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劇的なるもの ー『牯嶺街少年殺人事件』論

世界から人々にとっての一つの共通の目的が失われていったのは、多くの社会学者や哲学者が指摘した通りである。彼らが無数の引用と学問的な知識を用いて説明したその「物語の喪失」は、しかし同時に芸術を愛好する人々の間では言わば言わずもがなの常識であった。ルノワールが描いたようなパリは、もはや現代にはないからである。『舟遊びの昼食』の”幸福”は、あらゆる主題間の共通目的性に多くを負っている。溝口健二の撮る世界が、ある登場人物の ー蓮實重彦の言うところのー 「空間の占有能力」によって支配されているように見えるのが、その画面に写っている全ての主題が ー例えそれが意識を持たない事物であったとしてもー 完全に一致した共通の意思を持っているように見えてしまうがためであるのと、ルノワールの世界は同じようなのである。『山椒大夫』には、木々や湖の水面、あるいは霧の一粒一粒が、悲劇的な自死を遂げる若い女に対して哀悼の意を表明しているようにしか見えない場面がある。今日では「関係ない」と断罪される世界と個人との関係が、溝口においては密接に関係し得ているのである。世界が女を追悼しているのだ。

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(ピエール=オーギュスト・ルノワール『舟遊びの昼食』)


世界の共通目的性は、確かにあるかないかでは言い得ない。ルノワールの時代に比べて今日は比較的に共通目的性が少ないかもしれないが、ルノワールの時代もソフォクレスの時代に比べれば共通目的性は薄いからである。実際ルノワールと時代を共有しているボードレールは、そういった点から過去への憧憬を口にしている。だから100年後の人から見て今日の世界には、「物語」があったと言い得るだろう。世界の共通目的性は、世界にまつわるあらゆる事柄がそうであるように相対的なものに過ぎない。ルノワールの描く世界が、今日の世界よりも”幸福”そうに見えるのは世界の共通目的性によるものであるということは述べてきた通りだ。そしてその共通目的性が、主観同士が溶け合って主観と別の主観との境界が曖昧になっている状態を意味しているということも、理解することは容易いと思われる。『舟遊びの昼食』に登場する全ての人間、光、木々、ワインボトルは、互いに溶け合っている(技法的な意味ではなく)。彼らは『山椒大夫』の入水の場面と同じで、同じ意思を持った事物同士の集合として画面上に存在しているのだ。現代的な世界が、主観が別の主観を受け入れることを拒絶するがために他者との隔絶を露わにさせているのとは違って、古典的な ーここではオリヴェイラにならって「伝統的」という言葉を使おうー 世界は他者をまるで家族や親友のように受け入れ、他者を自分のことのように理解しているがゆえに”幸福”なのである。だから面白いことに、悲劇に他ならない『山椒大夫』も現代的な世界に比べれば遥かに”幸福”な物語に他ならないのである。

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伝統的世界の共通目的性には、言い換えれば一つの大きな主観が存在する。同じ目的を共有し、主観を溶け合わせた人々の共同体は、もはや一つの主体として存在していると言っても間違いではないのだ。しかし複数の主観が溶け合って大きな一つの主観が形作られるということは、過去人の野蛮な習性などでは断じてない。それは人間のコミュニケーション上の絶対である。人間が家族や親友、恋人と対峙するときに、我々は相手と主観を解け合わせている。映画館で傑作を見たとき、隣の席に座る友人と目を見合わせただけで、互いの幸福を共有できるのであれば、もうすでに彼との間には共通目的性が形成されている。そして「目を見合わせること」が伝統的な世界の共通目的性を考える上で重要な主題になることは偶然ではない。映画の切り返しショットが、映画の「映画らしさ」を高めるという事実とつながるからである。もし切り返しショットが「映画らしさ」の所以であることが信じられない読者があるならYouTubeで犬の動画を見漁ることが良い。犬を撮る際に切り返しを使っている動画とそうでない動画とを比べれば、 ー犬動画としてどちらが優れているかを言うことはできないがー 切り返しという初歩的な映像的技法がいかにドラマ性を高めるか理解できるからである。

(切り返しショットが使用される犬動画の好例)

ではなぜ切り返しショットが「映画らしさ」を高めるのか。それは切り返しという行為が、二つの異なる主観を同時に見せる行為に他ならないからである。映像における切り返しという方法は、二つの別個の主観が共通目的的に融合して一つの固有の主観となるまでのプロセスを、余すところなく捉える手法なのである。主観と主観との衝突が、新たな大きな主観を生み出す。そのエロティックなプロセスは世界で最も魅惑的な時間を表象する。セルジュ・ダネーは示唆的なことを言っている。

フリッツ・ラングのアメリカ時代の映画タイトルが、この古典的なシーン作成術とそれを支える欲望を、巧みに要約している—— Secret Beyond the Door、『扉の陰の秘密』。もっと見たい、背後にあるものを見たい、透かし見たいという欲望。たえず問われていたのは何なのか。あとに繰り延べされた瞬間において、背後にあったものが見えるようになることである。(中略)背後には何もないし、もっと言うなら何かがあることはありえない、なぜなら映画のイメージとは奥行を欠いた表面にすぎないからだ、というものである。これこそ、約束事を破る現代的映画が思い起こさせることなのだ(セルジュ・ダネー、『フットライト』p.207-208)

このダネーの映画史観は、伝統と現代との差異を的確に指摘している。あるショットが前のショットの背後にあったものを示すとき、映画は決まって伝統的なものとなる。そしてあるショットが、無意味にただ「存在」として存在しているときには映画は現代的なものと定義される。「意味」を示すものと「存在」を示すものとの差異が、伝統と現代との差異である。だから切り返しショットは極めて伝統的な方法と解釈される。

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完全なる謎

『牯嶺街少年殺人事件』という映画は、それを分析しようとする人間にとって至極厄介な映画である。ここまで述べてきた「伝統」と「現代」の定義をもってしても、この映画をどちらかに分類することの極めて困難な映画だからである。
 『牯嶺街』はそれを古典的な映画だと断定するには、あまりにも他者が「謎めいて」いる。言わばこの映画は「謎めき」に関する映画だと言っていい。小明とは何者か、ヤクザグループの抗争はどうなっているのか、台湾社会は果たしてどうなっていくのか。その「謎めき」に包まれた映画を作家はさらに謎めかせるかのように、光と闇の強いコントラストの中で撮っていく。しかもそれらの映像の体系は、作家がわざと観客に判らせないように編集したかの如く、「わかりにくく」なっている。この映画の筋書きを一度見ただけで理解できた者などいるだろうか。この映画の映像と音とは、観客の接近を拒絶するように進行していくのである。
 しかし同時にこの映画を現代的な映画の部類に分けるには、この映画はあまりに伝統的な共通目的性を持ち過ぎている。それは1959年の台湾の風土と人々が、当然ながら伝統的な共同体の枠に収まっているということと同時に、この映画の映像を彩る光や色彩、構図などが全て「完璧」に接近していることが指し示している。「世界」が小四や小明、そして台湾社会とともに動いているように見えるという点で、それは伝統的な様相を帯びているのである。光と闇の美しいコントラストが、この映画に現代的な「謎めき」をもたらしているのと逆説的に、そこに伝統的な「完璧さ」をももたらしているのだ。

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『牯嶺街』の街には、なぜか常に殺伐とした緊張感が漂っている。小四の父親が、息子の試験の採点は間違っている、国語は一番得意なのだから50点のはずがないと学校に抗議しにいった帰り道の、並木通りが映されたロングショットは、まだ何も起きていないはずのこの世界には、もうすでに修復不可能な亀裂が走っているという不気味な感覚を与える。まさに社会における修復不可能な亀裂を描いた『恐怖分子』のあらゆるショットに通底していた恐ろしさを、この映画の冒頭数ショットは持ち合わせているのだ。自然光の処理や色彩の調整がほとんど完璧に近いこれらの画面は、世界の「完全性」を声高に主張しているようにも思われる。それでも完璧なまでの美しさは、逆説的に不気味さを誘発し完全性とは正反対の、解釈不可能な「謎」として現れ出もする。
小四が小明に「僕が君の希望になる。僕が君を変えて見せる。」と言ったとき、小明は「私を変える気?この世界と同じ、何も変わらないの」と答える。小明は理想主義者小四に、世界の「謎めき」、世界は我々とは「関係ない」ということを残酷に告げる。小明は何者か、それは結局明らかにはならないし、明らかになる前に彼女は小四によって刺殺される。この映画において小明は、小四に立ちはだかる最大の「謎めき」として現れ、そして死んでいくのだ。小四がどれほど努力しようと、小明がこの世界と同様に変わらなかったのは、この二人が初めて映画スタジオに忍び込んだときに暗示されている。真っ暗なスタジオの中に一筋の黄色い光が差し込むと、画面には移動撮影用のレールが浮かび上がる。小明はそのレールの上を歩きながら、高飛びした恋人ハニーのことを語る。「ハニーほど誠実な人はいない。私はよく彼に忠告するの。世界は変わらないのよと。」小明は暗闇の中に消え、小四は彼女の姿を見失う。闇が小四の前に、世界の、そして小明の「謎めき」として立ちはだかる。しかし同時にこのシーンは、この映画の中で最も美しいシーンの一つであり、ここでも「完全性」が立ち現れている。

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ハニーが山東に殺された後、学校を数日の間休んだ小明を小四は励まそうとする。吹奏楽部の練習場の前で、彼は大声で小明に言う。「怖がっちゃダメだ。勇気を持って。僕はここにいるから。僕は絶対離れない。僕はずっと君の友達だよ!」吹奏楽部の演奏が彼の燃え上がる感情と同調するように盛り上がっていく。しかし小四の言葉が終わる前に吹奏楽部の演奏は終わり、「僕はずっと君の友達だよ!」という声が空間に響き渡ってしまう。やはりここでも伝統的な映画のように音楽が主人公の感情に同調していたが、次の瞬間には現代的な映画のように他者は主人公と関係なく演出をやめてしまうのだ。

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ハニーを殺された不良グループ「小公園」は、仇討ちのために山東率いる「217」を襲撃する。そこに小四も見張りとして付いていくのだが、襲撃が終わり静まりかえったビリヤード場の中を小四は懐中電灯で照らしながら進んでいく。そこにはいくつもの死体がある。小四は血を流し呻き声を上げる山東を見つける。このシーンが「恐ろしい」のは、暗闇の中に浮かび上がるいくつもの死体を即物的に撮ってしまっている点にある。それはちょうど、ロベール・ブレッソンの『ラルジャン』が恐ろしいのと同様なのである。

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この映画を見ると、多くの映画作家の名を想起せずにはいられないが、その中でもブレッソンは特権的な位置を占めている。小四が誰もいない保健室で、先生の帽子をテンガロンハットに見立てて被り、カウボーイの真似をする場面。小四が西部劇の決闘のように、ゆっくり歩いて振り返るとそこには小明がいる。彼女は小四に「この前言ってたこと、本気なの?」と訊く。小四が「僕は君から絶対離れない。僕はずっと君の友達だよ!」と言ったことである。彼はにっこりと笑って ーこの映画で何度か見せる張震のこのあどけない笑顔があまりにも美しいー そうだとうなずく。このシーンは映画で唯一のラブシーンといっていい。二人の囁く声が、夕方の淡い光が差し込む保健室の時間を止めてしまうからだ。

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また、小四が中学校を退学になった後、大きな木の下で二人が話すシーンも極めて感動的である。何も語ってはいない二人は、しかし何か深い運命に囚われているかのように物悲しげに語り合う。その悲しさを、息を呑むほど美しい光に彩られた画面が強調している。その胸が詰まるような悲しさは、『バルタザールどこへ行く』で、マリーとジャックが木陰のベンチに座って静かに語り合うシーンを彷彿とさせる。「マリー、何も変わってなんかいないんだよ。でも君はもっと美しくなった。このベンチで約束したことを覚えている?僕は君だけを愛しているということを....」

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足の不自由な女

この映画を侯孝賢との比較をもって考えるとき、エドワード・ヤンはより現代的な作家に思われる。エドワード・ヤンと侯孝賢という台湾の二大映画作家の差異を述べることがことのほか難しいのは、この二人の作家が極めて似通った性質を持っているからである。映像的な側面において、この二人はどちらも伝統的な作家だと言わざるを得ない。エドワード・ヤンも侯孝賢も、世界の偶然性を捉えるということにほとんど価値を見出しておらず、「完璧」な映像、「完全無欠」で秩序立てられた世界を捉えることに執心した作家に他ならないのである。しかしながらエドワード・ヤンが侯孝賢に比べてやはり「現代的」な作家と言えるのは、エドワード・ヤンの世界は「謎めいて」いるからである。そこにおいて、世界はやはり「理解不能」のものとして我々から引き剥がされている。『恋恋風塵』や『悲情城市』の演出家が、長回しという極めて現代的な手段を使いながら、それを伝統的なモンタージュのように見せてしまうという ー天才的なー ことをやってのけているのとは反対に、エドワード・ヤンはショットごとの存在的な力の強さに信用を置いている。それは、侯孝賢がほとんど切り返しショットを用いず、逆にエドワード・ヤンが切り返しショットのことのほか利用するという事実とは確かに矛盾する。しかしそこに現代的な仕方で伝統的な映画を作り上げてしまうことと、伝統的な仕方で現代的な映画を作ることとの、異なる天才性が現れている。

小明が初めて小四の前に現れたとき、彼女が足を怪我していたということが、私にマノエル・ド・オリヴェイラのことを思い出させる。『アブラハム渓谷』においてもエマは生まれつき足が不自由で、常に足を引きずって歩いているからだ。1991年の『牯嶺街少年殺人事件』と1993年の『アブラハム渓谷』において、二人のファム・ファタールがともに足の不自由な状態で男の前に現れるのは偶然だろうか。
それは分からないが、この厄介な映画について考えていく上でオリヴェイラの存在がいくらか助けになることは確かだ。マノエル・ド・オリヴェイラは明確に、伝統的な映画作家である。彼の作品があまりに若々しく見えるのは、それが伝統的な自意識の中で作られていないからに過ぎない。この映画作家は、まるで自分は現代的な映画を作ろうとしていると言わんばかりの表情で、伝統的な映画を作っている。そこに、伝統的な映画作家としての自意識がある、もう一人の伝統的な作家、カウリスマキに対する優位がある。カウリスマキがオリヴェイラのようになれないのは、自分は伝統的な作家であり、伝統的な映画しか作らないという意識が、自らの映画に限界を作ってしまっているからだ。それに対して自らの伝統性に無自覚なオリヴェイラは、伝統的な仕方で現代的な映画を作ろうとしているから、無限に映画を作り得たのである。

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「足の不自由な女」という主題の一致を、どう考えればいいだろう。もちろん、『アブラハム渓谷』のエマは不治の障害として足の不自由さを持っており、治療すればすぐに治るであろう『牯嶺街』における小明の足の怪我とは全く別の種類のものだ。しかし、一人の女の存在が一本の映画を忘れがたいものとしているこの二つの映画において、この主題の一致は決して偶然として無視することは出来ないような予感がする。オリヴェイラは、エマを生まれつき足の不自由な女として設定したことを、「原作の通りだ」としながらこう述べている。

私自身、その設定が美しいと思いました。しかしそれは、美しさの中に刻印された悪魔の刻印でもあります。(「特集 マノエル・デ・オリヴェイラ 世界映画”最後の巨匠” vol.2」『キネマ旬報』号1147、1994年11月15日)

「足の不自由さ」は、「悪魔の刻印」として女に備わっている。足を引きずりながら男の前に現れる小明とエマは、やはり悪魔のようにその不幸な美しさをもって男たちを誘惑し、破滅させ、しまいには自らも死ぬ。この一致はとても偶然とは思えないが、しかしこれがリサ・ヤンとレオノール・シルヴェイラという二人の女優(リサ・ヤンはこの映画以外には出演していないが)を「悪魔のような女」に変貌させ、その存在を決して忘れられないものとして画面に定着させてしまった二人の映画作家の才能の共通するところであると無理に解釈することはできよう。

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撮影所という空間

主人公たちが通う中学校の隣には、映画の撮影スタジオがある。小四とその仲間たちは夜な夜なそこに忍び込んでは、撮影スタッフに見つかり学校とスタジオの間でのいざこざの原因を作ることになる。そのスタジオの存在は、小明を女優のオーディションに出向かせ、彼女の貴重な涙をカメラに収めることになるのだが、同時に彼女をオーディションに誘った映画監督が、夜間部を退学となった小四に対して「あの女の子をまた連れて来てくれないか」と言って、小四の不安定な精神を逆撫ですることの原因を作ったりもする。兎にも角にもあの映画スタジオはこの映画にとって特権的な位置を占める舞台装置である。それはグル・ダットの『紙の花』で、ダットとヒロインのワヒーダ・ラフマーンが見つめ合いながら歌を歌うあの世にも美しいラブシーンが、暗闇の中に一本の光が差す映画の撮影スタジオの中で撮られていることを彷彿とさせる。

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しかし映画というものはかつて、全てのものがスタジオで撮影されていた。スタジオは、完全な暗闇の中に完全に制御された光を構築することのできる空間だ。そこで撮られた映像は、予め「完全性」を持った映像となることを保証されており、そのようにして「伝統的」な映画は作られていったのである。

「伝統」と「現代」とが融合した映画がこれだと言って終えばそれまでだ。しかしそういった「謎めき」として私たちの前にポツンと浮かんでいるような映画が、『牯嶺街少年殺人事件』なのではないだろうか。あるいはこの映画にこそ、「伝統」とも「現代」とも違う、第3の芸術の姿形があるのかもしれない。

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