折に触れて (日露戦争 3)

1902年日英同盟が結ばれる。既に述べたようにこれで日本はアジアにおけるイギリスの代理人という側面を持つようになる。この日英同盟には2つの義務条項が記されている。①どちらかが複数国と戦争になった場合は同盟している国は参戦しなければならない、②太平洋において日本はロシアの総排水量以上の艦艇を保持しなければならない。①にしろ②にしてもこの同盟は明らかにロシアの南下を意識し、それに対する対策であることを示している。ボーア戦争の出費でロシアと直接に対峙するのは難しいイギリスにとって、日本はアジアの番犬である。①の義務事項は世界一の大海軍国であるイギリスを表面に出したくないロシアにとって、1898年の(恫喝による)露清密約による清との軍事協力関係から清の対日参戦も可能であったが、清にも対日参戦させることを自重させた。②については日本の連合艦隊旗艦三笠がイギリス製であるのに象徴されるようにイギリスは商売に利用できる。日本の立場から考えれば、世界のシーパワーの代表者であるイギリスの後援を得て、具体的にはバルチック艦隊アジア回航時に見られるように、世界各地の海港でのロシア艦艇への嫌がらせから日本の戦費の調達に至るまで、イギリスの直接間接の援助がどれほど意味を持ったのか計り知れない。
 日露戦争を考えるときに大きくはロシアの不凍港を求める南下政策とそれを阻止しようとするイギリスの立場をまず抑えておくべきである。それにともなって義和団事件後のロシアの満州居座りや朝鮮半島への浸透政策が絡まり、日本の立場からは三国干渉とその後のロシアの態度や朝鮮半島に対する(後の言葉で言う)「生命線」意識が国民感情に火を点けることになる。実際に戦火を交えたのは日本とロシアであるが、日本を操るイギリス、戦場になった清や朝鮮が密接に絡み合っていることを無視できない。ロシアとイギリスの覇権争いに極東の3国が翻弄されている図式と考えても良い。その覇権争いのパワーバランスの間隙を縫って極東の3国のうち日本はこの時点では巧く立ち回り、国力を伸ばす果実を得たと言える。司馬遼太郎はこの戦争の物語に「坂の上の雲」と題名をつけたが、正に適切な命名であったように思う。明治維新後、イギリスの世界一のシーパワーに憧れてそれを追い求め、日露戦争後には一応、世界三大海軍国になった途端に次のグランドデザインを見失ってしまったのが近代日本の実情ではないだろうか。峠の頂点までは誰もが一歩一歩苦しさ耐えながら坂道を登る。坂を登り切って下りに入った途端に油断・高慢が意識に忍び込み、就中成功体験が思考の柔軟性や危険予知感覚を奪ってゆくのである。

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