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粘膜ワクチン

今回は、前回の記事で少し触れた粘膜ワクチンについて概念的な部分を記していく。そもそも粘膜とは何かという話もあるのだが、人体について場所で言えば口腔粘膜、胃粘膜、腸管粘膜、嗅上皮、子宮内膜など「体内(体腔や中空性臓器の内腔表面)で外部と接する場所」に多い。外部と接するという事で、当然ながら免疫反応が活発な部位でもあり、粘膜組織には付随する免疫組織として腸管関連リンパ組織(GALT)、鼻咽頭関連リンパ組織(NALT)、気管支関連リンパ組織(BALT)などが存在する。物理的にも粘膜とそれに付随するリンパ組織は人体最大の免疫器官であり、気道、消化管や生殖器から侵入する病原体に対する宿主防御において重要な役割を担っている。特に、本質的な「感染防御」という意味において言えば、体内に侵入する最初の部位である粘膜組織での免疫系が十全に機能する事は必須である。したがって、粘膜免疫反応と全身性免疫の両方を効果的に誘導し、感染症に対する二重の防御を可能にするワクチンが、多くの感染症に対する有効策として注目されてきた。

核酸ワクチンを含め、従来の注射によるワクチンでは血中IgG抗体価で代表される全身系での免疫は誘導できるが、分泌型IgAに代表される粘膜面での免疫は効果的に誘導できない。EBioMedicine. 2022 Jan;75:103788. あたりの報告がファイザーのワクチンで粘膜IgAがほとんど誘導されない事を示している。血中IgGや血中IgAとの相関も無いからその手の解析も無意味だと分かる。つまり、現状の核酸ワクチンが「感染防御に有効」というデータがあるとすれば、それは「感染そのものを防いだ」と言うよりは、「症状が出ない」または「ウイルスRNAが早期に検出されなくなる」という効果によって顕出した現象だと考えられる。

これに対して、腸管や鼻咽頭などの粘膜面をターゲットとして経口あるいは経鼻的な経粘膜に投与されたワクチン=「粘膜ワクチン」では粘膜面での感染侵入防止と全身系免疫での防御の両方が誘導できると考えられている。機会があれば次回以降の記事で触れたいと思うが、嗅神経などを介して中枢神経系感染を引き起こす、その後に無症状で潜伏する事で長期的な悪影響をおよぼすなどの脅威に対しては、この「感染侵入防止」と言うのが非常に重要な意義を持つと言える。

歴史的にはコレラや腸チフス、インフルエンザなどいくつかの病原体に対する粘膜ワクチンが開発されてきた。しかしながら、感染予防効果が十分に発揮されているとは言えず、コストが見合っていないとして大々的に使用されているというものではない。ポリオでは経口生ワクチンが使用されていたが、生きたウイルスを経口で接種するのは本来の感染経路と同一であり、稀にポリオに感染した際と同様の症状が出てしまった。

この予防効果と副作用のバランスは、そのまま免疫反応と寛容のバランスの難しさに繋がっている。粘膜組織は本来「免疫反応」と同時に「免疫寛容」を司る組織でもあるからだ。例えば経口で接種した「食べ物」という異物に対して全て免疫反応を起こしていたらとてもではないが生きていけない。その様な状態は「食物アレルギー」という疾患になるが、対象の食べ物が一種類でもあれば非常につらい思いをする事になる。そのため、粘膜免疫を介して「免疫を活性化させる」という粘膜ワクチンの考え方においては、「バランスの制御」という免疫学最大の課題に対して完全な回答を示さなければならないのだ。

実際問題として、粘膜ワクチン開発において最初の課題は「免疫反応が期待されたほど誘導されない」という効果の低さである。それを補う為に、様々な研究がされてきた。一つの解決策はアジュバントである。例えばコレラ毒素など強力なアジュバントを使用する事で、粘膜免疫を効果的に誘導する事が可能になるのは古くから知られていた。一方で、その様な強過ぎるアジュバントや毒素をワクチンに気楽に使えるかと言うと、そうではない。生ワクチンなどを使った例も同じである。「ワクチンに求められる安全性」と
「粘膜免疫を活性化するだけの強さ」というバランスの問題に終始してしまうのが現状である。

もう一つ、経口ワクチンに関しては「消化」による分解と言う課題もある。どの部位で効果を期待するかと言うポイントはあるが、腸管粘膜まで抗原(多くの場合はタンパク質=胃酸で分解される)を送達させる為には、胃酸で分解されないなどの工夫が必要となる。この点も、有効性を高めるための課題として研究されてきた分野である。その点に関して言えば、経鼻ワクチンは、NALTにより効率の良い抗原処理が行われると同時に、酵素による分解が少なく少量の抗原で効果が得られるなどの利点を有している。但し、経口免疫と経鼻免疫では活性化される粘膜免疫の種類や部位が異なるという話はあるため、病原体ごとの効果や生理的な反応を含めて研究を重ね、安全性などを確認する必要があるという段階である。


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