立場の人がいたならば、どうかそっと優しくその人の頑張りを認める言葉をかけてほしいと思う。同情されることより共感されることが人のエネルギーになる、私は実感をもってそう考えるようになった。

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(付録:私の近況)
彼はまだ離婚に合意してくれません。「あんたのせいで家の中が暗いんだ、あんたを恨んでいるんだ」なんて言われてきたのに、まだ結婚生活を継続したいという彼の気持ちが理解できないのです。

#DV #エッセイ

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