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アニメーションを「読む」からアニメーションで「書く」へ〜REM読書会 第3回目報告レポート

 2020年5月17日、REM国語部会の第3回目となる読書会が行われた。
 REM国語部会は、REM(=Radical Educational Meeting)が主宰する国語教育に関する勉強会だ(といっても現在のところ、国語部会以外の組織はREMに存在していないのだが)。
 多様なメディアにあふれる現代社会において、国語教育を国語教育内部の問題としてだけではなく、その他の様々な近接領域の知見を取り入れながら捉え直し、理論・実践の両方において根本的に国語教育について考えるというのが、REM国語部会のテーマである。
 今回読書会で扱った本は土居伸彰『21世紀のアニメーションがわかる本』
 REM国語部会では、2020年上半期のテーマとして「アニメーションと国語教育」を掲げている。実は、令和4年度から実施される高等学校の新学習指導要領には「翻案作品」や「映画」が国語科において取り上げられることが明記され、原作があるアニメーション作品や、アニメーション映画を国語科の教材として用いることが可能になった。一部の私立学校ではアニメーションを取り上げた授業実践はすでに行われていた。しかし指導要領に明記されれば、アニメーションが国語教育に占める位置は飛躍的に上昇する。そうした状況を踏まえ、REM国語部会ではアニメーションを理論・実践両面から効果的に国語教育に取り入れるための研究会を行うことにしたのである。
 その一貫として土居の『21世紀のアニメーションがわかる本』の読書会を開催する運びになったというわけだ。

「私」のアニメーション

 読書会ではまず、私が同書の「インターミッション」という章を発表した。同書の内容をまとめると、20世紀のアニメーションのモードが「私」のアニメーションであったとすれば、21世紀のアニメーションのモードは「私たち」のアニメーションへと変化したのだ、ということに帰着する。
 では、この「私」と「私たち」とは何か。
 端的に言えば、「私」のアニメーションとは、背後に巨大な歴史や思想といったある特定の共同体で共有できるバックグラウンドに支えられた強力な「メッセージ性」を有するアニメーションのことである。具体的な作家でいえば、宮崎駿や高畑勲のアニメーションがその代表例ということになる。
 例えば、高畑勲の作品について土居は以下のように述べる。

 『かぐや姫の物語』の中心にも、同じような強靭な「私」がある。月からやってきた かぐや姫は月に帰ることを余儀なくされていて、その運命から脱することはできない。しかしその中で(「都会」に対する)「山」の生活が象徴する「本来あるべき理想の生」というビジョンを常に持ち続ける。[中略]そこにはもちろん、高畑勲自身のエコロ ジストとしての思想がこめられている。[中略]その作品には、強烈な思想があり、世界がどのようなものであろうともそれに対して自分自身の信念を貫き通すだけの芯の強さを持っている。

 ここで土居は、高畑の作品の強靭な「私」性について述べている。ここで思想史の用語を用いるなら、20世紀のアニメーションとは、リオタールがいう「大きな物語」に紐づけられたアニメ観だともいえるだろう。例えばスタジオジブリの作品が「国民的アニメ」という位置付けを獲得したのは、それらの作品が「日本国民」という一種の「大きな物語」(ナショナリズム)を背後に強力に持つ「私」の物語として存在していたからではないか。土居は同書の中で『風立ちぬ』を例に挙げ、それがあくまでも日本人側から描かれた物語であり、そこでは朝鮮系の人々や東南アジア系の人々がその語りから抜け落ちてしまうのではないかと指摘する。事実、『風立ちぬ』に対しては、「日本」という語りを共有しない朝鮮系や東南アジア系の人々からその内容に対しての批判が相次いだ。これは「私」のアニメーションが持つ限界なのだと土居は言う。
 そして我々がグローバリズムの進展と共に「日本国民」というくくられ方の奇妙さに気付き始めたのと時を同じくして、こうした20世紀型のアニメーションとは異なる方向性を持つアニメーションが現れた。
 それが「21世紀のアニメーション」なのである。

「私たち」のアニメーション 

 21世紀のアニメーションとは、思想や歴史といった大きな物語から解き放たれたアニメーションである。 
 土居はその顕著な例として新海誠の『君の名は。』を挙げる。この作品には、高畑勲が『かぐや姫の物語』で追求したような「あるべき世界の姿」というメッセージ性はない。そこにあるのはむしろ、今ここにある世界をすべて肯定し、それを美しいものに変化させようとする、現状肯定的な姿勢である。新海誠はこの作品で、ある一つの「大きな物語(=民族、国家、歴史、思想)」を共有しないすべての人々が入り込めるような、大きな感情の入れ物としてのアニメーションを作った。そこには確たるメッセージ性がなく、物語はひたすらに人々がカタルシスを感じるためだけに構成されている。音楽、映像、ストーリー、キャラクター、すべての構成要素は、観客(=人間)の底にある「感情」を喚起させるためだけにアニメに登場する。そこでは20世紀のアニメーションの限界を示した「私」の物語から抜け落ちてしまう人は(原理上)存在しない。21世紀のアニメーションはそのように汎=人間的な、一つの特定のイデオロギーやメッセージ性に囚われない作品へと変化を遂げつつある、というのが土居の見解だ。 
 これは決して商業作品にだけ見られる変化ではない。例えば個人作家のアニメーションであっても、誰しもがそこに自分自身を没入させることができるような棒人間の表現の増加はその現れである。一方で個人作家を中心に広がりを見せたデジタル作品のカクカクとした動きは、そのようにして万人がその作品に自らを読み込めるような「余白」をアニメーションに生み出している。これらはすべて、作家の強いメッセージ性を弱めながら、そこに生まれる「余白」に観客それぞれを没入させ、その感情を最大化させるためのアニメーションの変化なのだ。

「読み」のカオス

 さて、『21世紀のアニメーション』で提出された2つのアニメーション観について概観したところで、この2つのアニメーション観をいかに国語教育の文脈で語りうるかについて見ていきたい。
 先ほども確認したように、「私たち」のアニメーションはすべての人々がその中に自分自身を読み込めるアニメーションである。ここで考えうるのは、こうしたアニメーションをは生徒にとって、それぞれの感想を持ちやすいのではないか、ということだ。21世紀のアニメーションの特徴は無思想ゆえの「雑多さ」にあり、キャラクターや音楽、物語、作画のディティールなど生徒それぞれが読み込める部分が無数にある。しかも原理上、その「読み」に「間違い」は存在しない。なぜならば、20世紀型のアニメーションとは異なり、そこにはそのアニメーションを支配する巨大な思想や作家性がなく、素材そのものが自由な読者論的な読みをも許容する作品だからである。
 ただし、ここで注意しなければならないのは、そうした「すべての読みが許される」という事態が、最終的に教室内における「読みのカオス」を生み出すのではないか、ということである。多くの教師、あるいは研究者が述べているように、昨今流行しているアクティブ・ラーニングの一つの問題点として、活動だけがあってそこに「学び」がない、という事態はたやすく想像できるのではないだろうか。
 したがって、「私たちのアニメーション」を読むとき、教室には「ただ各々がエゴイスティックに自分の感じたように作品を感じることができるし、それでも構わない」という事態が生じるのだ。
 この事態を我々はどう捉えるべきだろうか。例えば以下のような3つの選択肢はどうか。

1:読みのカオスを容認し、教材として用いる
2:21世紀のアニメーションは国語科の教材として向いていないので、棄却する
3:読みのカオスを遠ざけつつ、21世紀のアニメーションの特徴を活かした国語科の授業を作り出す

 この中で、1の選択肢はすでにいくつかの授業実践で試みられている。また2については、新海誠の作品が授業実践例として少なく、圧倒的にジブリの作品などが教材選定として多いことを踏まえれば、実は最も行われていることなのかもしれない。
 本稿で考えたいのは、この3の方向性である。
 作品の構造が読みのカオスを引き起こさざるを得ない「21世紀のアニメーション」について、その特性を最大限に活かしつつ、なにか新しい国語の授業を構想することはできないのか。ここで私は、戦後国語教育史上に名を残す特徴的な文学教育であった太田正夫の実践を参照してみたい。

太田正夫の十人十色の文学教育論 

 ここでは教師であり、教育学者であった太田正夫が1960年代後半に提唱した「十人十色の文学教育論」という文学教育理論を取り上げてみたい。この実践の最大の特徴は「生徒の感想」を重視する点にある。実践では、クラスのメンバーそれぞれがある文学作品を読んで、それについての感想を書区ことから始まる(一次感想)。そしてそれを教師が分類し、論点を整理した上でプリントにまとめ、クラスメート全員に共有する。そのプリントに基づいて生徒たちは友人の感想文について「感想の感想」を書く。そして、それを元に再度個人の感想文を各フェーズに学習は進み、「感想の感想」を元にさらに個人の読みを深めていくという手順が採られた。
 田近洵一は『戦後国語教育問題史』で以下のように太田実践の特徴について述べている。

 十人十色の「私」の読みは、決して絶対的なものではなく、集団の中で相対化され、常に乗り越えられるものとして考えられていた。すなわち、「私」を、他者を媒介として変容・深化するものと考えるところに、太田における個性絶対主義との決別があった
 異質にして多様なるそれぞれの読みは、相互交流を通して、十人十色のまま、「私」の読みとしてのオリジナリティーをゆるぎないものにしていったのだと思われる。[…]すなわち、太田にとって大切なのは、それぞれの読者における「私」の読みの成立であった

 ここで重要なのは、太田にとってこの実践は、決してクラスのメンバーそれぞれから出された感想を「一つの読み」に回収するわけでもなく、また「各々の読みをそのままにする」わけでもない、ということだ。
 大雑把な見取り図であることを承知の上で伝統的に文学教材の読みは、こうした「集団の読みを一つの読みに修練させる(=正解到達主義)」方法と「各々の読みを最大限に尊重する(=読者論的アプローチ)」方法という二つの間で揺れ動いてきたといえる。これは同時に、多様な読みが可能である文学作品を読む場合において、その読みを「集団」ベースで考えるのか、あるいは「個人」ベースで考えるのか、という対としても考えることができる。しかし太田の場合、その2つ(個人と集団)を折り合わせ、個人→集団→個人というプロセスを辿ることによって、集団での交流が逆に一人一人の読みの特殊性を浮かび上がらせる、という構造を持っていた。太田はそこで、完全に集団に埋没するわけでもなく、あるいは他から隔絶した個人でもない、クラスの構成員のざわめきを耳にしながら自分自身の読みに向かい合う瞬間を教室にもたらそうとしたのだ。そこで生徒たちは「書くことによって集団の中で自分自身を知る」という契機を見つけようとするものであった。無論、この方式が容易ではないことはすぐに想像がつくと思う。実際太田が提唱したこの方法論は、(太田の実践記録が曖昧だったこともあり)その後実践としてはあまり受け継がれなかった。
 そして私は、この太田の方法論と「私たち」のアニメーションを接続することによって、先ほど提示した3番目の方向で「私たち」のアニメーションを活用できるのではないかと思うのだ。
 どういうことだろうか。

太田実践の問題点

 具体的にいえば、太田実践の問題点を克服するものとして、21世紀のアニメーションが考えうると私は考えているのだ。太田実践がその後の教育界において広がりを持たなかったことは先に述べたが、その問題点はどのようなところにあったのだろうか。以下に田近の証言などを元に、その問題点を列挙してみた。

1:一次感想で生徒の個性は生まれるのか?
2:「何の力」を育成するのかが分かりづらかった
3:授業展開の記録の乏しさ(記録の曖昧さ)

 この中で、3番目の「授業展開の記録の乏しさ」は資料上の問題であるので、脇に置くいておく。重要なのは、1番目と2番目の問題だ。そしてこれらは、実は密接な繋がりを持っている。
 それぞれの問題点をみていこう。

1:一次感想で生徒の個性は生まれるのか?

 これは太田実践のみならず、教科書の文学作品を扱わざるを得ないすべての現場における問題であるが、そもそもその作品を一読しただけで、生徒がその作品に交流に値するなんらかの感想を持つのか、という疑問である。例えば太田の実践で有名なものに武田泰淳の小説「ひかりごけ」を使用したものがある。「ひかりごけ」は実際に発生した陸軍船の難破とその渦中に起こった人肉食事件がモチーフとなった小説である。太田の実践では一次感想からそれぞれの生徒がこの小説を現代の生徒は一読しただけで何かしらの主体的な感想を持つであろうか。 そこで小説を一読しただけでいきなり感想のみを生徒に任せることは、半ば教師側の責任放棄と受け取られかねないのではないか。
『ひかりごけ』のような文学作品が教材として扱われるとき、生徒の前にまずそれは、一つの全く異なる異文化として立ち現れる。そもそも多くの映像に囲まれ、文字だけのテクストを見ることさえ稀になっている現代の生徒たちにおいては、こうした太田の実践を狭義の「文学作品」だけで行うことは難しいに違いない。
 そしてこの問題は、太田実践の問題点の2つ目、「『何の力』を育成するのかが分かりづらかった」という点にも直結する。

2:「何の力」を育成するのかが分かりづらかった

 太田の実践の肝は何度も繰り返すように「感想文を書く」という活動にあった。つまりそこで取り上げられている学習活動、及びそこで育成する力は(現行指導要領の4領域でいえば)「書くこと」になる。しかし、前項でも言及したように『ひかりごけ』を実践の教材として用いる場合、そこではまず生徒たちが感想文を書く前にその文章を「読む」必要がある。近代文学作品の場合、生徒たちが生きている言語環境と、そうした作品が前提とする環境がかなり隔絶しているからである。もちろん何かの作品を「読む」とはそういった文化的前提が異なる他者を「読む」ということでもあるのだが、しかしそこで必然的に生じる「読む」という行為は、太田の実践の核にある「書くことによって集団の中での自分自身を知る」という問題意識を見えにくくしているのではないか。
 太田の実践をわかりづらくしていたものは、文化的コンテクストや背景を異にする作品、あるいは生徒たちにとって共感できる大きな物語を共有しない作品を教材として扱うことにより、そこに「作品を読む」という行為が侵入してしまったことにあるのではないか。そこでは、生徒それぞれが自分自身が持つ世界観について書き、それを他者との交流を通して深めていくという行為が純粋に行えなくなってしまったのではないか。
 つまり太田の実践を生徒たちにとっての馴染みの薄い文学作品で行うことは「読む」→「書く」という2つの学習行為が混ざることになり、ここに太田実践の不明瞭さがあったのではないかと私は感じている。逆に言えば、そうした「読む」という契機が最小限に抑えられる作品こそ、太田の実践にとっては必要な教材だったのではないか。
 そして、以上の2つの問題点を解決し、真に十人十色的な意味で太田の実践をかなえることができる教材を、わたしは土居が語る「私たちのアニメーション」に求めたいのである。

アニメーションを「読む」からアニメーションで「書く」へ

 ここでの結論を先に述べれば、私がこうしたアニメーションを活かすための方途として考えているのは、「アニメーションを『読む』」という認識から、「アニメーションで『書く』」という認識への方向転換である。
 どういうことか。
 アニメーションが使われてきた国語教育の実践は圧倒的に「アニメーションを読む」というものが多い。例えば奥泉香編『メディア・リテラシーの教育』「アニメーションを使った授業実践」では、代表的なアニメーションを用いた授業実践として「①文学作品をアニメにする②長編アニメーション作品を読み解く③アニメーションにナレーションを付ける」という3つが紹介されている。この内、①の「文学作品をアニメーションにする」という実践の目標の一つには「映像やアニメーションで表現(具体化)していくために物語文中の言葉を手がかりに、心情や情景など場面の様子を読み取ることができる」と文章理解の方に力点が置かれている。また、②についてはこれが読む活動であるのはいうまでもない。また、③については、一見するとアニメーションを用いた「書く」実践のように思えるかもしれない。しかしこれも同書の解説を読むと、同実践で明らかにされた問題として「映像テクストを『読む』とはいかなる行為であるかという」ことであると述べられていることからも分かるとおり、あくまでも主軸は映像を「読む」ということなのである。
 アニメーションの作者は何を主張しようとしたかったのか。あるいはアニメーションの画面においてなにが描かれているのか。そうしたことを「読む」活動がアニメーションを用いた国語教育では主流にあるといっていい。そしてこの「読む」という行為がアニメーションを用いた国語教育全体を覆っているのは、国語教育においては伝統的に「読む」という領域が非常に大きなウェイトを占めてきたことに関係があるだろう(この問題はもっと深く探究されるべきだ)。
 さらにこの問題をアニメーションのモードの話に接続すれば、アニメーションを「読む」という行為の裏には、アニメーションには「その奥になにか読まれるべき意味がある」というような、20世紀型のアニメーション観が潜んでいたともいえるのではないか。事実、『メディア・リテラシーの教育』にはアニメーションを国語教育に取り入れるために前提とすべき認識について、「ほとんどのアニメーション作品には、物語性がある。物語性があるということはすなわち、無声の作品であっても、そこに言語化されるべきストーリーとメッセージが埋め込まれていることを意味する」と書いている。しかし我々は先に、21世紀のアニメーションについてそれが思想や歴史に基づくものではなく、そこに強いメッセージ性が読み取れない、ということを確認したばかりだ。
 20世紀のアニメーションのように「なにか読まれるべきメッセージが作品の奥にある」という深みを徹底的に欠いたのが21世紀のアニメーションである。そこで作品は「頭を使って読まれる」というよりも「体で感じられる」ものになった。21世紀のアニメーションでは最初から「読む」という契機が等閑視されているのではないか。 
 そしてその時に、太田正夫の実践をもう一度思い出してみてほしい。
 太田実践の問題点の一つは、「読む」→「書く」という学習行為の二重化にあった。我々が考えていたのは、こうした「読む」という行為が最小限である教材こそ、太田の実践にふさわしいのではないか、ということであった。21世紀のアニメーションにおいては最初から「読む」という行為がもはや等閑視されており、それは一般的な「読むこと」が前面にあらわれてくる国語教育の文脈では歓迎されない。しかしここでは逆にその「読む」という契機がない作品の特徴を逆手にとり、これらの作品を使って太田が「十人十色の文学教育」実践で行おうとしたことができないだろうか。

「感情」を言語化する

 21世期のアニメーションとは、そこにメッセージ性があまり感じられない、誰にとっても感覚的に楽しめるアニメーションである。だからこそ、そこで出てくる感想や読み方に「答えはない」。そしてそれは国語教室においては「読みのカオス」を引き起こす。それは、アニメーションを「読み」の授業として構想している限り必然的に付きまとう問題である。しかしそれを「書く」、つまり各々の生徒がそのアニメーションを「どのように感じた」のか、を表現する授業として構想すれば、21世紀のアニメーションを効果的に授業に取り入れることができるのではないか。
 太田実践においては、ある作品についての一次感想を書き、それを他者と交換することによって自らの作品の感じ方の特徴をより深く知ることが目指されていた。例えば『君の名は。』を見て、そこで生徒がそれをどう感じたのか(それは例えば「エモい」とか「感動した」というようなきわめて触感的な感想からスタートしてもいいと思う)を言語化し、それを他者に伝え、自分がアニメーションから感じた「なにものか」をより深く言語に表していく。このような実践が可能なのではないか。
 アニメーションから生徒が感じる感情はそれぞれ(まさに十人十色!)で、同じ作品からは事実上無限の感情が生まれ出ることになる。そこで生徒たちが感じる感情は世間で頻繁にいわれる、あの名付け難い「エモみ」のような感情に通ずるものかもしれない。そして「エモい」という言葉の批判としてしばしばいわれるように、「ただ感じたまま」でその作品の明確な言語化を終わらせてしまうことは、(『君の名は。』のストーリーが都合の悪い歴史をすべて修正してしまうように)自らのエゴイスティックな作品の見方をそのまま無条件に容認しる自閉的な態度にもつながる。これは21世紀のアニメーションが必然的に孕む問題でもあり、土居は同書の中でそうした作品の態度が倫理的な意味で良いのかどうかはすぐには判断しかねる、と述べている。そしてこれは国語教室においては、「読みのカオス」の問題と直結する問題であり、そのような状態をただ容認して居直るのではなく、その「感覚」を他者に開き、伝えていくことーーそのために「書く」という学習を行うことが可能なのではないだろうか。
 そしてそれが他者(=クラスメート)に効果的に伝わるためには必然的に「書くこと」の技術が求められる。本稿では触れることができなかったが、指導者は生徒たちの感情を言語化するための指導方法を確立する必要もあるだろう。
 このように、生徒たちの感情を喚起するものとして「私たちのアニメーション」を用い、そしてそれをただ個人の感じ方として自閉的に授業を閉じるのではなく、「十人十色」の方向性で用いながらクラスメートという他者の「ざわめき」をそのうちに内面化しながらさらに言語化をしていく。そのようなものとして国語の授業を展開することができるのではないか。

今後の課題

 課題は多い。
 まずは、今回のべた仮説、つまり「私たちのアニメーション」が本当に太田的な授業を活性化させるのか、という問題は追求されるべきだろう。これは実際に実践を通して行うほかない。しかし「アニメーションを読む」という問題から「アニメーションで書く」という問題への転換は今後、アニメーションによって教育活動を行う時に重要になる観点だと思われる。
 次にゲームの問題系である。なぜ突然ゲームなのか。それは土居が最近の文章でも語っている通り、「私たち」を志向するアニメーション作家の多くが近年インディペンデント・ゲームの制作へと舞台を移しているという事実があるからだ。例えばRPGゲームを思い出してみよう。ゲームは一つの物語としてのパッケージを持っているにもかかわらず、その遊び方やルート分岐(あるいはどこでなんの道具を取って、どう戦うか、など)は事実上、無限にある。しかもそれはどんな人がそのゲームをプレイしても、前提となる思想や歴史背景、「大きな物語」を経由せずに無限の物語が生み出されるものである。今回わたしは、生徒それぞれに無限に読まれる可能性がある「私たち」のアニメーションを用いて、太田的な相互交流の実践ができるのではないか、と提起した。もしそのようにアニメーションを用いるとするならば、その延長線上にゲームを教材として用いる実践が自ずと見えてくるのではないか。
 例えば、あるゲームを巡って生徒がそのゲームの感想を書く。一人一人が行っているゲームは全て同じだが、そのルート分岐・遊ばれ方は無限であり、生徒の数だけその感想は登場する(もちろん、ここでは教材化に当たっての様々な配慮が必要なわけだが)。そのような意味においても、今後はゲームと教育をより原理的に思考しなければならないだろう(昨今話題になっている「ゲームは教育に悪影響がある」というような表面的な議論を超えて)。
 いずれにせよ、アニメーションについての研究は日進月歩で進んでいる。また、それと共に日本において外国の短編アニメーションを見ることができる機会も増している。今後はそういった言説や機会を教員側が敏感にキャッチし、実践と理論構築の相互往還の中かから、真に生徒にとって豊かななにかを与えることができるよう、アニメーションと教育について考えていく必要があるだろう。

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教育×アニメーションのイベントを開催します

REM国語部会では、アニメーションを国語教育に効果的に活用するための方法を模索するためのイベントを行います。イベントでは、アニメーション研究家で多くの短編アニメーション作品を精力的に日本に紹介している土居伸彰さんをお招きして、アニメーションと教育についてディスカッションを行います。

イベント「21世紀の国語教育・21世紀のアニメーション」

開催日時:2020年7月26日(日)13時〜16時
参加費用:500円
イベント内容
1部:アニメーションを使った「書くこと」の授業提案
2部:アニメーション教材化の産業構造を考える
それぞれの部で、希望者によるディスカッションを行います。
開催方法
オンライン or 対面イベントのどちらかを予定しております。
※開催方法につきましては、コロナウイルス感染拡大防止の観点から状況を判断しつつ、随時決定いたします。決定次第、情報を更新いたします。
参加方法
参加ご希望の方は、こちらのフォームにご記入ください。

7.26フライヤー改訂版

 国語科教育を学んでいる方だけでなく、アニメーションに関心のある方等のご参加もお待ちしております。奮ってご参加ください!



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