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ノーウェア・マン

 みなさんの家庭に家系図なんかはあったりするだろうか?あるいは戸籍謄本などから先祖が辿れたりするだろうか?俺にはそういったことができない。別に先祖が外国から移住してきたとか、そういうわけではない。確かにひいばあちゃんは一時期パラオで暮らしていたらしいが。何しろ記録が残っていないのだ。

 大学生の頃出自を尋ねられると、冗談半分で「先祖はずっと奴隷やってたよ」と言っていた。今にして思えばつまらないし笑えない冗談だ。だが今じいちゃんやばあちゃんの顔を思い出すと思う。「どうして俺はもっとあの人たちの話を聞かなかったんだ」と。俺にはもうファミリー・ツリーを辿ることもできない。だから、どれだけ「面倒なしがらみだ」と捨てたくなっても、それを捨てないで欲しい。それは俺が知りたくてももう知ることすらできないものなんだ。

 
父方はここの出身だし記録も色々と残っている。問題は母方の方なのだ。住んでいたという市の役所に問い合わせて謄本などを辿ろうとしても度重なる空襲と地上戦で焼失・散逸してしまい、ほんの2・3代前までしか辿ることができない。だが歴史からある程度の生活ぶりは想像することができる。

 おそらく、父方母方共に俺の先祖は農奴だった。ほぼ奴隷と言っても差し支えはないだろう。俺の先祖たちが暮らしていた土地は薩摩藩に征服された後、1690年頃からサトウキビを、より正確に言えばサトウキビばかりを生産させられていた。当時砂糖は薩摩藩の専売であり、これにより薩摩藩は富を築いた。廃藩置県は1871年。軽く200年ほどはサトウキビ農奴だったというわけだ。

 小学校の歴史で習ったことを思い出す。島民はサトウキビ以外の作物がほとんど作れないため常に餓えていた。砂糖を持ち出したり使ったり舐めたりした者には拷問が待っていた。こうした耳を疑いたくなるような時代を生き延びてきたのが我が先祖だ。

 そして例の戦争だ。家という家は焼かれ、ガマ(洞窟)に兵隊と共に逃げた女子供や老人は火炎放射器でガマごと焼かれたり手榴弾による集団自決を余儀なくされた。これは誇張ではない。実際に俺の母方のふるさとで起こったことだ。
 敗戦後はみんな簡素なトタン屋根と木組みのバラックと呼ばれる掘っ立て小屋のような家に住み、女の人は進駐軍に体を売ったりホステスをしたりしてその日の食い扶持をどうにか稼いだ。男はおそらく復興の工事に駆り出されたのだろう。

 沖縄には軍事的・戦略的な価値があり、多額の資金が投入されどうにか復興したが、俺が今住んでいる島には大した戦略的価値もなく、ほとんど資金も投入されなかった。飢えであえいでいた島民が、今度は金銭的貧困にあえぐようになっただけだ。ここには大島紬という特産品があり、それなりに売れたのだが、1970年代に韓国が模造品を売るようになり、売上額は大幅に下がった。ちゃんとした産品だと示すために独自にデザインしたタグが付けられるようになったが、それは韓国産の模造品が出回ってからずいぶん後のことで、最盛期から今に至るまで毎年減産は続いている。

 別に「俺たちは虐げられた被害者だ」と主張しようとは思っていない。主張したところで紬やここの特産品が売れるわけじゃない。そんなことを言い始めたら、この島のほとんどの住人が戦争被害者になってしまう。だがこれは史実だ。俺たちの先祖や俺たちは、どうしたわけだかいつも時代のあおりを、しかもマイナス面ばかりを受けている。

 沖縄には琉球音階というものがあり、ほとんどの伝統民謡は長調だ。だがここの伝統民謡はどれも短調の悲しい調べなのだ。
 それでも生きていようと思う。俺たちはみんなサバイバーだ。何があろうとも俺の人生の邪魔はさせない。

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