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Sタンパク質の変異について

今日は引き続き新型コロナウイルスのSタンパク質の変異について少し詳しく見ていきたい。とは言え、全てをつらつらと書いていくとそれこそ大変なことになってしまうので、色々と他の記事も参照しながら書いていこうと思う。

さて、このウイルスが世に出てから色々な変異株が発生しており、その変異の蓄積も多くなっている。下記はアメリカ微生物学会の総説だが、初期オミクロン株までの変異が分かりやすくまとめられている。

図は横棒がSタンパク質のアミノ酸配列のイメージであり、アルファ株からベータ、ガンマ、デルタ、オミクロンとSタンパク質のどの位置にどのような変異が生まれてきたのかを示している。N501Yの様な記号の意味は前回の記事で記した通りであり、その位置のアミノ酸が別のアミノ酸に置き換わっているという事を意味する。数字は位置を示すという事で、左から右に行くほど数字が大きくなっている訳だ。また、上の方に青くReceptor Binding Domainと表示された領域がある。これはSタンパク質の中で、ACE2という感染受容体に結合する領域を示している。この辺りについては以前他の記事で触れたと思うが、このRBDに着目する事はSタンパク質の性質を考える上で重要な点の一つである。

という訳で、まずはRBDに生じた変異について、個別に見ていこう。最初はK417(417番目のリジン)である。このアミノ酸はRBDの一部であると同時に、中和抗体の結合部位でもある。しかし、ベータ株以降では、これがNやTに置き換わった変異(K417NやK417T)が存在し、中和抗体の結合を弱めている可能性がある。

RBDに存在する同じ様なアミノ酸変異がE484KやE484Qである。E484も中和抗体の結合に重要なアミノ酸であり、これらの変異はワクチンの効果を減弱させる可能性がきわめて高いとされている。

RBDの変異で初期から最も話題になっていたのはN501の変異だろう。N501Yを持つSタンパク質はACE2への結合力が増強していると考えられている。それがアルファ株以降の感染力増大につながっていると考えられ、実際にこの変異は多くの変異株に残存している。

個人的に注目している変異はL452における変異である。デルタ株のL452Rが話題になった他、南アフリカで流行したラムダ株や前回の記事で記したオミクロン株の亜種でもL452Qという変異が発生している。この変異もACE2に対する結合力増強や抗体結合回避が報告されているが、それ以上に気になるのは「細胞性免疫」も回避する可能性が示唆されている点である。CD8T細胞による細胞性免疫がウイルス感染に対して重要である事は既に述べた通りだが、L452R変異については、細胞性免疫の活性化に必要な抗原提示に関して、HLAのある型による認識を回避する事が報告されている(Cell Host Microbe.2021 Jul 14;29(7):1124)。簡単に言えば、HLA-A*24:02というMHCクラスI分子のタイプに提示され、CD8T細胞のTCRを活性化するペプチド断片にその部位が含まれており、この変異を有するウイルスはその抗原認識から逃れる事になるのだ。細胞性免疫の重要性、様々なタイプのワクチン開発とHLA多様性の問題点などは以前から説明している通りだが、ここにウイルスの性質や変異という問題が加わる。新型コロナウイルスの危険性を考えたり、ワクチンを開発したりする上で必要な知識や思考が非常に複雑なものである事は理解頂けるだろうか。

ざっくりとではあるが、RBDにおける変異の例を簡単に説明した。もちろんRBD以外の部位にも多くの変異があり、それぞれが何らかの意味を持つ場合が多い。RBDに存在していないが、立体構造を変化させて結果的に受容体への結合能を上げる変異(D614Gなど)や、感染時に重要なプロテアーゼによるSタンパク質切断というイベントに関与するP681の変異(P681RやP681H)なども重要な意義を持つと思われる。話題の変異株がどの様な部位のどの様な変異を持っているのか、という視点でウイルスを見る事が出来れば、名前や記号に惑わされず、正確な科学的判断に近付けるのではないだろうか。

ちなみに、言うまでもない事だが、ウイルスが変異を続けるのは当然である。その速度や方向性などウイルスの性質や周囲の状況に応じた個別の問題はあるとしても、変異と言う現象そのものについて論じる必要は無いのである。大事な事はどの様な変異がどの様な意義を持つのか、それに対してどう考え、どう行動するのか、という事である。今のウイルスやその変異についても、「逆に」どうなれば安心と言えるのか、どの様な変異が生まれれば解決への道のりが見えるのか、という見方をする事は変異やSタンパク質の分子生物学的性質に興味を持つきっかけにならないだろうか。

余談だが、私が新型コロナウイルスに対して最大の脅威だと考えているのは「神経系への感染」である。これはその内他で記事にしようと思っているが、この問題さえ解決すれば今のパンデミックは終了だと思っている(オプティミストの皆さんには申し訳ないが、逆に言えばこの点が解決しない限り呼吸器症状がどんなに軽くても問題は無くならない)。

またいずれ詳細はまとめたいが、Sタンパク質のアミノ酸配列から見れば、この神経系感染に関して関係があると考えられるのは、上の図で言えば「フーリン切断部位(Furin Cleavage Site)」と記された部位とその周辺の領域である。これは先述したプロテアーゼによる切断の話と同じであるが、この部位でSタンパク質が切断され、その断片の配列が神経系に多く発現する受容体と結合することが問題なのだ。そして、そこまで理解していれば、この問題が消失する様な変異が発生してくれれば安心になるという事も考察できる(もっともこの位置に変異が入るとほとんどの場合”人に感染しなくなる”という性質を獲得してしまうだろうから、安全な株に置き換わるという都合の良い変異は極めて限定的という事も分かってしまうのだが)。いずれにせよ、あらゆる戦いはまず敵を知り尽くす事が肝要という訳だ。

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