折に触れて (日露戦争 2)

19世紀、ロシアは段階的にかつ着実に清の領土を奪い取っている。今流行の言葉ではサラミ戦略。教科書的にサラミ戦略で清を蝕んでゆく。第二次アヘン戦争(アロー号事件)の決着をつける1858年の天津条約では、愛琿条約を別に結びアムール川左岸を自国領として、沿海州っを共同管理することを清に認めさせる。1860年の北京条約ではその沿海州全域を自国領に編入してしまう。1898年には日清戦争の結果、下関条約で日本に割譲された遼東半島を三国干渉して日本に諦めさせ、すぐさま清に旅順と大連の租借を認めさせ、東清鉄道の建設を進めることでシベリア鉄道の延伸をしてヨーロッパロシアから満州までを結ぶようにする。仕上げは1900年の義和団事件に際して清に出兵した後、兵を引かずに満州全域を実質占領してしまう。隙あらばつけ込み、弱い奴からは徹底して奪う姿勢は見事と言うほかない。(当時の海の大国であるイギリスとの間では1860年の北京条約を不当として香港を全域返させた現在の中国共産党政府は沿海州を返してくれとロシアには全く言わない。)
 遼東半島を抑えたロシアは念願の不凍港をアジアで獲得した訳だが、次なる獲物を朝鮮半島に定めて、日清戦争敗退で清が朝鮮半島への影響力を失った後の隙間に入り込み、閔妃グループに取り入り懐柔するのに成功する。ことの詳細はこうである。日本は日清戦争直前に閔妃グループを追い出し、元々は復古派であった大院君を担いで復権させ、金弘集を中心に甲午改革が行なわれてしばらく近代化が進められる。だが、下関条約が結ばれ、日清戦争が日本の勝利に確定してから3ヶ月もたたないうちに、ロシアの後援を得て閔妃グループがクーデターを決行し政権を奪取する。日清戦争前後から憂鬱ながら朝鮮の情勢を述べているが、事実の経緯をたどると大院君にも閔妃にも朝鮮はかくならねばならぬ、こうして国を富ませて、国力を蓄えるのだといった理念も信念も見られない。強い者の力を利用して自己の権力と栄華を保つことしかないのではないか。保守派や改革派という表現も彼らの姿勢を表現するには不適切である。権力亡者なり贅沢中毒症患者といったあたりが適切だろうか。かかる連中に振り回される朝鮮の民衆こそ迷惑であり、最大の被害者であろう。そういった朝鮮の政治の無定見さをベースに清や日本が極東における主導権を争ったのが日清戦争である。その果実を横合いから奪い取ったのがロシアである。満州と朝鮮の主導権を手に入れて、正に絵に描いたような漁夫の利をせしめたのである。三国干渉は遼東半島の部分が教科書にも載り有名であるが、鮮やかに朝鮮半島の主導権をロシアに握られた部分も認識しておくべきである。

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