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汝自身を知れ

先日、岩手の山奥から友達が遊びにきた。マイケル・モンローと同じ髪型で豹柄のジャケットを羽織っていたので、渋谷の人混みでもすぐに見分けがつく。

ちょうどこんな髪型だ。彼の肩にはハノイ・ロックスのロゴが彫られていた。

岩手の山奥の家の周りにには人間よりも熊のご近所さんが増えているとか、Back To The Future 1でマーティンがJohnny B Goodeを弾いてた時のギターは実は設定の年代には存在していないとか、ニーチェの話をしたりした。

ふだんは腕時計で覆われている彼の手首には、Ali Expressで買ったタトゥーマシンの悪戯彫りで、"ΓΝΩΘΙ ΣΑΥΤΟΝ"(汝自身を知れ)と彫られている。これはデルフォイのアポロン神殿の入り口に刻まれている古代ギリシア語の格言で、プラトンの対話篇「プロタゴラス」では、ソクラテスがこの碑文について語っている。

己自身について知りたいという心性は割と万人に共通しているようで、古くはソクラテスやフロイト、少し前では自分探しのインド旅行、最近では骨格診断やらパーソナルカラーやらMBTI診断(ユングを更にくだらなくした感じのやつ)まで、時代や場所を超えて見出される。

無論、特定の類型に自分を当てはめるようなこの手の診断は自身を知るというところから最も遠くにあるのだが。性格診断みたいなものはむしろ、自らについてそれ以上知らなくて済むところにその利点がある。ニクラス・ルーマン風に小難しく言い換えれば、"社会的な複雑性の縮減メカニズム"といったところだ。

多くの人間にとって必要なのは己自身を知ろうとして出力されるフィードバックであり、知ろうとするために必要な個別的で煩雑な行為そのものは外在化されている方が都合が良い。

更に言えば、自身を知るという行為の複雑性や負荷ゆえに、それは就活の「自己分析」のような社会の都合によって負わされるべきものでもない。そこで析出されるのは私の労働力という商品の性質であって、決して私の本質と重なるものではない。にも拘らず、「自己分析」という言葉によって、外的で部分的な評価でしかないものがその人の内面の価値評価へとすり替えられてしまう。

何故こんなに文句を垂れているかというと、4月に就職する会社から健康診断を受けてこいとのお達しがあったのである。

おれは現に健康にここに立っているんだからそれで良いじゃないかと言いたいところだ。己自身を知るという営為の中で、己の真の健康状態というのは、かなり知りたくない部類に含まれるのではないだろうか。注射とか嫌だし。

血液検査のために採血をしたり、X線やらを撮ったりしていると、なんだか認めたくない心の動きを公衆の面前で指摘されるような気まずさがある。

結果を受け取りに病院を再度訪れると、受付の看護師がそっと結果の入った封筒を手渡してくれた。特に何も言われずに帰されたので安堵して安堵して封筒を開けてみると、

、、ファック。

まあ、元々酒飲んでも顔色変わらない体質なのにここ一年くらいはすぐ顔が火照るようになったりと見て見ぬふりをしてきた兆しはあったのだが、いざ「あなたは病気です」と一筆添えられて告げられると、どんどんあたりの酸素が薄くなっていく感じがする。

この文章を書きながら知ったのだが、ソクラテスが神託を受けたデルフォイのアポロン神殿には、"汝自身を知れ"の他にもいくつかの碑文が刻まれているらしい。

こういったものだ。

"μηδὲν ἄγαν"(nothing in excess)

過剰の果てに空無あり。


しばらく節制します。

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