折に触れて

 胡錦濤が党総書記の時代に陰に陽に熾烈を極めた所謂団派と江沢民派の軋轢の間で妥協の産物として地位を築いて来たのが習近平である。

団派は胡錦濤の後継者として誰もが認める李克強を党総書記にしたい。江沢民勢力は自分たちの権益を守るためにはどうしても李克強後継を阻止したい。そういったお互いの利害の調整を図る上で「太子党」というグループがクローズアップされる。

 前にも触れたが、中国のこういった人的権力関係を派閥でくっきり区分して考えるのは実情を捉える上では無用で有害である。あくまでも個々の関係の分析が基本になる。

それを承知で言うならば、団派や江沢民派という区分と太子党という概念は定義の次元が異なる。太子党はあくまでも親や祖父母が高級幹部の子弟であり、団派にも江沢民派にも太子党はいる。

例えば劉延東や汪洋は団派で区分されるが太子党でもある。江沢民の大番頭である曽慶紅は太子党の元締めであり、習近平も当時は江沢民に近いと区分されていた。

 李克強に対抗する後継候補を提示しなければ、利権集団を維持できなくなる江沢民は2人の候補を考えていた。両派にコネクションのある太子党の中から選べば妥協も可能だろうという含みがあった。

太子党の2人とは薄煕来と習近平である。いずれも八老に数えられたの薄一波、習仲勳(李先念、鄧頴超の死去後に八老入り)を父に持ち、共産党のプリンスの地位づけがあった。

 政策能力的には圧倒的に薄煕来がリードしていた。大連市~遼寧省での実績に加え商務部長として辣腕を振るったパフォーマンスは瞠目に値するものであった。

しかし、その反面、怨みや嫉妬を買うことも多かったように見える。習近平の福建省や浙江省での勤務は特に目立つものがない。彼の目立つ部分としては解放軍の歌姫彭麗媛が妻だということぐらい。

現に習近平は「彭麗媛の夫」と呼ばれていた。政治能力の評価では薄煕来は習近平を2歩も3歩もリードしていた。

ところが、2007年の第17期1中全会では習近平が政治局常務委員に迎えられて序列的には同じく新政治局常務委員の李克強の上になり、第18期での習近平党総書記、李克強国務院総理が透けて見えるようになる。

 薄煕来は4大直轄市重慶市の党書記になる。彼にとってはこの人事は衝撃であり、意外でさえあったに違いない。

実は同年代で同様に年少時代を過して来た薄煕来と習近平は幼なじみである。少し年長でもあった薄煕来は習近平を小馬鹿にしていた節もある。

「どうしてあんな能力の劣る奴が俺より偉くなるのか」

と自信家の彼には許せなかったことだろう。薄煕来は団派と江沢民派の妥協の目的には自信たっぷりなパフォーマンスが問題だったことが理解できなかったように感じる。辣腕家は不必要で邪魔なキャラクターだったのである。

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