「おかげさまで」

高校生たちとてつがくカフェ。彼らの卒業式の前日に行ったので、これがメンバーが「高校生」として行うのは最後と言える(厳密には3月31日まで高校生だけど)。

1年間通して、思考を深めること、相手の声を聴くこと、自分の言葉として出すこと、振り返ること、考えを重ねていくことが実践的に積みあがっていったと肌で感じる。

私が遅刻をしたのもあり(ごめんなさい)、40分ほどの時間であったが、「思索の深さに時間は関係ない」ということをはっきりと体現してくれた。あっという間であったが、それぞれの考えが他人のものと重なり合いながら1段も2段も確かなものになっていった。

今回のテーマは、卒業のはなむけの意味も込めて「大人ってなんだ?」に設定した。

◇大人の特徴とは?
高校生たちの思う「大人」とは、以下のようなイメージであった。
・お金を稼ぐことができる
・そもそも「大人」というのがあるのか?成人などで区切られているが、定義はなんだろうか?
・よくわからない。「年長者」ならイメージができる
・「人の話をちゃんと聞ける人」ではないだろうか?

「大人」と「子供」のはざまにいる(であろう)モラトリアム期の彼らならではの視点だと感じる。これは、小学生でも中学生でも大学生でもない高校生の彼らから見た「大人」像であろう。

ちなみに、私の思う「大人」の特徴は以下の通りである。
①感情のコントロールが利いている
②物事を共有する
③アンコントーラブルを受け入れる

おそらく、私は高校生たちと少しだけ目線が違い、どちらかというと属性というよりも「成熟する」という意味で「大人である」ということを使っている。この「成熟する」ことを想像するベースイメージは、「穏やかでいること」だと思う。

とはいえ、「穏やかでいること」がイコール「大人」であるということは、私もしっくりこない。また、①~③の特徴に当てはまることは「大人」だろうか?単に「特徴」ということであり、どちらかというと「行動」の側面が強い。また、厄介なことにどの特徴も実は、強制的に行わせることもできる。「大人」であることは押し付けられることもできてしまうのかもしれない。

しかし、「大人になる」のは、もう少し自発的な感覚があるはずである。が、自覚的に、意識的に、「はい、ぼくこの瞬間からオトナね!」といって、「大人」なれるものでもない。どちらかというと「大人」に「いつの間にか」なっているものであろう。その瞬間は思いもよらぬ時に来るものであるし、100人いれば100通りの「なった瞬間」があるはずである。そうすると、「大人」像については、いきなり他者との共通なものを探るのが困難と判断し、自分が「大人」になったなぁと思った瞬間を考えることにした。

◇大人になったと感じた瞬間
「大人」にしかできないとされていることをしたときだろうか?「子供」から「大人」にシフトすることが「大人」であるというのなら、「子供のときにできなかったことを実現したとき」は大きなヒントになりそうである。

例えば、お酒を飲んだとき?
車の運転をしたとき?
給料をもらったとき?
初めてセックスをしたとき?

しかし、そのどの体験も私にとっては、「大人」になったという実感を生じさせるものではなかった。それらは、ただたんに「初体験」の枠組みであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。どれもこれも「大人」でなくてもできてしまうものである。「子供」がしてはいけないと禁止するのは社会的なルールなだけであり、物理的に「できない」ものではないことも、その実感が薄い要因なのだろう。

「禁止されていたことを実現したとき」が「大人」になったと感じるだろう、という予想に反して、

私の中で強く実感した思い出は、「おかげさまで」という言葉を違和感なく心から言えた瞬間であった。

社会に出て、いろいろな人と関わって、謙遜でも卑下でもなく、コミュニケーションの作法としてではなく「おかげさまで」という言葉が輪郭をもって、重さをもって使えた時に、私は自分が「大人」になったという感覚をもった。

お世話になっている人に「最近も頑張ってるね」とねぎらいの言葉をもらったときだった。「おかげさまで」という言葉が自然に、しっくりと、「自分から生まれた言葉」として湧き出てきたのだ。

◇社会的な「成熟」が人間には必要である
こんな面倒くさいことを考えなくとも、生物学的に考えれば「成熟=大人」は「生殖可能かどうか」で決めればいい。なので、第二次性徴を遂げて女性だったら生理が、男性だったら精通すれば「物理的身体(Physical)」には「大人」と言ってもいい。

しかし、その基準を当てはめても、多くの人は現在社会では実感がわかないだろう(15歳が元服であった時代は、おそらく今よりもそのイメージはつきやすいかもしれないが)。「物理的身体」の特徴だけでは、「大人」ということがはばかられるのだ。他の動物になったことがないからわからないが、おそらく殊に人間だけが「大人ってなんだ?」なんて面倒くさいことを考えるのだろう。

なぜなら、人間には「社会的身体(Social)」もあるからだろう。ここでいう「社会的」とは「他者からの目線によって規定されるもの」という意味で使っている(詳しくはいつか述べたい)。実体はないが、虚像というには実際の「現象」として生じえる「物理的」とは違った「身体」。嫌なことを言われたら「イタタタ」と身体がチリチリするし、嬉しいことがあれば身体の「熱量」は上がる。その「身体」は状況ごとにスイッチし、使い分けられている。人間は生きていく上で、心理学的用語の「ペルソナ」に代表される「人格」を作り上げているというよりは、それぞれに応じて「身体」を作り上げていると私は考えている。

他の生き物よりも「社会的」な性質が強く、2種類の「身体」をもつ人間は、「物理的身体」の成熟である生殖可能になることだけでなく、「社会的身体」の「成熟」も「大人」の基準になるのだろう(「物理的身体」に即していえば「社会的に生殖可能(与えあうことで新しいものを作ることができる)」になったときを「成熟」というのかもしれない)。

◇関係性の中にいる
そうなると、「おかげさまで」が自然に言えた私がなぜ「大人」を実感したのかが少しわかってくる。「おかげさまで」はまさに「他者からの目線」を自覚し、自分のものにしたときにはじめて自然に使える言葉だからである。それまでの「何かを与えてもらってばかり」の立場ではなく、「何かを贈る立場」に立って初めて、「贈られていたもの」に気づける。この経験が積みあがらない限り、いつまでたっても「他者からの目線」は手に入らず、「自分からの目線」でしか物事を測ることができない。

「他人の目を気にする」のとは少し違う。「目を気にする」のは最終的に自分自身に焦点があっている。「どう思われるだろうか(嫌なやつだと思われたくない、かっこいいと思われたい・・・)?」が最終的に中心に置かれている。

しかし、ここでいう「大人になる」イコール「社会的成熟」とはすなわち、「他者からの目線」を内包して自らの立つことができることなのだ。だから、「自己と他者の関係性」に中心が置かれている。「場」そのものが主体として感じられるようになることなのではないだろうか。

逆に言えば、「関係性」に埋没しやすくなるということでもあり、既存の体系や考え方に知らず知らずのうちに安住してしまいやすくなる、ということでもある。

1年続いた高校生との「てつがくカフェ」も、「おかげさまで」続いた。私が呼びかけたのは基本的に初回だけ。あとは、折々のタイミングで「集まって話したい」という声があがり、それぞれが応えていった結果が積みあがった。メンバー全員がそろわないこともあったが、その場にいなくても、まるでその椅子に座っているかのようにお互いの存在を大事にしあっていた。

出会えたこと、対話ができたこと、本当に感謝している。

「おかげさまで」。

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