ブンゲイファイトクラブ決勝感想

最後に、追記という名の補足とこのイベントの感想を書き加えました。

「【ほぼ百字小説】(1783)」北野 勇作

 唖然……。こう来たか。ただでさえ字数制限のきつい掌編対決で、これだけの字数を残して終えるとは。独特の間をとるスリムクラブがM-1グランプリで、「時間もったいなないんか」とツッコまれていたのを彷彿とさせる。
 もちろん作者はこの作品そのものに勝負する力があると信じて出したのだろうし、わたしも同意する。しかしそれと同時に、ジャッジはもちろんこれまで1回戦からの戦いを見てきた読者たちも、ほぼ百字小説の活動家(?)としての作者を知っているわけで、1回戦からの作品も読んでいることを前提とした挑戦だろう。果たしてそういった背景をこの1回の対戦に持ち込んで良いものだろうか。もちろん作者は「おれプロだしー」とか「これまで書いてきたものも踏まえてジャッジしてねー」とかそんなことを一言も述べていない。全部私の邪推である。と思うと「(1783)」という数字が憎い。何も言わない振りをして、さらりと1782の作品群を背後に忍ばせている。「象以外の動物を思い浮かべて」と言われたら必ず象の画像が頭をよぎるという心理テクニックにはめられたかのような感覚だ。
 とはいえ考えてみれば世の中のほとんどの人は小説を買う時作者名を見るわけだし、この対戦でも題名と作者が書かれている。文豪の作品がすべて名作かというとそんなことはないし、絶版になって失われた名もなき作家の名作もたくさんあるだろう。ということは作者名から連想するものも作品の力と評するべきではなかろうか、とも思う。

 さて作品の感想はと言うと、書かずに伝える技の極致ではなかろうかと思った。中学校帰りとあるので時はおそらく夕刻。スーパーへは夕食の買いものに行ったのだろうか。思春期の娘は声かけを無視をするが、それを受け入れてもいる親。背中に声をかけて「追い抜いた」のではなく「追い抜こうとすると」なので、娘が振り返ったのだろう。それは明るい笑顔なのか、それとも思春期の不機嫌を湛えた無表情なのか。そのくせ「いっしょに帰ろう」と言葉は優しい。自我が成長して、すっかり親から離れてしまったかと思っていた娘の中に、まだ残る子供らしさを発見した喜びが垣間見える。「お言葉に甘えて」という表現に、子供でもない大人でもない成長途上の我が娘を見守る親の温かさを感じた。

 1783という数字に何か意味があるのかと思ってつい検索してしまった。1783年は天明の大飢饉の原因となる浅間山の噴火があった年。だからどうって訳でもないんだが、この爆弾作品が文学に飢饉ではなく豊穣をもたらしてくれることを祈る。


「竜宮」蜂本 みさ

 冒頭の一段落目からぐっと引き込まれた。「言ってやりたい言葉も言わせたい言葉も忘れてしまい」「少し会わない間にやせたみたい」この短い文で二人の微妙な関係が窺える。
 短い話だが、いったん終わったかの様に書いてまだ続くという体裁が二ヵ所ある。これが物語にほどよい軽さと飽きないテンポを与える。
 町田康さんがトークイベントで「方言で書くには必然性がなければならない」とおっしゃっていた。つまり他の方言や標準語では表現できないものでなければ意味がない、何となく関西弁で書いて面白味を出そうとしてはいけないと。
 はたしてこの作品はどうか。
 約束の時間に遅れ、借りた金も返さず、別れ話にも深刻に向き合おうとはしない宇野さんの、すっ惚けた感じやいい加減振りを醸し出すには、この言葉でこそ、という感触を得た。それに加え、「そうなんよ」「そうなんや」これは標準語でいえばどちらも「そうなんだ」だろうか。一文字違いの言葉を続けることで、会話をリズミカルに進めている。ここでも関西弁が活きている。

 さて、物語はと言えばいい加減な男を別れ話に呼び出したはいいが、男の惚けたペースと顔につい甘くなって、ずるずると付き合ってしまうという話。
 だがその間を幻覚を見せる亀が仲介する。亀自身は勝手に埋まり勝手に掘り出され、勝手に歩いているだけで抵抗も逃亡も語りかけてきもしない。しかしその甲羅を掴んだ人は竜宮とおぼしき幻を体験する。しかもその光景はどうやら人によって違うらしい。
 これは何を意味するのだろうか。私には人は同じ状況にいても、めいめい勝手な解釈をするものだということを象徴しているように感じられた。
 そして二人は亀と一緒に暮らすようになる。もともと同居していたのか、新たに暮らし始めたのかと考えたが、しばらく会っていなかったことや話をするのに喫茶店らしき店で待ち合わせることからは、亀以前は別々に暮らしていたのだろう。だとすると別れるつもりが亀によってむしろ以前より緊密な仲になったということか。
 この話、宇野さんがいい加減な男に見えるが、わたしもなかなかどうして「動揺すると関西弁がうつる」ほどに流されやすく適当に生きている。互いがそれぞれに勝手な幻想を抱きながら干渉しない距離感が心地よいからこそ、「ひとりの時よりひとりになる気がする」ことに慰められたのだろう。
 そして最後の「(亀に)名前をつけるか、亀で通すか」。名前をつけると亀は家族の一員となる、すなわちわたしと宇野さんの結婚(もしくはそれに類するもの)を意味する。その答えは、「決着がつきそうにない」で締め括られるのが、最後まで物事をはっきりさせない二人らしくて良い。
 楽しく心暖まるテンポの良い作品だった。

 重箱の隅をつつくようだが一つだけ気になったのは、イシガメのキールは成長すると消えると読んだことがあるのだが、この作品ではしっかり残っている。しかも亀は大きい。巨大な幼体なのかキールの残った成体なのか。もちろんそんなことはこの作品の価値を損なうものではないので良いのだが。

p.s. twetterで蜂本さんが亀に囲まれて育ったというのを知った。ということは耳学問の私より亀のことは詳しいのだろう。成長するとキールは消えるという私の知識が間違っていたのかも知れない。


 この対戦は既にどちらかを選ぶという次元を超えている気がする。
 北野さんの作品はBFCというイベントを見事に締めくくる問題提起を感じたし、蜂本さんの作品にはこれぞ小説という王道を見せられたように感じた。

完全に直感で決めると……、蜂本みささんに一票。


追記

 直感でと書いておいて、今更だが訂正したい。直感ではなく理由はあったのだ。私が蜂本さんを選んだのは私が多分に保守的な考えの持ち主であるのと、北野さんの戦略をあざとく感じたことによる。
 感想に述べたように両者の作品の価値に一切の疑いはない。ただ簡単に言えば、北野さんの作品では「もっと読みたかった」との思いが拭い去れなかった。もちろんそう思わせるのも含めて作品の力なのだろうが。もっと書いていいのに書かずに焦らされるのが、作品を通して作者に支配されているようで、無条件に身を委ねる気にならなかったとでもいうべきだろうか。

 私は手品を見たら種を探し、本を見たら誤植が目につき、物語を読んだら分析したくなる人間である。そのことは一連の感想を読んでくれた人には既に知られているのかも知れない。この性は一人で生きていくならとても楽しい癖なのだが、誰かと関わりを持つにはしばしば不自由で嫌いなところでもある。だからこそ自分の書けない前衛的な作品に憧れもするし嫌悪も抱く。このBFCというイベントが自分には不似合いな場であることは分かっていたが、だからこそ目を背けられなかった所以である。

 北野さんの作品を見た瞬間、これはジャッジを狙い撃ちしてきたのだと思った。樋口さんならこの挑戦的な戦略を高く評価するだろうと。その次に思ったのはそれがファイトクラブというイベントでは正しい態度なのだろうということ。自分の使える武器を使わないことの方が、むしろ戦いに対する侮辱なのかも知れないとさえも。
 しかしだからこそ、愚直に(蜂本さんすみません)その一作品のみの力で戦おうとしている蜂本さんの作品に惹かれる気持ちも膨らんだ。徒手空拳で戦いに臨んだら相手は銃を構えていた。その光景を見たとき、私はどうしても武器を持たない者に肩入れしてしまう。

 ではなぜ私は「直感で」などと誤魔化すような書き方をしたのか。これまで私は前述の性のために多くの人を傷つけてきたし、自分も傷ついてきた。もうひとが傷つくのは嫌なので、他者に言及するときは極力慎重でいようとしている。その配慮が歪んだ形で現れたのが、今回の感想だったのだろう。

 最後に、この企画に様々な形で関係した人たちと、こんなにも多くの人を魅了する文芸という無形の存在に感謝している。勝手な感想だがBFCというこのイベントに予選敗退者かつ観客として参加して、これまでにない経験ができたし自分を見つめる機会にもなった。次回があるとしても参加するかどうか分からないが、今回の経験は生涯忘れないものになるだろう。


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