折に触れて (洋務運動 3)

 清咸豊帝はアヘン戦争や太平天国の騒乱の中で1861年病没し、6歳の同治帝が即位する。あまりに年少の皇帝の誕生をうけて正室の東太后、側室の西太后が並んで垂簾政治を始める。温和で引っ込み思案の性格の東太后に対し、西太后は権謀に長けた所謂やり手であった。垂簾政治は西太后中心に回り始め、以後辛亥革命直前まで実質的に西太后の統治が続く。
 太平天国の鎮定、捻軍の鎮圧以降、同治の中興と呼ばれる比較的安定した時期があったが、その時間を清は有効に使うことが出来なかった。例えば、鉄道を敷こうとする動きもあったが、風水の考えから大幅に妨げられたようなこともある。龍脈を断ち切るのはよくないとのことだろう。中体西用の限界である。あくまでも中国古来の体制や考え方が主体であって、西洋の技術を方便として利用してゆく姿勢では西洋列強に対抗出来る国力、就中経済力や軍事力を蓄えることは出来なかった。既述のとおり1874年の琉球島民が台湾原住民に惨殺されたことを契機とする征台の役で双方の保護国であった琉球を日本に完全に抑えられ、1884年の清仏戦争でベトナムはフランスの保護国とされた。
 曾国藩、李鴻章、左宗棠などの漢人洋務派官僚たちはそれぞれの野心もあって足下の洋式化を進める。最も顕著であったのは李鴻章の北洋閥であり、陸軍や海軍を始め、例えば天津大学など近代的な大学を整備し、テクノクラートの育成にも着手している。皇帝は確かに北京にいるが、北洋閥の拠点である天津は徐々に実質的な政府機能を果たす場所になってゆくのがこの時期である。清の王朝は存在するが、当てにならない北京の朝廷を神棚に棚上げして各地で軍閥になってゆく兆しを見せる。
 西太后の陵墓は天津と北京の間にある河北省薊にある。清東陵と呼ばれる一群の清朝の陵墓が集まった場所である。明の十三陵に比べれば規模はコンパクトである。筆者は10年前くらいに訪れたことがあるが、その頃は周りが畑の本当に鄙びた場所であった。蒋介石の北伐時に西太后の墓は掘り返されて死体を輪姦されたという言い伝えがある。老齢で亡くなったおばあさんの朽ちかけた死体にそういう行為をするという話は容易に信じ難い。但し、それほどまでに庶民に憎まれていたということは確かであろう。食事のときには常時100皿の異なる種類の料理を用意させ、少しずつ箸をつけて食する。宦官に粗相があった時など、むち打ちをさせながら苦しむのを見て食事を楽しんだという。映画では咸豊帝の寵姫の手足を切り落としてダルマにして喜んだという逸話が紹介された。贅沢奢侈を極めて国の財政を傾けたのは確かである。

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