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遠野阿房列車


発車アナウンス


4月3日から5日にかけて、岩手県遠野市に行った。

ちょうど一ヶ月が経ちました。

遠野市は、岩手県の県庁所在地・盛岡市から南東方向へだいたい70キロ下ったところにある街である。柳田國男の著書『遠野物語』で脚光を浴びただけあってご存知の方も多かろう。例に漏れずわたしもそのクチである。隅々まで恐怖の色で塗り込められているわけでもなく、そうかといって全編がエガオ溢れるストーリーとも限らない独特の語りに不思議と魅せられて、遠野の地には興味を惹かれていた。

せっかくならテキストに飽き足らず、現地に行ってみようじゃないかと思い立った。『遠野物語』の面白いところは「遠野」の物語であることで、すなわちおとぎ話が描く桃源郷とは違って、訪れ、足を踏み入れることができる。テキストと現地、それぞれが持つ趣きのあわいを贅沢にもウロウロできるのであーる。これは森見登美彦の京都小説に匹敵する愉快だとおもう。
折よく4月3日に、遠野物語ビギナーを対象とした講演会が市図書館で開催されるというので、薄れかけているテキストの記憶を補完しつつ、街並みを散策する絶好のチャンスと見抜いた。開催前日の4月2日(考えるまでもなくぎりぎりの連絡)、主宰団体富川屋に参加を打診すると、定員数はすでに超えているけど席を準備しますヨ〜と寛大なレスポンスがあり、いよいよ腹を決めた。

かくして、閑を持て余すあまり日がな猫君を撫でるのに費やしてきた春休みの残り火を、エイヤとばかり遠野行へ傾けることにした。

ただ、高速バスや新幹線の利用は、えらく高額なのと、なにより下調べと予約が億劫なので避けた。「ちょっとルーヴル行かね?」と呟いた友人の軽率な誘いに乗るぐらい、思いつきに従って生きる性分のため、「前もって」「あらかじめ」「綿密に」プランを組もうとすると、途端に意気消沈してしまう。迅速・快適は二の次、よし価格にも目を瞑ろう、しかし肝要なのは込み入った予約が不要で、定額であること。

それで、はるばる在来線を乗り継いで行くことにした。明快メソッドなり!


・・・→仙台→東仙台→岩切→陸前山王→国府多賀城→塩釜→松島→愛宕→品井沼→鹿島台→松山町→小牛田→田尻→瀬峰→梅ケ沢→新田→石越→油島→花泉→清水原→有壁→一ノ関→山ノ目→平泉→前沢→陸中折居→水沢→金ケ崎→六原→北上→村崎野→花巻→似内→新花巻→小山田→土沢→晴山→岩根橋→宮守→柏木平→鱒沢→荒谷前→岩手二日町→綾織→遠野

(太字は乗り換え駅)


遠野物語講演会は13時開場。
遠野駅に13時ごろに着く便を選ぶ選択肢も浮かんだけれど、道中迷子になり、慌ただしく会場に駆け込む未来がたやすく幻視できた。思い返せば大学の現役受験2日目の朝、殊勝にも神社やら高等裁判所やら参詣するうちに道を失ってしまい、無量の冷や汗を垂らしながら奔走し、なんとか試験会場に滑り込んで1分後、容赦なく数学のテストが開始された苦い経験(無論、すでに白熱しきった頭では一ツの大問もワカラナイまま落第・浪人……)があり、アレ以来、ぎりぎりの到着がほとほとイヤになった。

なんとか受かったからヨカッタものの……
あのとき阿呆をしでかしたわたしも今や学部4年生です
(写真……浪人の果て合格した日、絶叫する筆者をよそに眠る猫君)

JR公式の時刻表アプリによれば、13時到着便のまえに11時前到着便があるとのことで、これが最も早く現地入りする術である。それでは何時に出発したものか続いて調べる。わたしは仙台よりズット南の田舎町に住んでいるから、なんと6時前後には電車に乗り込んでいなくてはならないらしい。ヒッ……顔色を失くしたわたしの脳裡に、追い打ちをかけるように一条の言葉が赤黒く閃いた。
「汝、6時の電車に乗るために何時に起きるか」
家を出立する時刻、朝食を完遂する時刻、荷造りを終える時刻……と逆算していくと、4時半に起き出さなきゃどうしようもないことが分かった。ヨ、ヨジハン。時刻表から顔を上げ、虚ろな目をこわごわ時計に向けると、現在すでに4月3日午前1時を回っている。4時間後にはお茶漬けを啜っていなくてはならない。
「徹夜」の二字が放つ甘〜い誘惑を感じつつ、しかし少しでも寝ておかないと講演会で地獄を見る予感も覚えつつ寝床に潜る。「起きれますように」と十字を切り、きつく眉間に皺寄せながら眠り込んだ。


・・・→仙台


……毒虫に変身してしまいかねない気がかりな夢にうなされウスウス目を開くと、4時半だった。まだ目覚ましが鳴ってもいないし、日ノ出も先のことだというのに、ブラックジャックさながらの精密な生体時計バイオリズムを発揮して無事に起きられたことを喜んだ。幸いなことに眠気も尾を引いていない。
暗い寝室、暗い階段、暗い廊下をひたひた進んでいくと向こうからやってくる丸い影がある。誰何するまでもなく、猫君だ。ほんのさっき互いにオヤスミを告げたばかりなのに早くも動き出したわたしに驚いてか、瞳孔が大きく開いている。「よし遊ぼか〜」と小声で訊いてくる。
「そうじゃないのよ」と笑いかけると、「じゃあご飯をくれよぅ」と拗ねる。

かつてのガール・フレンドとのショート蜜月のあいだ鍛えた料理スキルを多分に発揮して、簡単に自分の朝食を拵えた。身の回りのアレコレを独りでこなすことを、寮生活時代は苦痛を覚えたものだけれど、数年経ったいまは愉快と感じられた。
朝食を摂りながらも遠野の天気予報を確認し、空いた手で猫君に給餌する。始発発車まであと何分かに意識を走らせ、逐次行動をアップデートする。食後は珍しくヨーグルトとバナナ、野菜ジュースを口にし、かつ空いた手で猫君を撫でまくる。いつになくキビキビした動きに、我ながら惚れ惚れしたものである。

未曾有なまでの時間的余裕を持って出立し、家の最寄りの駅に原付で滑り込んだ。
そろそろ陽も昇ろうかという頃合いゆえ、田園風景の果てに広がる地平線は橙色に煌めいていた。青く薄れた宵闇と織りなすグラデーションは壮観であった。中学時代、平気の平左で早朝ランニングできていたのは、一つに、その時間帯ならではの絶景が楽しみだったからかもしれないと考えた(理由のもう一つは明快で、ランニングの途中、近所のレディース・アンド・ゼントルメンが将棋に付き合ってくれたりお菓子を振る舞ってくれたりするから、という下心である)。

プラット・ホームには、存外、さまざまに人影があった。
ふだん自分が眠りこけているあいだにも世界は起動していることを想い、驚く。

ゆらゆら帝国の「おはようまだやろう」のリリックを微かに囁きながら、乗車。
朝のキブンによくマッチする曲が、かの帝国の特産品です。

ぼくらが起きる と彼らが眠る
ぼくらが眠り出すころ に彼らは起きる
地球の裏にはいる 友だち たくさん

♫ おはようまだやろう/ゆらゆら帝国

あたたかい車内に乗り込み、リュックに詰めてきた書物を紐解く。
はじめレベッカ・ソルニットの快著『ウォークス:歩くことの精神史』(左右社、東辻賢治郎訳)を読み、迷路と歩行の関係に思いを馳せていたはずが、いつの間にかウトウトと微睡みのラビリンスに潜り込んでしまった。レベッカの文体は、映画作品で例えれば『ブンミおじさんの森』のような、ディープな瞑想を感じさせる心地よいものだけれど、シッカリ意識の手綱を握っていないとアッという間に夢幻郷に迷い込んでしまう。ここで眠気を蓄えるのも考えものだから(経験上電車で眠っても眠気は治まるどころかむしろ昂進する)、潔く『ウォークス』を閉じた。

というわけで京極夏彦が編集した『遠野物語』を開くに限る。
現代語訳かつ短編というところが早朝のスロゥリィな頭には嬉しい。
「山人」も街の人も、お互いに接し方が分からず困惑しているようすがカワユイ。街の人が「山人は寡黙だ!」と断定してもすぐに「おいおい、喋ったぞ!」と反例に慌て、山人は山人で、ばったり街ピープルに遭遇してどきどきしている。さっさと<理解>できない他者ってぇのは怖いものです。
しかし困ってみても交流は避けられないわけで、あくまでヤマアラシ・ジレンマに悶々としつつも、ちょうどいい距離感を模索しているさまが感じられた。自然を拒んで支配しにかかる殺伐とした関係性よりは、穏やかでよろしい。
遠野に行ったら「彼ら」に会えるかしら、なーんて夢想する。


仙台→東仙台→岩切→陸前山王→国府多賀城→塩釜→松島→愛宕→品井沼→鹿島台→松山町→小牛田


——仙台駅に着いた。たいへん空いている。
昼から夜更けにかけての主人公である群衆に代わって、理に適いすぎて無気味でさえあるキャッチコピーを掲げる企業広告が淡々と場を占めている。目には騒がしい風景だけれど、足音が絶えて無いので極めて静かだ。まえに終電を逃して駅近くで野宿したときにも気づかなかった、都市の側面を垣間見たようにおもう。
ときに、中野正貴の写真作品に『TOKYO NOBODY』(リトルモアより出版)という、「誰もいない東京」の一瞬を切り取った奇作があるが、仙台でもなかなか撮れない(下写真にも中央に警備員がチラリ)ものをよく検出したナと感服する。あれがCG技術の賜物でないという情報には耳を疑う。

SENDAI NOBODY(おおよそ……)

さて、東北本線に乗り換え、小牛田こごた駅を目指す。まだ7時にも満ちていない。
仙台近郊に通学していればコゴタの名は頻繁に聞くが、訪れたことは無い。その途上にある松島駅に、数年前ハーフマラソンに出走すべく降り立ったためしが少しあるぐらい。同じ宮城県でも未知はまだまだあるものよ。

車窓によぎる、いちめんの知らない景色を、眺めるともなしに眺める。
知らない・見たことがないとはいえ、平生から杉林と田圃と小山と青空に囲まれて四面楚歌ならぬ四面牧歌な暮らしを送っているから、さしたる感興もない。単調なビューに、はじめは強いて「わあ……」と目を輝かせてみたが、二の句が継げず、やめた。なんにでも「意味」を求めたり付与したりしてるとツカレマスね。
——澄んだあおぞらのもと、口ぽかん。これぞ旅の妙味。

「意味」を汲み取ろうとすると徒労に終わる

小牛田→田尻→瀬峰→梅ケ沢→新田→石越→油島→花泉→清水原→有壁→一ノ関


小牛田駅までは空いた車内に乗っていたけれど、一ノ関方面行きの東北本線に乗り換えるとえらく乗客が増えた。オジイやオバアの談笑ないし独語(「ないし」を「すなわち」と置き換えてもよい)でぱっと車内が華やいだようである。キャリー・ケースを携えた旅行客もなかなか多い。

青空ぽかんに徹して、眠気をシャーレで培養するうちに一ノ関駅に着いた。
次の花巻駅行きの列車乗り換えまでは30分近くあるので市街地にふらふらと打って出ることにした。駅前にケルベロス型ブロンズ像があったので吸い寄せられる。誰やろとおもって眺めると大槻三賢人である。なんと、あの大槻!
蘭学者の玄沢。息子の磐渓は儒学者。その息子・文彦は辞書編纂者。
ばらばらに識っていたこの三人、そういえば大槻姓を共有していたことに遅ればせながら思い至る。失敬、失敬。いっぱしに辞書を愛する者としては、とりわけ文彦像を拝めたことに歓喜せずにはいられなかった。あ、あの「言海」を手掛けたもうた文彦閣下。なーるほど、チョー威厳ある相貌であらせられる。チョー。
思わず合掌、拝手、真言、信仰告白、喜捨、五体投地、アーメン。

禿頭トリオ・オーツキ
日本辞書開祖・大槻文彦閣下御影

雲量ゼロ、とにかく晴れ渡っている。弥栄。
ひらけた街路に彷徨い出ると、目を惹く店構えが並んでいる。さすがは市というべきか、書店も建っている。オトナ世界の香がふんわり感じられるカッフェもバーもあるけれど、惜しくも朝7時ゆえ開いていない。キャビネットに飾られた食品サンプルを、飢えた獣のように観察し、一ノ関への再訪を誓ったのち駅に戻った。
駅の自動改札はわたしのSuicaを受けとめ、軽快に鳴り響いた。

パッフェ、お子様ランチ、クレープ、パッッフェ!

一ノ関→山ノ目→平泉→前沢→陸中折居→水沢→金ケ崎→六原→北上→村崎野→花巻


駅プラットフォームには、キャリー・ケースを引いた観光客の姿も増え、また弓道を求道しているとおぼしき高校生も群棲している。列車に乗り込みつつ若人諸君を振り返りながら「大会でもあるんかしら〜」と要らぬ野次馬根性を発揮していると、妙に耳馴染みのある発車サウンドが鳴り響いた。東日本在住のお方ならきっとご存知の「Water Crown」である。しかし一ノ関駅のソレは仙台のソレとちがい、やけに荘厳な響きなのである。喩えるならば——陽がステンドグラスに射し込む異国の教会にふらふらと入ってみたら、ずらりと並んだ美少年たちが、荘重なるオルガンの旋律に乗せて植木等を合唱する場面に遭遇したかのような驚きがあった。
はるか遠くに来たという想いに駆られ——それでいて肌が故郷を思い出すような、アンヴィヴァレントな感覚に打たれていると、おもむろにワンマンカー車両が動き出した。

壁面に岩手産牛乳の購買を勧める広告があり、読む。
飲んだ量に応じて応募できる賞が異なるキャンペーン企画で、10Lのコースと、20Lのコースとがある。前者に当選すると乳製品の詰め合わせが届く。さてその上位、20Lも飲み干した豪の者にはどんなゴウジャスな品が用意されているのか——期待を籠めて賞品に焦点を合わせると、赤と青と黒の最新鋭ポータブル・ゲーム機の威容が像を結んだ。言わずと知れたポピュラーなアレである。
ご当地のモノを消費した報酬が、どこにでもある人気商品なのはどうしたことか。赤青黒に匹敵する名物が近辺に見当たらなかったから、「とりあえずこれあげときゃ喜ぶデショ〜」と諦めたかのような思考停止を感じ、荒涼とした想いをおぼえた。誕生日祝いに紙幣をそのまま渡されるときの悶々に近い。

なはんてことを考えて、むづかしい顔を湛えていると、車窓に映った雄大な雄大に目を奪われた。誤字ではない。あまりに雄大すぎて、形容詞も形容される名詞も「雄大」にしたくなるような、そんな雄大な峰々が窓外に聳えていたのである。微かに雪を冠り美白な山巓と、蒼く霞んだ山麓は、それまでの渋面を破顔せしめるに十分な感動を惹き起こした。イヤハヤ壮快、聞きしに勝る山並みである。
耳馴染みのない車内アナウンスを聴き、旅先らしい胸の高鳴りを覚えつつ、列車は花巻へ向けて驀進した。花巻は宮澤賢治の生地です。


花巻→似内→新花巻→小山田→土沢→晴山→岩根橋→宮守→柏木平→鱒沢→荒谷前→岩手二日町→綾織→遠野


花巻駅に着くも、乗り換え時間が数分しかないのでうかうかしていられない。
一ノ関駅に降り立ったようにノンビリ散策できないのを口惜しがり、せめてもの記録にとスマホのキャメラを起動した。入魂して撮りたるは岩手の無形民俗文化財、「鹿しし踊り」の踊り子の衣装である。かくのごとし。目が突出している。

獅子舞よりも機動性に優れているとおぼしいフォルム

鹿踊りマネキンと数瞬間対峙したのち、JR釜石線に乗車した。
ふたたびワンマンカーである。車掌が一人というだけなのだが、なにぶん人生はじめての体験ゆえ、なんだか天使来臨のごとき奇蹟に遭ったようなトキメキを感じていた。ふしぎ。ワンマンカー君といっしょにいると、ぽかぽかする——

つるつるに磨き上げられたフロア。カーリングなどいかが

さて(無理のある副詞)、ここまで花巻に近づくにつれ乗客が増えていたのが、うってかわって釜石線ではぐっと減った。先頭車両、えらく空いた座席にデンと腰を据え、しばらく風景を眺めていたが、車両進行方向の前景が一望できる正面窓の存在に気づき、荷物を携えて近寄った。それはそれは、ステキな景観がひらけていた。

たわんだ琴線を初期化する風景

嗚呼なにかしら……故郷への道を急ぎ走っているようなこのキモチ……
フランスから帰朝するときタイ航空の機上で感じた、じれったさに近いソレ……
いま遠野へ向かっているこの行為を表現するならば「行く」より「帰る」の動詞が数等倍も似つかわしいとおもわれた。柳田も『遠野物語』で記しているとおり、まず「遠野」の響きそれ自体が聴く人の胸中にノスタルジーを強く喚起する。「とう」ではなく、「とお」なのがミソである。透き通った水晶を槌で打ち鳴らしたような冴え冴えとした快音。そして頃合いを見計らってその震えを絹布で覆って鎮める。それが「の」というクッション機能である。「とお・・・———・・・の」。アルヴォ・ペルトのピアノやゴルトベルク変奏曲の一音目に匹敵する静けさ。そして沈黙よりもなお優しい耳触り。ナボコフが執着してその響きの美を説いたロリータみたいなものといえよう。
そして実際、眼前に展開されている風景は、薄汚いナショナリズムをも突き抜けた、人間としての心的ふるさとへ吾人を連れ去る。要因はなんだろうか——山川だろうか、田園だろうか、広い空だろうか、あるいは平地人特有の「質素」への憧れか。都会の物欲を知った者として「ここではない場所」=理想郷の影を求めているだけなのかもしれないが、なんにせよ眼前の非日常の静謐さが、閉塞したアタマに風穴を穿ち、いつになく深く、深〜く息をつくことができたことは確かだ。

北上川に架かる橋の上をゴオゴオ。スタンドバイミーの少年たちを線路に夢想する

岩手に入ったからといって遠野はすぐそこにあるわけではなく、花巻から1時間強列車に揺られた先にある街だ。数字でみるとなかなかロングにおもわれるけれど、窓から眺める景色に終始見惚れていたから、足の痛みも感じぬほど刹那の乗車時間であった。まあ、おもえば朝4時に軽く飯を掻き込んでからこっち、ろくにモノを口にしていないので空腹はなかなか猖獗を極めていたが……

カタカナから香り立つ無量のオツ

釜石線は、宮澤賢治ゆかりということで1995年に「銀河ドリームライン」の愛称を与えられてから、各駅にエスペラント名が付されている。これが、マー、かっこいいんですわ。ドラクエの呪文みたいなものでね。回復呪文がホイミとか、闇な呪文がドルマとか、一見すると珍妙なカタカナ文字列に過ぎないのに、「なんかそれっぽいネ」と納得せしめる響きがある。人工言語エスペラントがほとんど人口に膾炙していないところがまた、未知な奥ゆかしい雰囲気を醸す。知らないからこそ、先入観に阻まれずに妄想の世界へ飛んでいけるというもの。無可有境で逢いましょう……
ドラクエが途中からマジックバリアを導入したのは惜しいとおもうのであります。

2013年に駅名標がリニューアルされ、いよいよロマンティックが止まらない。

「下町のナポレオン」に匹敵するオツ
「ガラクシーアカーヨ」(銀河のプラットホーム)

帰ってきたやら、未知領域に進入したやら、どっちつかずの高揚を覚えて莞爾と笑うわたしを横目に、日々円滑な運行を司る車掌はゆっくりと制動ブレーキをかけながら神妙に口をひらく。「次は遠野——遠野、お出口は左側」


遠野→・・・


朝も早うに家を発ち、かれこれ5時間ばかり電車に揺られた果てについに遠野に迎えられた。降り立つと仄かに温かい。ここは民話の里——エスペラント名はフォルクローロ。白い花を担いだカッパのマークがそこここに貼られている。

逸る心でちょっとピンぼけ
Folkloro Tono

財布を開き、Suicaを紛失していないか確認する。ある。ヨシ。
あとは自動改札を通過するだけ——さすればいよいよ遠野の郷だ——
喜び勇み、知らず知らず歩調は早まる。目は改札を探す。……見つからないぞ。

(エート……自動改札は……ドコにあるぞな、もし……)

角ばった眼鏡を佩用したナイス・ミドルな駅員紳士が、釜石線を降りたわれわれを待ちもうけている。ほか乗客たちは小さな紙片を紳士にみせ、彼が頷くのを見て取って、駅舎を出ていく。滞りなく遂行される儀式の風景のなかに、交通系ICカードすなわち印籠のSuicaの出る幕がなぜか見受けられない。誰もがアナログな紙片——切符を提示するだけ。まさか……脳裡をよぎった恐るべき閃きを反芻して、茫然と立ち尽くした。すでにほか乗客はみな駅舎を離れたらしい。あとにいるのはあなたとわたし……紳士と瀕死の青年……
蚊取り線香が燃える音なみに小さな声で紳士に呼びかける。
「もし、もし……」
「ン! どうしたの」小学校の先生を彷彿させる親密な声調で駅員は応える。
「ここ、Suicaは使えないので——?」恐る恐る印籠を振りかざすと、

紳士は呵呵大笑した。「アイヤー、Suicaはここ使えないよぉ!」

世にSuicaが使えない圏域があろうとはね、つゆほども知りませんでした。
どこから来た、と問われて「花巻」と答え、そのぶんの運賃を現金で払い、駅窓口に紳士とともに行って諸々の取消し手続を書面で処理すべくSuicaを小型機器にかざすと最終改札履歴は「一ノ関」と表示され、そういえば一ノ関から一息で来たわということに思い至り、さっきの現金支払いを仕切り直して、こんどは一ノ関〜遠野間の運賃を納入し、ヨシということで窓口に戻り、一ノ関駅で提示するための諸々取消し用紙を頂戴して、ようやく放免——というドタバタ劇を到着早々に演じた。ツギハキヲツケマス、ハイ。
駅舎の待合室から事の顛末を見守っていた地域ロコたちの温かい視線を背に受けながら、いささかの照れと申し訳なさを噛み締める。そして、にやにや笑いを浮かべた平地人は駅舎を出て——遠野の地に立った!

わたくしの脂汗が染み込んだ遠野駅舎


肝腎の遠野滞在記はここから本番を迎えるわけですが——
きょうはここいらでお時間いっぱいいっぱい。続編をお待ちください。

(拍手を背に一時退席)

I.M.O.文庫から書物を1冊、ご紹介。 📚 東方綺譚/ユルスナール(多田智満子訳)