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むかしむかしあるところに

 昔々あるところに、自身の不調や身内の不幸も重なりすっかりバランスを崩してしまい、昼夜を問わず酒を飲み続け、最終的には栄養失調で入院までした愚かな大学生がおりました。
 2年次ですでに彼の留年は決定しており、彼はどう単位を履修し回復していくかと考えていました。この頃から不眠症が始まり、眠るために酒を飲むようになりました。
 そして前期試験の2週間前、母親から電話がありました。「親父が危篤だ」と。「どうすればいい?」と聞くと「分からない」と返ってきました。20年弱を共にして母がそんなことを口にするのは初めてでした。
 彼はどうにかチケットを取り実家へ帰省しました。2年ぶりです。
 そこで見たのは癌の手術後の感染症で人工呼吸器を着けて横たわっている父親の姿でした。
 彼が対面した時親父は母に向かって「起こせ」と言っていました。もう自力では起き上がれないのです。そしてそれが最後の言葉でした。
 毎日のように病室は変わり、常にナースステーションの近くに配置され、人工呼吸器は稼働し続け、心電図モニターも作動し続けました。
 いつの間にか父親の意識はなくなり、自力でまぶたを閉じられないのでまぶたにテーピングをして眼球を保護していました。
 そして来るべき時が来て、俺が自宅に帰り仮眠をしている間に親父は死にました。享年は54だったそうです。
 葬式までが済むまでに「俺は大学なんて行ってる場合じゃないんじゃないのか、働いて妹たちに金を送るべきなんじゃないのか」と思い始め、言うなよと忠告した上で今そういう風に考えているとタクシーの中で妹に打ち明けました。
 妹は当然のように母にそれを伝え、「お前は大学に行け」と言われました。前期試験には間に合いましたが、当然全く勉強はできていません、結果は再びの留年を示す惨憺たるものでした。
 そうした複合的なものがあり、彼はウイスキーを親友にすることになります。朝起きて2.8Lのペットボトルウイスキーをラッパ飲みしてからペットボトルを持って大学に向かい、講義の空き時間も飲み、一緒にうちに帰ってからまた飲んで眠るのです。
 こんな状態の人間がまともに聴講できるはずはないし、事実できなかったし栄養失調にもなったので休学もしました。
 実家で静養している時にはストレスと過食で体重が90kgを越えました。この頃には母親はかつてとは逆に退学させようと説得しましたが、彼の望みは復学と卒業でした。
 こうして就職氷河期の最も厳しい中で彼は必死で単位を取って卒業しました。彼にはそこが全てのゴール地点に見えたほどです。
 しかし現実は続いていきます。彼が就職活動を一切しなかったのは、「こんな浪人・留年・休学フルコースで資格も取ってない新卒なんて自分が人事なら書類で弾く」という考えによるものでした。
 事実そもそもの求人も少なく、周囲に50社受けて内定はまだないという人もたくさんいました。

 2020年、当時考えもつかなかったような形で彼はまだ生き延びています。
 それがいいことなのか悪いことなのかすら彼には分からなくなりつつあります。
 でも彼はまだ日本の片隅で生きているのです。夢も野望なく、日々呼吸するのがやっとでも、彼はまだ生きているのです。

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