折に触れて (太平天国 3)

 金田村で蜂起し、湖南を目指した頃には太平天国には5名の大幹部がいた「東王」楊秀清、「西王」簫朝貴、「南王」馮雲山、「北王」韋昌輝、「翼王」石達開である。教祖であり、中心になっている洪秀全は「天王」として彼らの上に君臨する。このうち「西王」簫朝貴、「南王」馮雲山の両名が湖南を転戦中に戦死してしまう。武漢から江蘇を目指す時点での蜂起時の洪秀全を支える大幹部は3名となっていた。
 5人の大幹部で始まった太平天国であるが、元々5人の中でも楊秀清のポジションは別格であった。太平天国はキリスト教を標榜するが、実のところシャーマニズムを色濃く含む新興宗教である。「天父下凡」や「天兄下凡」というヤハヴェやキリストが憑依することによって集団の意思決定の権威付けに使われることがあった。この「天父下凡」はヤハヴェが楊秀清に憑依する、「天兄下凡」はキリストが洪秀全に憑依する。よって、洪秀全と楊秀清は特別な存在であることになる。また、困ったことは中国伝統の儒教式には兄より父は上位に位置することから、憑依が始まると天王と東王の上下は逆転することになる。この点が後々に大きな問題を引き起こすこととなる。
 武漢から移動を開始するにあたって、南京を目指すという大方針を示し、これを指導したのが楊秀清である。上記の5名の大幹部の中でも特別の地位を表に出しての決定であった。武漢から長江を下り1853年3月には南京を陥落させ、天京と改称し本拠地とした。ここで南京陥落以降の方針が討議される。①まず江南を固めて力を蓄える時期だとする案、②勢いに乗って一気に北上し、北京を目指す案、③両者の折衷、という3案があったが、採用されたのは③の折衷案であった。これにより1853年5月に北伐が始まり、6月には南京移動で開け放した湖北や湖南をもう一度抑えるために西伐が始まる。
 北伐軍は1853年10月には天津間近に迫ったもののそこで進撃が止まり、逆に清の頑強な抵抗に押され気味になる。広西や広東、湖南出身の太平天国蜂起からの精鋭を北伐軍に入れたと言われるが、今でも華北と華南の気候は大きく違う。天津間近にもなると10月には0度近くまで気温は下がる。華南出身の者には想像できない寒さだったのであろう。そういうことで士気が後退したことも大いに影響したことだろう。また西伐軍は曽国藩の鍛えた湘軍に行く手を遮られて苦戦し、進撃が止まる。その後、翼王石達開などが応援に駆け付け、安徽省や湖北の東部、江西を抑える。これにより、1856年には江南の都である天京(南京)後背地を確保し、一応は自立保持する基盤は整えられた。

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