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人名中の形容詞

まずは奇をてらわずにこちらの名前を読んでみてください。

・良弘
・隆康
・忠俊

ほとんどの方はすんなり良弘(よしひろ)隆康(たかやす)忠俊(ただとし)と読めたと思います。

しかし考えてみれば、この名前には不思議なところがあります。それは、すべて形容詞で構成されているのに、「ひろ」、「たか」、「やす」、「ただ」が語幹だけであるのに対し、「よし」と「とし」だけが活用語尾まで含まれている点です。

日本の人名に使われる形容詞要素は、

かた ← かたし(かたい、固い)
きよ ← きよし(きよい、清い)
たか ← たかし(たかい、高い)
ただ ← ただし(ただしい、正しい)
ちか ← ちかし(ちかい、近い)
とお ← とおし(とおい、遠い)
なが ← ながし(ながい、長い)
ひろ ← ひろし(ひろい、広い)
まさ ← まさし(まさしい、正しい)
やす ← やすし(やすい、安い)

と、形容詞の語幹のみを使うのが基本であるにもかかわらず、「よし」と「とし」の二例のみが、例外的に活用語尾「し」までを含んでいます。

その理由はおそらく単純に、「二文字(二拍)にしたかった」というのが考えられます。そして実際にそうなのでしょう。一文字(一拍)の言葉というのは聴き取りづらかったり、意味を特定しにくかったり、非常に不安定な存在です。よって、何とかして文字数(拍数)を増やそうとする傾向があります。

「田(た)」を「田んぼ(たんぼ)」と呼んだり、「葉(は)」を「葉っぱ(はっぱ)」と呼んだりするのも、そういった一例です。

この特別扱いはいつからあるのかを検討してみます。

奈良時代、天平の頃に阿閉悪人という名前の人物がいました。

字面の酷さはさて置き、この「悪」を何と読むかが今の関心です。現代「悪」という字では「あく」、「わるい」という読みがよく使われますが、古風な言い方では「あし」とも言います。良し悪し(よしあし)の「あし」です。

「あくひと」、「わるひと」、「あしひと」などの読み方が考えられますが、形容詞の語幹だけを使うという考えに従えば「あひと」も候補に入るでしょう。

ところでこの人物は、名前を別の字でも書かれています。「葦人」です。「葦」という字は「あし」としか読みませんので、すなわち「悪人」も「あしひと」と読むことが判明します。つまり「よし」や「とし」と同じく、語幹だけを取ると一文字になってしまう「悪し」も人名に用いる場合には活用語尾「し」までが入ったのです。

奈良時代の人名にはしばしば「吉」が含まれますが、万葉仮名の「吉(き)」として用いられることも多く、「吉(よし)」もしくは「吉(よ)」であると断定までできるものは、「善人」とも表記される土師吉人くらいしか見つけられません。

「善人」を「きひと」と読むのは不可能なので、「吉」が訓読みであることは確実です。土師吉人は阿閉悪人と同時期に活躍した人物であり、おそらくは吉人(よしひと)と読むのでしょう。

他の形容詞も人名に使われますが「広麻呂」や「正成」は、やはり広麻呂(ひろまろ)正成(まさなり)であり、「ひろしまろ」、「まさしなり」ではありません。

身毛広(むげつ・の・ひろ)の名前が「牟宜都比呂」、小当女(こまさめ)の名前が「古麻佐売」とも書かれるのが証拠になります。
(古代で「まさ」は「正」よりも「当」の字を使う方が一般的です)

地名では奈良の吉野が『万葉集』によく歌われています。大半は「吉野」か「芳野」と表記されていますが、4098~4100番歌では「与之努」、「余思努」と書かれており、「よの」ではなく吉野(よしの)と読まれていたことがわかります。

ただし「悪」、「吉」などが絶対に「あし」、「よし」であるとも限りません。吉野と同じく奈良の地名に「吉隠」というのがあります。難読ですがこれは吉隠(よなばり)と読みます。『万葉集』では「吉隠」、「吉名張」、「吉魚張」と表記されており、必ずしも「吉」の読み方は明確ではありませんが、203番歌では「吉隠之」、1561番歌「吉名張乃」、2190番歌「吉魚張能」、2207番歌「吉魚張之」、2339番歌「吉名張乃」と、すべてが「吉隠」というかたまりで構成されており、五七のリズムに照らせば、吉隠(よしなばり)ではなく吉隠(よなばり)と読むことが妥当になります。

これが顕著なのが「利(と)」であり、利根(とね)利波(となみ)などが存在します。利根は「刀祢」、利波は「砺波」などと書かれるため「としね」、「としなみ」でないことは明らかです。

このように語幹だけが使われるケースもまた複数見受けられます。

この通り、固有名詞における形容詞は語幹のみを用いるという原則から言えば、「よし」、「とし」は間違いなく例外なのですが、この例外の歴史が少なくとも1300年以上あるため、原則に従って「よ」、「と」と読む方が違和感を覚える結果となっています。

特に平安時代以降、固有人名が観念的な漢字二文字で表記するようになってからは、「吉」、「良」、「善」、「義」、「淑」などは「よし」、「利」、「俊」、「敏」などは「とし」と読むことが、逆に言えば「よ」や「と」とは決して読まないことが確実となり、現代まで続いていきます。

なので、近年時々見られる、どう見ても「はるとし」の春利(はると)や、どう見ても「かずとし」の和敏(かずと)なども、日本語文法の法則に照らせば、絶対に断じてダメとは言いにくいのが事実です。

とは言っても、上記の通り「よし」、「とし」と読まれてきた歴史が非常に長いこと、また語幹だけが使われる場合、吉隠、利根、利波、利倉(とくら)のように、前要素にだけ使われることに鑑みれば、やはり名前の最後に置く「と」に「とし」の語幹のみを使うのは変であると言わざるを得ません。

最後に、名前に使われる「とし」には形容詞「利し」に由来するものと、名詞「年」に由来するものがあります。前者は「利」、「俊」、「敏」などで、後者は「歳」、「稔」、「寿」などです。

名詞の「とし」は「と」と「し」には分かれませんので、英寿(ひでと)明確にダメです。

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