具体的なことが一つできれば今日は成功だ
その昔、まだ10代の頃に1年間京都に住んでたことがある。
その頃は浪人生で「京大を目指す」ということで京都に来させてもらったんだけど、長い寮生活からの卒業の後ということもあり、まったく勉強しなかった。
すみません、お父さん、お母さん。なわけだけど、そこで得たものは大きく、その後の人生にも影響を及ぼした。
どのくらいでかかったかというと。
大人になって結婚し、家族を持ち、一般的に言えばもう日々の生活にあらゆるものを持っていかれる40代手前で京都に移住したくらい憧憬や、希望のようなものがこの街にはあった。
10代の頃にこの街で持っていた感情というものを解析すると、でかい情熱みたいなものが心の中にあり、その情熱のぶつけ場所、対象、具体的なものを心の底から焦がれんばかりに欲していた。
そしてその対象がないだけに空回る熱量と空虚感は非常にヘンテコな場所に自分を連れ去ることになった。
こうやって京都に来て10年近く経とうとしている。
家族を養わなければいけないし、幸い養えているんだけど日々の中での苦しさやもどかしさはあの頃と形を変えて、若干薄味になり、具体的な形をもって襲ってくる。
それでもだ。
圧倒的に日々熱狂の中で生きたいと思いつつも、情熱のかけらのようなものを静かに淡々と注ぐものがあれば、それは十代にたどり着きたかった場所に到達していることと同義なのだ、とふと気がついた。
要するに具体的に何かをやっていくこと。
それが虹のたもとを目指してこの街を出発した旅路の行く先だったのだ。
無理はする必要はない。
出来ることしかできない。
出来ることをただやるしかない。
ということで、仕事をし、こうやって文章を書いたり、写真を撮ったり、走ったり、何かを創ったりしている。
淡々と。
ただ一歩ずつ急がずにいければいいなと思う。
少し暖かくなりつつあるこの街の夜の先にある夏の匂いが好きだ。
祇園祭が始まる直前の何かが起こりそうな小さいけれど、そこに確かにある熱狂の種が好きだ。
あの頃と違うのは生活があり、日々のしがらみやどうしようもない妬みや、後悔や、苦しみが醜くこの胸にあることだ。
でも、まだそうやってこの街のどこかで夏の匂いを嗅げるのならば、まだ死んでいないものがあると信じよう。
具体的な一歩を今日も踏み出そうと思う。
それは小さく、かっこ悪く、21世紀の初頭にもてはやされる生産性とは程遠いけれど転がっていくのだ。
転がしていくのだ。
何を?
時の流れを微分した中に宿る永遠の熱狂を。
誰かがそれを意志と呼ぶやつを。
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