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今村夏子とラース・フォン・トリアー ー「黄金の心」ー


「変人もの」

明らかに「正常さ」を欠いた人物を描く物語のジャンルがある。普通の人とは異なる価値観や世界観、行動原理を持った人間の言動を追う物語は、多くの小説や映画の題材となり、ささやかに一つのジャンルを形成してきた。いわゆる「変人」を主人公にし、その視点から物語を語っていく、「変人もの」である。物語が「ドラマになるのは、主人公の欲望が、彼/彼女の世界の外にある他者やコミュニティの原理と対立することによって主人公に困難と葛藤をもたらし、主人公に実存的な変化を要請するときであるのと同じように、「変人もの」も主人公の正常でない欲望・行動原理が「正常な」世界と軋轢を催すことで、ある種のドラマ性を帯びるようになる。ただ「変人もの」が一般的な物語と異なるのは、「変人もの」の主人公である変人は、行動原理や世界観が普通の人間と決定的に異なっているがために、存在しているだけで他者や社会からの圧力を受け、実存的な問いを自らに課さなければならなくなるという点である。その点で「変人もの」は、主人公が大した行動を起こさなくとも、生きているだけでドラマ性を帯びる。また「変人もの」は、主人公が一般的な価値観(読者や観客さえも当然のように持ち、疑うことさえなかった価値観)とは異なるそれを持っているために、それらの対立の中で一般的な価値観にある種の動揺をもたらし、当たり前すぎてそのことについて考えたこともなかったことをもう一度考えてみようとする契機を与えてくれたりもする。
村田沙耶香が、こうした「変人もの」の持った性質を極めて意識的に追求していった作家として挙げられるだろう。『殺人出産』以降、セックス忌避や婚姻拒否、労働不信などを描くようになった村田は、「変人」がどうあるのか、それを取り巻く社会はどんなものか、そしてその社会が規範とする「常識」は果たして成立するのかということを、作家として痛烈に浮き彫りにしていった。村田の小説は、我々が一般的に「幸福」とさえ思うような事柄に対しても牙を向け、読者の不意を突き価値観を転倒させてしまう点で、恐るべきものである。そしてその意味で村田沙耶香という作家は社会学者的であり、村田の書くものは、極めて社会学的な側面を帯びている。

「黄金の心」

「変人もの」という題材の表象を映画で試み、最も成功した作家であるラース・フォン・トリアーは、1996年の『奇跡の海』、1998年の『イディオッツ』、2000年の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』からなる3作を自ら「黄金の心3部作」と名付けている。幼少期に読んだ『ゴールデンハート』という絵本の精神に影響を受け、「善きもの」についての映画を作ろうとしたとトリアーは言う。特に『奇跡の海』と『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は「変人もの」の傑作である。2つの作品に共通するのは、主人公が愛するもののために自らの命を犠牲にする点である。しかし彼女ら(『奇跡の海』のベス、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のセルマ)が愛するもののために行う行動は、明らかに常軌を逸している。前者は不随になった夫・ヤンが回復すると信じ、村中の男たちとセックスしようとするし、後者は息子の目の病気を治す手術代を守るために冤罪による絞首刑を受け入れるのだ。繰り返すが、彼女らの行動原理は常軌を逸しており、当然彼女らの味方をしてくれる他者とも対立する。しかし彼女らの行動は完全な純粋さによって突き動かされている。一点の汚れのない完全な純粋さは、それが正しいものであろうが間違ったものであろうが、感動的なものである。だから『奇跡の海』と『ダンサー・イン・ザ・ダーク』において、彼女ら主人公があくまで極端な純粋さを行動原理にしていると気がつく時、その行動を安易に批判することはできなくなる。そしてそれらの行動は、当然自身に破滅をもたらすが同時に世界全体をも彼女らの行動原理で覆っていくのである。それは『奇跡の海』のラストで海の上に二つの鐘が現れ、ベスの死を追悼するかのように音を鳴らすこと、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のラストでカメラがクレーンアップしていき(映画の冒頭でセルマがミュージカル映画のラストについて言及している)、セルマがミュージカル映画の世界へと旅立つことが示している。2つの映画が最終的に証明するのは、それが間違っていても、自己中心的でも、幼稚な行動原理によって突き動かされた行動であったとしても、その主体の精神の中にある「愛」が真実でありかつ純粋であるならば、それは感動的な「愛」に他ならないということである。そしてその事実は、村田沙耶香が一般的な価値観を転倒させるのと同じように、我々の善悪や正誤の価値観を転倒させ、世界全体を裏返しにするようなもの以外の何物でもない。
真実の意味で真空な状態の「愛」は、いつも社会の中で汚染されていくものであるとトリアーは言っているようだ。そして彼の『黄金の心』は、真空状態の愛を持った人間たち、すなわち一般的な価値観からすれば「変人」とされるような人間を主人公とし、その行動原理を抑圧する存在として、極端に残酷な現実を用意する。真空状態の愛と社会の中で汚染された現実とを対比させるのである。だからトリアーの映画は、いつも決まって「残酷な映画だ」と忌避される。しかし少なくとも、『黄金の心3部作』で彼が描いたものは、残酷な現実によって初めて明らかになり、また同時に残酷な現実を転倒させる可能性のある完全に純粋で真空状態にある精神なのである。(しかしながらトリアーはその後、「残酷な現実」の表象の方に精を出すようになってしまった)
その意味でトリアーは、『妻は告白する』(増村保造)で川口浩の婚約者が彼に言う、「あなたは誰も愛さなかった、奥さんも、あたしも。奥さんだけよ、本当に人を愛したのは。奥さん命がけであなたを愛したのよ。愛するために人を殺したのよ」という言葉を、視覚的に証明したのであり、「愛」という抽象的で不確定的なものを、物理的に、あるいは論理学的に表象して見せたのである。

今村夏子

それでもラース・フォン・トリアーの主人公たちは、彼女らが身を置く環境が残酷なものであるということを認識していた。残酷な現実に対して彼女らがする対処は、『奇跡の海』では神との対話であり、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』ではミュージカルの空想である。彼女らは辛い現実をどうにかして幸福なものに転換するために、現実逃避をするのである(思えば不幸を幸福に転換することが文学の仕事であると大江健三郎は言っている)。
一方でトリアー的な「黄金の心」と似通ったものを小説で描いていると言っていい今村夏子は、また別の方法で「変人」の精神を表象している。
今村夏子の主人公たちは決して現実逃避をしない。というよりも、現実逃避などという概念そのものが存在しないのである。それは、明らかに「変人」である今村夏子的な人物が、「変人」であるが故に周りの環境を残酷なものにしてしまったとしても、当の本人たちがその環境を一切残酷なものとして捉えていないために、現実逃避などする必要がないという事実から来ている。『こちらあみ子』のあみ子は、好きな男の子に嫌われても、母親が死産しても、兄が不良になっても、学校でいじめられても、家庭が崩壊しても、一切苦悩しないし、『あひる』の主人公は、両親が行う奇行や弟の暴力的な行動を前にしても、ただ見ているだけである。『星の子』においても、両親が新興宗教に嵌まり込み家庭を崩壊させても、ちひろは両親に対して不満を持つことはない。それが、今村が「くよくよしない明るい人物を描きたい」と言っていることと関係があるのは明らかである。一般的な価値観から見れば苦しい環境に身を置いている今村的人物たちは、しかし少しも苦しそうではない。しかもそれを今村は、主人公の精神と同じ筆致で描いていく。今村の作品はほとんどが一人称視点から語られるし、数少ない例外である『こちらあみ子』でさえ、語り手はあみ子とほとんど同じ精神と視点で現実を捉えているのだ。その時、今村の小説は、物語世界と主人公、それから読者との間に歪な三角関係を形成し、極めて複雑な様相を帯びるようになる。それは対立構図やテーマが極めて明快な村田沙耶香の小説とは決定的に異なる点だ。

今村夏子は、トリアーと同じように残酷な現実を描きながらも、それを絶対に残酷なものとしては描かないということをアイデンティティにしている作家である。今村的人物はあくまで純粋な「黄金の心」を持っているが故に、逆にその環境を苦しく残酷なものにしていくが、作者である今村はその環境を決して苦しく残酷なものとしては描かない。『こちらあみ子』において、母親が死産してうつ病になっても、のり君(あみ子が片思いする男の子)に殴られて歯を3本折っても、それはあみ子にとっては小学校低学年のときにのり君に「じろじろじろじーっ」とちょっかいをかけたり、誕生日プレゼントでもらったカメラで家族写真を撮ろうとしたりしたのと同じ、日常の一つでしかないのだ。しかしその日常は、我々の知る普通の日常とは異なり、あみ子だけが見てきた活発的で幸福的な「あみ子的な日常」である。

あみ子的な日常

今村夏子は「あみ子的な日常」をどこまでも愛している。お母さんが子供たちに習字を教える「赤の部屋」をトイレに行くフリをして覗く場面や、のり君と初めて一緒に帰ってはぐれる場面などを、多幸感溢れる筆致で描写していることからもそれは明らかである。そして今村はどの作品においても、現実を「あみ子的な日常」として再構築しようとする(『嘘の道』や『せとのママの誕生日』のような実験作においてもその姿勢は感じられる)。しかし「あみ子的な日常」は成長し大人になっていくにつれて居場所をなくしていく。「変人もの」の主人公たちが他者や社会から常識の抑圧を加えられるように、今村の人物たちも周りの人間から白い目で見られるようになるのだ。普通の「変人もの」ならそこで自らの非社会性に気が付き、実存的な苦しみを内面化するだろう。だが今村的な人物は、いつまで経ってもそのことに気付かない。むしろその、「あみ子的な日常」と一般社会との間にある齟齬に抗うように(当の本人は抗うつもりなど少しもないのだが)、今村的な人物は生存している。「あみ子的な日常」と一般的な価値観との軋轢はどんどんと拡がっていくばかりである。
今村夏子は、「あみ子的な日常」を残酷な現実から命がけで守ろうとするかのように小説を書いている。すなわち今村の仕事とは、「あみ子的な日常」をいかにして守り続けることができるのか、現実的な問題として「あみ子的な日常」はあみ子的な人間が何歳になるまで保持し続けることができるのか、ということを身を呈して追求しようとすることである。誰もが幼い頃には知っていた、自分だけの、多彩で快活で幸福な日常を、可能な限り延長してみんとする試みである。そして今村は、「あみ子的な日常」がいかにして我々の知る一般的な世界観の攻撃から身を守り抜くのかというところまで、小説を書き進めていく。

今村的クライマックス

今村的人物がいくら身の回りの現実に気付かないと言っても、「何かがおかしい」と思い至る瞬間は多少なりとも存在している。『こちらあみ子』で言えば以下の場面である。

「ない。ないじゃん。もう一個あるはずなんじゃけど。絶対二個あったもん。弟とスパイごっこしようと思ったんじゃけえ。そうよ絶対二個あったよ。ない。あっ、隠した?お父さん隠したじゃろう」
 ゴツン、という音がして膝小僧に振動が伝わった。父が畳の上に握ったこぶしを振り落としたことによる衝撃であみ子の手と口の動きはとまった。父は長く息を吐いてから立ち上がり、はっきりとこう言った。
「弟じゃない」
 父の顔を見上げた瞬間、しまったと思った。家の中で、学校で、道端で、これまでどれだけ多くのこういう顔が自分に向けられてきただろう。今、父は怒っているのだ。

『こちらあみ子』p.92

今村的な人物は、本当に少しずつではあるが、自己と他者との齟齬に気づき始める。それまであみ子の耳には入ってこなかった、他者のあみ子に対する感情が爆発寸前の状態であみ子の耳に初めて入ってくる。またあみ子の他者に対する感情も、それに対応するように苛烈なものとなっていく。そしてあみ子と世界の軋轢は臨界点を迎えるのだ。

「クッキーじゃろ」のり君が言った。
 かすれて、苦しそうな声だった。のり君はあみ子が手にしている一枚のチョコレートクッキーを見てから、机の上に並べてある二枚に視線を移した。その二枚は、たった今あみ子がハートの形をしたチョコレートクッキーから、ただの丸いクッキーに変身させたものだった。湿っている。のり君の口から震えた音が出た。あれは、と発声したようだったが、はっきり聞き取ることはできなかった。少しの間があって、次にのり君が言葉を発しようと口を開きかけたその瞬間にあみ子が叫んだ。
「好きじゃ」
「殺す」と言ったのり君と、ほぼ同時だった。
「好きじゃ」
「殺す」のり君がもう一度言った。
「好きじゃ」
「殺す」
「のり君好きじゃ」

同上  p.102-103

「あみ子的な日常」と一般的な価値観とが正面衝突するまさにその瞬間を捉えた場面である。「好きじゃ」というあみこ的なことこの上ない言葉と、「殺す」という残酷な言葉の応酬。ついにここで、あみ子は「あみ子的な日常」を携えて一般的な価値観に戦いを挑むのである。

ではこの対決はいかなる決着を迎えるのか。

「殺す」は、全然だめだった。どこにも命中しなかった。破壊力を持つのはあみ子の言葉だけだった。あみ子の言葉がのり君をうち、同じようにあみ子の言葉だけがあみ子をうった。好きじゃ、と叫ぶ度に、あみ子のこころは容赦なく砕けた。好きじゃ、好きじゃ、好きじゃすきじゃす、のり君が目玉を真っ赤に煮えたぎらせながら、こぶしで顔面を殴ってくれたとき、あみ子はようやく一息つく思いだった。

同上 p.103

あみ子が勝った。あみ子はのり君に殴られて歯を3本折られても、「あみ子的な日常」を失うことはなかった。
今村夏子は、決して「あみ子的な日常」が敗北することを描かない。『星の子』においても、「あみ子的な日常」が崩壊するその臨界点で、ちひろが両親と3人で流れ星を見るという最もあみ子的な瞬間が訪れる。そしてその瞬間に小説は終わる。

『こちらあみ子』で最終的にあみ子は他者の存在を初めて実感する。坊主頭との会話においてである。のり君しか見えていなかったあみ子は、坊主頭が同じように小学校低学年の頃からの付き合いだということを覚えていない。しかしそれでも、坊主頭だけは他の生徒と違い、あみ子に積極的にコミュニケーションを取ろうとする。そこであみ子は彼に、自分の「どこが気持ち悪かったかね」と聞いてみる。

笑っていた坊主頭の顔面が、ふいに固く引き締まった。それであみ子は自分の真剣が、向かい合う相手にちゃんと伝わったことを知った。あらためて、目を見て言った。
「教えてほしい」
坊主頭はあみ子から目をそらさなかった。少しの沈黙のあと、ようやく「そりゃ」と口を開いた。そして固く引き締まったままの顔で、こう続けた。「そりゃ、おれだけのひみつじゃ」
引き締まっているのに目だけが泳いだ。だからあみ子は言葉をさがした。その目に向かってなんでもよかった。やさしくしたいと強く思った。強く思うと悲しくなった。そして言葉は見つからなかった。あみ子はなにも言えなかった。

同上 p.120

あみ子が他者に対して初めて「やさしくしたいと強く思った」瞬間である。果たしてこれはあみ子の成長なのだろうか。このあとすぐに小説は大人になったあみ子の場面に戻り、相変わらず「変人」として生きており、坊主頭のことなど忘れてしまっている。
確かにあみ子の「成長」は一瞬で終わる。それは確かに残念なことであるのかもしれない。しかしながら、あみ子とともに「あみ子的な日常」を体験してきた我々は、どこかであみ子に「成長しないでほしい」と思っている節があるのではないか。成長して他者を思いやる大切さを知るという一般的なドラマのようには、『こちらあみ子』は終わって欲しくないと感じていたはずなのである。今村は徹底して「あみ子的な日常」を守り続ける。それは作家の、どんなに辛いことがあってもへこたれずくよくよしない明るい人物を描きたいという欲望から来ている。しかし逆説的に、それはあみ子を成長させず、大人になっても「変人」のままにしておくことでもある。だからこそ、今村夏子の小説はいつもある種の暴力性を帯びているし、怖いのである。

終わりに

「変人もの」という物語の1ジャンルの特徴から、ラース・フォン・トリアーの『黄金の心』、それから今村夏子の小説について論じてきた。またごく微少ではあるが、村田沙耶香の作品にも触れた。この3人の作家に共通しているのは、本稿でも述べた通り、社会性の外側にいる人間を通して社会性の内側をもう一度再解釈してみようと試みている点である。しかしまた、この三作家にはそれぞれ大きな違いがあるということも述べた。今一度簡単に振り返るなら、村田の作品は自らが社会性の外側にいる人間だということを自覚している人間の物語であり、トリアーのそれは社会性の外側にいるということは自覚していないが、他者や現実の残酷さは認識している人間の物語である。そして今村は、社会性の外側にいるということも、現実の残酷さも認識していない人間の物語である。
「変人もの」の物語は今日においてより重要なジャンルと化してきているように思える。物語のパターンが飽和しかけていること、また社会が高度に複数化し複雑化していることからも、「変人もの」は物語に新たな地平を導入してくれる一つの視点だ。そして本稿で挙げた3作家は、この「変人もの」にありうる限りの可能性を提示してくれる作家たちでもある。

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