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舌を刈る 一人芝居 戯曲

データ↑
あらすじ↓
弁論台本そのまんま
死についての話
本文↓
僕はこれから死について語ります。

なぜなら、僕は死について語りたいからです。

あなたと語り合いたいのです。

あなたと関わりたいのです。

 

皆さんはダーウィン賞という賞をご存知でしょうか。高名な生物学者チャールズ・ダーウィンの名を冠したこの賞は、「愚かな死に方、もしくは愚かな方法で生殖能力を無くし、自らの遺伝子を抹消することで、人類の進化に貢献した人」に贈られる賞です。パッと聞いてどんな賞かわからないと思うので、具体的な受賞者を上げようと思います。1996年にポーランドの男性が、男らしさを見せようと自分の首をチェーンソーで掻っ切って死亡した、として受賞しました。ゾッとしますね。他には、2012年にアメリカの男性が、お酒と間違えてガソリンを口に含んでしまい口直しにタバコを吸おうとした所その火が引火して爆発し死亡した、として受賞しました。嘘みたいな話ですが、両方とも実話です。

 

別の話です。

 

皆さんはTwitterというSNSはご存知でしょうか。登録さえすれば、互いにやり取りができるサービスで、現在日本では定期的な利用者は4万5千人とも言われています。僕も利用しています。Twitter上で、死にたい、という発信を検索すると、自殺防止センターの連絡先を教えてくれるおせっかいを焼いてくれる、素敵なSNSです。ただ、不思議なことに、生きたい、とという発信を検索しても何も薦めてくれません。死にたい、よよりも、生きたい、の方が前向きに見えるのでしょう。僕は、端的に言って、不備を感じずにはいれません。

 

さて。

 

今までの話を聞いて、何も感じないという方はいないと思います。僕自身、ダーウィン賞を知ったとき、すぐさま詳しく調べたい衝動に駆られました。生きたい、よりも、死にたい、が救われる事例に気がついて、心がソワソワとしました。

人間は必ず死にます。死を体験します。死に向かっていきます。生きとし生きる者の皆すべてが他人事ではない、概念、それが死です。つまり、10才だったら10年分の、20才だったら20年分の、100才だったら100年分の、死の哲学が、ああなた方には備わっているのです。だからこそ、僕はあなたと死について語りたいのです。

 

語り合う内容として、死がふさわしい理由がもう一つあります。

 

ある哲学者は死を三つの種類に分けました。一人称の死二人称の死三人称の死この三つです 。三人称の死は彼彼女の死。知らない人の死です 今私が急に死んだら皆さんにとっては三人称の死になるでしょう。二人称の死はあなたの死自分の知っている近しい人の死です 願わくば話を聞き終わるころには私の死が皆さんにとっての二人称の死にならんことを。 そして一人称の死は私の死自分自身が死ぬことです。一度しか味わえない感覚唯一生きているうちに味わえないモノです。

 

ある哲学者は死についてこのように述べています。生きている間に死について考えるのは得策では無い。なぜならば生きている間に死を経験することはないから。このような考えで死への恐怖を乗り越えようと言う思想です。

 

他にも、古来より様々な無数の人が死に対して解釈を与えてきました。なぜか。死には解釈しかないからです。死には実体がないからです。死には答えがないからです。

 

答えがない問いについて語り合うということは、競う必要があありません。そして、自発的な区切りをつけない限りにおいて永遠に楽しめる話題と言うことです。それが、死が語り合うののにふさわしい二つ目の理由です。

 

なぜ、僕が語り合うのにふさわしい話題を探し始めたのか。

 

僕はとある大学で物理の勉強をしていました。授業では学生同士で互いに話て学ぶ時間がありました。例えば実験の授業では得られた数値についてどのような結果であるか話すことがありました。先人の研究を比較したり教科書を照らし合わせたり辞書を調べたり。また座学でも演習つまり具体的な問題を解く時間には互いに話し合いました。かなりの時間を費やしたのですが現在どのような話をしたのかは覚えていません。もちろんレポートとして成果物があったり学問としての習得があったりはしています。その過程は全くありません覚えていません。

 

時を経て、私は演劇を教える事演劇を作る事をしています。おおよそ三年間は演劇に携わっています。稽古をしたり劇場に入って準備をしたり観客に見せたり。三年間にわたり演劇について自分や仲間や観客と様々に話してきました。そしてどの話題も私の中に鮮明に残っていることに最近気が付きました自分の活動を見返したときにこの舞台ではどんなことに気が付いたとか。この稽古中に困惑の中から一筋の光を見たとか。

 

さて物理の話題と演劇の話題どちらの話題も時間をかけて話してきました。なのに片方はよく覚えていてもう一方はあまり覚えていない。とても不思議な気持ちになりそしてその理由を探しました。そして見つかりました。前者は答えのある話題後者は答えのない話題であるということです。前者は頭を知識を使って話すのに対して後者は全身で人生で話すのだなと思いました。

 

僕は全身で人生であなたと語り合いたいんだなと、気が付きました。

 

答えに対してさらに私は考えを進めました。全身で人生で語る得る究極の話題は何かなと考えました。それが死についてでした。誰も答えを知らない。そして全人類に関係があるこれほどの話題はないなと思いまし。 

 

気づいてから周りを見てみました。あまり死について話す場も話している人も見かけません。死がもたらした事象や死への備えは聞こえても死そのものへの話は聞こえません。

 

ここからは、願望です。僕のために是非とも死について考えてみてください。死について、僕と語り合ってください。僕には話しかけてください。海原優騎です。最初は自己紹介から。ざ雑談を交えつつ、お互いが緩んだら本題に入りましょう。お互いに死に語り合いましょう。

 

楽しみです。

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