歓喜

小さい頃からよく姿勢の悪さを指摘される。

親しい知人に自分の第一印象を尋ねると、2人に1人くらいは「姿勢の悪い奴だと思った」と返ってくるくらいには悪い。

自覚症状もある。

酒や鎮痛剤を飲んでいる時以外の時間の大半は肩と背中の痛みに悩まされているし、写真映りが悪いので自分が写っているものは大体捨てている。

家族揃って箸の持ち方もままならないような家で育ったので、育ちの悪いせいだと言ったらそこまでなのだが、そのせいで生活の節々に出てくる支障にも、もはや見て見ぬふりをできなくなってきた。

社会人生活が始まってからというものの、背中の痛みは酷くなるばかりだ。γ-gtpのハイスコアを塗り替えないためにももうアルコールや鎮痛剤に依存して誤魔化し続けることもできない。

数日前のことだが、会社でデスクワークをしていると背中の痛みが度を越して吐き気やら冷や汗となり、辛抱たまらなくなってトイレに駆け込んだら鏡に真っ白な顔が映っていた。


流石にこのままでは立ち行かなくなってしまうので、友人に協力を頼んで姿勢矯正の特訓をすることになった。

まずは歩き方だ。元の歩く姿はガニ股に曲がった背中と突き出た頭、あまり客観視したくはないが、ちょうど郊外のパチンコ屋から出てくる上下グレーのジャージのおっさんの感じだ。

姿勢だけではなくて足の動きもおかしいらしい。

去年くらいに機会があって型紙からオーダーメイドの靴を作る職人と話した時のことを思い出した。

彼の新作のスニーカーを試着させて貰うことになり、元々履いていた靴を預かってもらうと、彼は僕のコンバースの靴底を見て

「こんな擦り減り方の靴は見たことない。どんな歩き方してるんだキミは。」

と言うではないか。

彼女といた手前、「ボロボロのコンバース履いてるのがパンクなんすよ」とか言って誤魔化したが、内面非常に恥ずかしい思いをしたのを覚えている。

じじつ、俺がコンバースを履くと外側の布がボロくなる前に靴底が先にダメになってしまってイマイチ格好が付いていないのだ。


歩く時に足を正しく動かすには、腰の回転が重要らしい。腹筋に力を入れて、ただ足を動かすのではなく腰のひねりのエネルギーを足先まで伝えるイメージだ。

腰を左右に捻ると、それに呼応する形で右足と左足が交互に前に出ていく。小学校の頃友達の家に吊るしてあったモビールに動きが似ているな、と思った。

足の動きを覚えたら次は胸を張る。
そして、上から一本の糸で釣られているようなイメージで背筋を伸ばす。

すると、視点がすっと高くなって急に視野が広くなる。愉快で思わず笑ってしまった。 

世界が急にFPSゲームになった気がする。前に進むと視界にモーションがかかって揺れる。遠くの誰かにキーボードのWキーを押されているみたいな感覚だ。またしても笑いがこみ上げる。

しかし、この視点だと自分の足元が見えないのが不安だ。視界が間違いなく前に進んではいるのだが、どうやって進んでいるのかが分からない。自分の体の見えない状態で歩いていると、それが元々どうなっていたのかどんどん思い出せなくなり、想像の中の自分の姿がぐにゃぐにゃと移り変わっていく。

4本足になったりキャタピラが付いていたり、ジオングのように宙に浮いていたり、、

視界だけがゆらゆらと動いている中でそんな妄想をしていると、目の前の道が果てしなく先へ続いているように見えてくる。


諦めて視界を下すと、いつも通りの足元が見えて胸を撫で下ろす。宙に飛びかかった風船の紐をギリギリのところで掴んだような感じだ。

友人と別れてからもしばらくひとりで姿勢正しく歩いてみては下を向いて、という一連の流れを繰り返してはひとり笑っていた。気付くと、滑り台を滑ってはまた登る子供のような高揚感を覚えていた。


思うに、最初に立ち上がった猿は大層愉快だっただろう。この眺望を世界で初めて独り占めにした猿の恍惚を思うと、悔しくなってくる。猿のおもちゃがあんなに目をかっぴらいてシンバルを叩いているのも納得である。

人間が猿のたぐいを見た時に覚える親近感というのは、われわれの遺伝子の深くに刻まれた歓喜の記憶のせいなのだろう。

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