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デスティニープラン

ガンダムSEED、Destinyの両方の総集編を映画館で見終えた。
SEEDは3回で収めるにはあまりに濃いストーリーなので、映画館を観るたびにぐったりしてしまった。
その点、Destinyは放送後も賛否の分かれた作品であったが、4回でまとめると非常に丁度いい塩梅だし、放送時には間に合わなかったと思われるデスティニープランについて丁寧に描かれているので、最終回をみて満足度が高かった。
それにしても、二十年前の作品が、私を含めて今なお熱狂的なファンに支えられているのは、この作品の素晴らしさを物語っていると思った。


(以下、ネタバレ含む)


さて、Destinyの最終回をみて、「デスティニープラン」と登場人物達との関係性があることに気づいたので、その話をまとめたいと思う。
そもそもデスティニープランとは、デュランダル議長が提唱したもので、人間全てに対して、遺伝子に基づいて役割を与え、そのとおりに生きてもらうというものである。
役割が生まれながらに固定されるため、未来を変えたいという欲望がなくなり、欲望がなくなれば戦争がなくなる、というのがプランの趣旨になる。
初めてこの作品を観たときは、「こんなプラン、嫌だよね!」というラクス達に共感するだけだったのだが、映画館で最終回を観て、このプランとの関係性を持って、登場人物が描かれていることに気づいた。

まずは、プランの策定者の張本人、デュランダルである。
デュランダルは、子供が産めないという理由でタリアと別れなければならず、その運命に怒りを覚えて、このプランを構想した(と解釈している)。
自分がタリアと結ばれるという欲望さえ持たなければもっと幸せに生きられたのに、という思いに、欲望に抗えずに死んだ友(ラウ)に対する思いも相まって、このプランは生まれた。
そして、プランによって、すべてを支配する為政者としての絶対的な地位を手に入れるために、周到に計画を立てて、物事を進めていく。
デュランダル自身は、自分の思いをもって未来を変えようとする存在で、プランの中では生きていないのが面白い。

先駆けてプランの下で生まれた人間として描かれているのは、ミーアである。
ミーアは、「ラクス・クライン」という役割を生きることを自分で受け入れて、実践したキャラとして描かれる。
彼女の「役割だって良いじゃない」という発言と、それを受け入れられないアスランとの対比は最高に良い。
役割を与えられない世界において、ずっと誰からも評価されない人間は確かにいて、そういう人達にとっては、役割を真っ当して他人から評価される人生は魅力的に映る。
でも、自分自身がなくなってしまう。個々人として生きることを放棄してしまったことに対して、彼女は最後、後悔をするのである。

次に、自ら選択をせず、役割を与えられてその通り生きるよう強制されたのが、ステラである。
ステラは戦士として生まれ、その通りに生きるように、過去の記憶すら奪われている。
過去がないからこそ、未来を夢見ることがないという、デスティニープランの非人道的なバージョンともいえる。
(デスティニープランは、戦争をしたくないから、この世界を選ぶよね、という人々の意思をある程度は尊重した制度であるため。)
物語の中で、彼女はシンによって過去を得るわけだが、それによって「未来を貰った」とエンディングでいう。
過去を得たからこそ、未来を得るワクワクがあるのだと言う彼女は、役割に沿ってしか生きられなかった人が、普通の未来や夢を持つ世界に対してどう思うかを示している。
ミーアとは違う形で、デスティニープランを否定していると言える。

そして、レイは、役割も自分自身も与えられず生まれた存在である。
レイがデスティニープランを当初賛同していたのは、自分自身すら与えられなかった世界に絶望し、役割や居場所をくれた議長への感謝の気持ちからくるものだと感じる。
ラウの死は、さらに自分の人生への絶望となり、役割を与えてくれる世界は幸せではないかと思っていたのではないか。
ただ、キラから、「君は彼じゃない」と言われたことで、初めて自我に気づく。
物語の途中でラクスがアスランに言う「アスランでしょう」という言葉に近い。
自分を一人ひとりが持っている、持って良いと思えたときに、デスティニープランは、それを否定するものだと気づく。
そして、キラの明日を守るために、デスティニープランを否定し、議長を撃つことになるのである。

最後に、主人公?のシンは、「身近な人をもう死なせたくないから、力が欲しい」という思いから、無意識に与えられた役割に沿って生きてしまうキャラとして描かれる。
シンは議長やレイに誘導され、迷う気持ちもありながらも、与えられた役割から最後まで抗えなかった。
シンの場合は、当初の思いと与えられた役割が、微妙に重なり、微妙にズレていたのだと感じる。
アスランはその点、ズレを自覚して離軍するわけだが、シンはそこを整理できずに苦悩を続ける。
その理由は、彼が過去に囚われたまま生きてきたことにより、最後にそのことをアスランに指摘されるのである。
「お前は本当は、何が欲しかったんだ」という問いかけへの回答は、シンにとって一貫して「身近な人を守りたい。平和に一緒に生きたい」だったはずだが、いつの間にか議長やレイのせいで「なんでもいいから守る力を得る」となり、手段が目的化してしまったのである。
デスティニープランで、役割が固定化すると、同様に手段が目的になってしまう。
こうして、シンもデスティニープランを否定することになる。


こうした、ディスティニープランからみたそれぞれのキャラクターというのは、学生時代に観ていたときには考えつかなかった考察である。
長年、同じ作品をみるというのは、その解釈の変化から、自分の成長・変化を感じるきっかけになって、良いなと思った。

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