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【ショート】シマトリネコ

「私たち、別れませんか?」
その言葉は、僕にとっては唐突なことだった。一瞬、何を言われたのか理解できず聞き返そうかと思ったが、彼女の顔を見て何も言葉は出てこなかった。なぜコーヒーの色が移りやすいのに、ティーカップは白いのだろうかと思った。
その後何をしゃべったのか殆ど覚えていないが、彼女と僕の家はほど近いのに、早めに別れて、再会しないようにできるだけゆっくり歩いたことだけは覚えている。
その時の会話の中で、2番目に印象に残っている言葉はこれだった。
「初めて会ってから3年、付き合ってから2年経つけど、XXさんが何考えてるか、全然わかんない。」
そして栄えある1位
「私のこと、本当に好きでしたか?」

1回目のデートの時、僕は『シマトリネコ』のことを考えていた。待ち合わせ場所の大阪梅田に向かう途中の街路樹を見ていて、ネームプレートのこの文字が目に付いたのだ。『シマトリネコ』。きっとこんな感じだ。

あるところに隻眼の猫がいる。その猫は町中に残されたしま模様をひっかいて消していく。このしま模様は猫のナワバリ(シマ)を誇示するためのものなのだ。そうして猫大戦争が起きる。明かされる隻眼の経緯、敷かれる黒猫包囲網、烏の乱入、そしてライバルのドラ猫との一騎打ち、果たしてメス三毛猫の陰謀とは、、、?そうして、隻眼は淡路島を統一するのであった。

植物の名前が『シマトリネコ』ではなく『シマトネリコ』だと気づいたのは、帰り道のことだった。

彼女のことは一目見たときからタイプだと思っていた。スーツの似合う長身で、笑うとクシャッとなる顔はどこか長澤まさみに似ていた。話をしていても朗らかで、僕のくだらない話にも笑ってくれた。28歳にもなって運命の人、なんていう恥ずかしい言葉は流石に使わないが、それでも出会えたことを信じてもいない神様に感謝するくらいには浮かれていたと思う。

「それで、初彼女にフられた感想は?」
意地悪く笑うその男は藤浪という。僕の元同僚で、部署は違うが彼女の先輩ということになる。
「サイアクに決まってんだろ。」
そういいながらも、僕は正直よくわからなかった。泣いていいのか何をすればいいのかよくわからず取り敢えず酒を飲んでいる辺り、冷静ではないのだろうな、という他人事のような感想しか出てこない。
「なかなかいないぞ、君みたいな変人と付き合ってくれる彼女。あんないい子で、しかも可愛くて。」
「うん。」
「君が急に会社辞めて、小説家になった時もついてきてくれてさ。」
「わかってるって」
「あの子、たぶん君と結婚する気だったんだぞ。」
となりで飲んでいるグループの新入社員は飲み会なら任せろといった様子で、愛想笑いと酒注ぎをひたすらに繰り返している。
「なんとなくそう思ってたよ。」
「じゃあ、何で別れることになるんだよ!」
藤浪は怒っているように見えた。でも、怒りたいのもそれを聞きたいのも全部僕なんだけどなぁ、と思った。でも、結局は何も言えず苦笑いでビールを流し込んだ。

自分を愛せない人間は、人を愛せない。恋愛をするたびにこの言葉を思い返す。自分を愛する人間、なんていうものがいることが信じられないからだ。彼女は、僕が考えていることが分からないといったが、僕はどうして彼女が僕なんかと付き合ってくれるのかが分からなかった。だって、きっと「今、『シマトリネコ』のことを考えていたんだ。」なんて言ったとしても彼女は僕のことを理解したわけではないだろう。

明日からも、僕たちの人生は続く。彼女がどういう気持ちで明日を迎えるのか、僕には想像もつかない。藤浪にどうして怒られなければならないのか、これは何となくわかる。でも、なんで関係のない人の人生にそんなに感情的になれるのかは、正直よくわからない。

何の人生の意味も分からないまま、きっと僕は明日も文章を書き続ける。願わくば、僕と関係のないところで、僕の知り合いがみんな幸せになればいいと思う。誰にも伝わらなくても、誰の人生にも意味がなくても。


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