見出し画像

藤本タツキ『ルックバック』のずばぬけた演出

藤本タツキの読み切り『ルックバック』を読んだので今更ながら (めっちゃ放置してしまった) 感想を書いてみようと思う。

藤本タツキ『ルックバック』 ジャンプ+

Twitterなどで大きな話題になったので読んだ人も多いと思うが、『チェンソーマン』や『ファイアパンチ』の藤本タツキが描く新作の読み切りである。Oasisの"Don't look back in anger"が織り込まれているとか、京アニの事件の追悼作品であるとか、多くの映画をオマージュしているとか様々な小ネタが話題を呼んでいるのだが、そのあたりについてすでにの多くに記事が書かれているのでそちらを参照してください。

そのような事前知識を要求する小ネタを抜きにしても、ずば抜けた演出が名作映画のような世界観を描き出しており、ストーリーの完成度も非常に高い。間違いなくここ数年で一番の読み切りである。

ここでは、特に演出について述べてみる ※ネタバレあり

オノマトペがない

p.143もある大作を私が読み終わったとき、周りが静かになるような、1本の映画を観たような余韻が残った。この静けさ余韻を作り出しているのはなにか。実はこの作品、オノマトペが一つもない。オノマトペは漫画で見られる

ドンッ!!!」 とか 「ゴゴゴゴゴゴ…」 とか 「ドキドキ

のような臨場感を出すための表現技法である。本作ではこのオノマトペがない代わりに必要最低限の効果的なセリフ、表情、背景、そしてコマの構成で臨場感を出しているのである。普通ならば分かりにくくなってしまうところだが、この作品の場合、類まれなる演出で没入感の高い世界観を作り出すことに成功している。

贅沢なコマの構成

本作はコマを贅沢に使って表現している。一例をあげるとp. 10 で藤野が京本の画力にショックを受けているシーンでは似たようなコマが何度も挟まる。

画像1

出典:『ルックバック』p. 11 (修正後のページ番号)。 ショックを受けて自分の世界に入っている藤野がゆっくりと我にかえるところを、関係のないトラクターのコマを挟むことで表現している。


さらにこちらの漫画を描いているシーンでは、何度も挿入される背中背景とで重ねてきた努力と時間の流れを表現している。

画像2

出典:『ルックバック』p. 13-14

このようにコマを贅沢に使うことで時間的な広がりを感じされる作りになっており、読者にその場にいるような没入感を感じさせる。

陰影

本作ではトーンによるシンプルな陰影が多用されており、世界観を形作る一助となっている。この陰影によって表現された「光」「明暗」が藤野の心理描写に結びついている。特に印象的だった一例としては、p.126からの現実の世界に戻ってくるシーン。藤野が座っていた暗い廊下に光が差し込み、光に誘われるように京本がいた部屋の扉を開ける。そのさきでは4コマの短冊が光を射していて、照らされたドテラを振り返る…。

画像4

出典:『ルックバック』p. 130-131

もちろん実際に光っているわけはなく、藤野の心理描写であり、このシーンに続く回想で神秘的な雰囲気を醸し出している。回想を挟んだp.141では窓の外が明るくなり、藤野が現実を向き始めたことが表現されている。しかしp.143では空は灰色で、前向きになれたというより、もうあのとき(回想)が戻ってこないことを受け入れたように捉えられる。

このやるせないエンディングに関しては賛否両論があると思うが、私はこういうビターな終わりは好きだ。

おわり

他にもいろいろ話したことがあるのだが長くなるので最後は私の気に入ったシーンで締めくくる。

画像3

出典:『ルックバック』p. 46-47。喜びが爆発して雨の中踊っているシーン。藤本タツキらしさがあって私はこのシーンを気に入っている。



追記

京本が男に襲われるシーンが不適切なシーンだとして訂正された。もともとは男が自分の作品を盗作されたと訴え、被害妄想や幻聴によって犯行に及んだシーンであったが統合失調症などの精神疾患患者に対する差別 (話が通じない等) を助長する表現だとされた。修正後は動機の乏しい犯行になった。個人的にはこの修正は残念だった。正直なところはじめて読んだとき私にはこの男が精神疾患患者に結びつかないので差別になると思わなかった。これをよんでどれだけの人が結びつけて考えてしまうのだろうか。差別だと非難する人は、精神疾患 (統合失調症)=「話が通じない」につながるのだろうか。もしかしたら世代の違いかもしれない。だとすると私を含むそれより上の世代の教育はうまくいっていることになるね。それにしても修正までさせるのは過剰ではないか。そもそも話の流れ的に理性を持った犯人が襲っているというのは不自然である。この修正は作品を穢しているように感じる。ポリコレは大事だとは思うが何でもかんでもやればいいというものでもないだろう。表現の自由とのバランスが必要だと思う。

まあ仕方がない、それだけ藤本タツキの作品それだけの影響力があると捉えたら喜ばしいことかもしれない (長くなってしまった)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?