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もうひとつの栞

私には「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ぶ祖父母が三組いた。

一組目は、父方の祖父母。
私が幼い頃に祖父は亡くなったので、祖母しか知らない。その祖母もまた、遠く離れた地方に住んでいて、数回しか会ったことが無い。

快活の良い広島弁で、よく笑うおばあちゃんだったが、私が中学生の頃にがんで亡くなった。
病室で、同居していた叔父夫婦と従妹が「ばあちゃん!がんばって!死なないで!」と声を掛けている、その傍で、少し離れたところで、父が「よう頑張ったけん、もう頑張らんでもええよ」と呟いていたことを私は知っている。
あれが、初めて聞いた、父の広島弁だった。

小学生の頃、親の仕事で関東に転校し、国語の授業で朗読して、イントネーションが可笑しいと笑われたことに憤慨して、封印したはずの、父の広島弁は、それ以降、聞いたことがない。

二組目は、母方の祖父母。
祖父は、とても無口な人で。そして、とても厳しい人だった。
元気なころは、酪農家として乳牛を育てながら、米農家もしていたので、夏休みや冬休みは手伝いによく行った。
対比するようにニコニコといつも笑顔だった祖母は、てへぺろを駆使して、祖父の周りをちょろちょろと世話を焼いて回る、可愛いおばあちゃんだった。

その祖母に痴ほうが始まり、祖父だけでは生活が立ち行かず、乳牛も田畑も、田舎の農家の大きな家も山も、手放した。
祖父は、長年の酒も煙草もやめ、老人ホームに入居した。
うちの長女を連れて訪問すると、目を細めて優しく声を掛けてくれた。

祖母が亡くなり、後を追うように、祖父も亡くなった。


***
そして、もう一組、私には「おじいちゃん」「おばあちゃん」と慕う祖父母がいた。
父方の祖父母宅にも、母方の祖父母宅にも、1人で泊まったことがないのに、なぜか三組目の祖父母宅には、幼き日から度々1人で泊まっていた。

銀色のピカピカのお風呂に、おじいちゃんと一緒に入った。
塗り絵を「上手だねぇ」と褒めて貰った。
大きな将棋盤で、将棋の駒を使って山崩しをして遊んだ。
一緒に『笑点』や、相撲や、将棋の番組を観て過ごした。
近くの公園に行って、どんぐりを沢山拾ってきて、駒にして遊んだ。
夏には、その公園に行って、セミを捕まえた。おじいちゃんは、素手で捕まえるから、虫取り網が要らなかった。

おばあちゃんは、布団を干す時、洗濯ばさみではなくて、ストッキングで布団を留めていた。私は、それまでストッキングを見たことがなかったから、あれは、そういう用途で売られているものだとずっと思っていた。
一緒に近所のスーパーに、自転車で買い物に行った。
私になめ茸のおいしさを教えたのも、ざるそばのつゆに、うずらの卵を入れるおいしさを教えたのも、おばあちゃんだ。

おじいちゃんは、毎朝、搾りたてのリンゴジュース、おばあちゃんは珈琲を飲んでいた。
毎朝、バタートーストが出てきた。毎朝ご飯食だったの自分の家とは違う、パンの焼ける匂いの朝が、大好きだった。

庭の池で飼っていた錦鯉。
おじいちゃんの盆栽。
庭木の赤い実を食べにくる鳥。

夜眠る前には、童話を読んでくれた。
絵本でも、児童書でもなくて、えんじ色のカバーで装丁され、一冊ずつ箱に入った童話集だった。
おじいちゃんは、律義に私が寝たところの続きから、いつも読んでくれていた。あの栞の形まで覚えているのに、読んで貰った物語は何一つ覚えていない。


***
私は空気を読み過ぎる子だったので、私に三組の祖父母が居ることを不思議に思いながらも、ずっと両親に聞けずにいた。

正解を知ったのは、おじいちゃんの告別式だった。
父方の祖母の妹、つまり大叔母が第三の祖母の正体。
思い返してみれば、父も母も、おじいちゃんとおばあちゃんのことを「叔父さん」「叔母さん」と呼んでいた。

大叔母と大叔父には、一人息子がいたけれど、その息子の選んだお嫁さんが気に入らなくて、大叔父はその結婚を許さなかった。
一人息子は、親の反対を無視して、半ば駆け落ちのように出て行ってしまったのだとか。
その後、一人息子の元に、男の子の孫が産まれたけれど、頑固な親子は仲直りらしい仲直りは出来ないまま、時折連絡を取る程度だったらしい。

そんな折、妻の甥っ子に女の子が産まれた。
女の子が欲しかった大叔父は、その姪孫を溺愛したし、幸いなことに、甥っ子夫妻は近所に住んでいた。

そんな訳とはつゆ知らず、私は大叔父っ子として育っていた。


***
葬儀の喪主は、出て行った一人息子で、反対された結婚を押し切った奥様もいらしていたし、初対面のはとこも泣いていた。

会ったこともない親戚が、私に向かって「お前、可愛がってもらってたのちゃんと覚えてるか?」と聞いてきた。
むしろ聞きたい。
そこの見知らぬオジサンよ。オジサンこそ、私がどんなに可愛がられていたかを知っているのか。私とおじいちゃんが、どんな夏休みを過ごしたのか。オジサン以上に、知ってる自信があるよ。

初めてモノレールに乗せてくれたのも、大叔父だった。
一緒に動物園に行った日、モノレールの中で、肩を寄せ合って笑う、私と大叔父の写真は、今も私の手元にある。

はとこが形見として「あの童話集が欲しい」と言った。
「おじいちゃんが、昔、読んでくれたんだ」と。

私は、おじいちゃんが彼にも読んでいることを当時から知っていた。
形の違う栞が挟まっていたことに、ずっと前から気付いていた。
だけど、彼は、もう一つの栞について、知らないようだった。

そうでしょうね。
私の方が、おじいちゃんと過ごした夜が多いから。
あなたの栞の何冊も先にいるのだから。

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