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少し嫌いな夏休み

セミの鳴き声はあまり聞かなくはなったがまだまだ残暑が続く今日この頃、僕の夏休みもまた、終わりを迎えようとしている。普通ならば残念がるのが適切なリアクションなのだろうが僕は正直に言うと有り難いとすら思っている。

というのも、夏休みというものは無趣味な僕に対して、非情な現実をこれでもかと突き付けてくるからだ。特にやることもなく、起きてはスマホを手に取り食事をするまで永遠とそれを操作するだけの生活、これこそ僕という人間の本質なのではないか、とさえ思ってしまう。本当に一日中ダラダラと過ごしてしまっている。極め付けには、極度の面倒くさがりなせいで課題も手に付かずに時間を浪費していくのである。実に無益だ。

無趣味な人間が夏休みのような長い長い自由時間を与えられるとどうするのだろうか、そして僕は、その答えを知ったような気がする。

勿論、この理由自体が自分が満たされている証拠なのかもしれないが(無趣味=やりたいことはなくても現状に満足出来るくらいには充実した生活を送れているとも言えるからである)、それでも僕としてはかなり精神的に"来る"悩みなのである。なぜなら、高校の他の友人は遍く賢く、社会人として立派に活躍する未来が容易に想像できるのだが、夏休みのような自分磨きを好きにできる時間を与えられても全く研鑽しない自分なんてどうしても、、、と思ってしまうからだ。だから夏休みは自分に嫌気もさすわ、失望するわで本当に気が滅入るのだ。


しかし、高校が再開すれば話は別である。僕にもそれなりに忙しい時間がやってくる。そういう時は無心で打ち込み、こういう後ろめたい思考回路を払拭することができるのだがどうしても夏休みのようなときには何うすることもできないのだ。本当に呆れる。結局自分では何もできず、他人にやれ、「これを提出しなさい」だの、「あれをしておきなさい」だの言われて強制させられないといけないと、嫌という程再認識させられる。

普段ニュースを見たり、日常生活を送ってきて、散々大人を馬鹿にするような考えが頭を過ることのある僕だが、そんな辱めの対象であるはずの大人(自分の中では。というか子供ならば誰もがそう思うものだと僕は信じているが)でさえも自立して自分で自分のやるべきことを認識してそれに従い行動出来るのだから、余程自分の方が馬鹿にされるべきである。

やはり偽物は偽物という訳だ。クオリティの高が知れているのだ。

これからの自分忘れの学校生活が、

非常に楽しみであるばかりだ。




代入、互換。



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