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夢を諦める資格さえなくても

2021年のクリスマスイブの昼に僕は映画『フラッシュダンス』を観た。

映画はシンプルなストーリーで夢を諦めない事とそれ以上に夢を叶えることには、前に一歩踏み出す勇気が必要だという内容だった。私にはそう感じた。

私には結婚して7年になる妻がいる。イブの今日もフルタイムで働いている。商社の経営企画部なので責任がとても重たい。彼女は30代前半なのでそろそろ30の壁にぶつかってるだろう。私は30の壁は苦しみながら通過してる、もう40手前だ。

いい大人である私が昼間から30年以上前の映画を観てるのには理由がある。

私は持病の統合失調症の療養で働けないのだ。本当は働きたいのだ。しかし病状が悪くて働けない。

統合失調症の陰性症状の1つに集中力散漫というのがある。集中力が低下するのだ。だから私は90分のフラッシュダンスを見るのに7回休憩している。途中で一時停止してスマホを見たりタバコを吸いに行ったりして観終わった。ネタバレしたくないのでラストは書かないが「よく、頑張ったね」と涙が出る作品だった。観客を泣かせたらそれは監督の勝ちである。素晴らしい映画であることに間違いないだろう。


夢がなかった。

フラッシュダンスの主人公アレックスのように憧れて情熱をパッションを込めてひたすら打ち込む夢が私には小さい頃からなかった。

小学生、3年生くらいから私は塾に通っていた。高学年になると学校が終わったら、ほぼ毎日塾に行っていた。そして私の目標である私立の中学校には合格した。

中学に入り、校長に全体集会で言われたのは「夢を持ちなさい」だった。

周りは医者になる!
弁護士になる!
官僚になる!

とまだ12歳なのに既に志を持ってる優秀な人たちだった。

でも、私には夢がなかった。



なりたいもの?

具体的イメージがなかった。


じゃあ、好きなことは?

なかった。


私の家庭は父親が全ての遊ぶ事を禁じていた。プラモデル、アニメ、ゲームは全て禁止だった。私に唯一許された遊びは読書だった。

読書ならどれだけしてもいいと言われたので近所の公民館の図書室の本を物心つくころには全部読んだ。お陰で中学受験でも大学受験でも国語は全く問題なく高得点だった。ついでに言うと国語の教員免許も取得した。そろそろ期限は切れるだろうが。

先生になりたかったのか?どうだろう。複雑だ。ただ学習塾のアルバイトも4年間続いたので子供に勉強を教えるのは好きだと思われる。時に彼らの悩みに共感し励まし、優しく受け入れる。私は子ども達に勉強ではなく今が大切だと教えたかった。

それは、私が受験や統合失調症の発病で学生生活を満喫出来なかった後悔というのがあったからだ。恋愛相談を中学生の子に相談されたら、勇気を出して告白しろと背中を押してあげた。相手が自分のことをどう思ってるのかなどわからないのだ。前に進むには振られる怖さを怖れないで勇気を出して告白することが大切なんだと教えた。それは私も実体験で告白する勇気がどれだけ必要かわかっているからだった。

塾講師もやりたい仕事だったかと言われたらそうでもない。ただ自分は中学受験経験者なので自分に適切だろうと合理的に考えてやっていただけだから。ただ生徒の笑顔は一生忘れられない。

本題に戻る。
私は夢がなかった。将来なりたい職業?
確か中学の頃に自分の夢を語る授業の時僕は青年海外協力隊として貧しい国の医療に貢献したいと言った覚えがある。しかし、これは本音ではなかった。夢がない為に思いついた事を言った。

父親のエゴで勉強のみを押し付けられた起因が恐らく私にはある。両親は私を知力でしか評価してくれなかった。

私は恐らくHSPであり自己愛性人格障害の過敏型である。あまり人に強く自分の事を主張する事はできない。調和を大切にする性格だ。わかりやすく言うとゲーム、ドラゴンクエストで職業何になりたいか?と質問されたら僧侶になりたかった。前線で戦ってる仲間の為に後衛からサポートしたいと思っていた。

それは私が競争社会の敗北者だからだ。
両親に意見をしたり文句を言うと父親に血が出るまで殴られた。私は6歳くらいの非力な子どもである。母親はそんな私を放置していた。暴力で支配する父親が怖かったのであろう。そのうち、私は暴力が恐ろしくて父以外にも誰にも言いたいことや本音が言えない性格になった。

統合失調症やHSP、自己愛性人格障害過敏型はこの養育環境にあったからかもしれない。

「勉強のためのものならなんでも買ってやる。ただし遊びの物は一切買わない」

父親にこの言葉を宣告された時の幼少期の私は絶望しかなかった。

その結果、私は高校生で壊れた。
精神科に7ヶ月入院した後、父親は私が欲しがってたゲームやパソコンなんでも買ってくれた。

でも、もうその頃には手遅れだった。私は今更ゲームなんて与えられてもと父親に怒鳴り散らしテレビにゲーム機を投げつけどちらもメチャクチャに破壊した。父は黙り込み母は私を恐れるようになった。私たちの家族はそれから、さらに家族として機能しなくなっていった。

病前でも夢がなかったが病後も夢がなかった。病前は多分、自分は適当に早稲田や慶応あたりに行って大学で遊びサラリーマンにでもなってたかなぁと思っていた。それか唯一の当時の私の娯楽であるラジオ。親に隠れて楽しめる物は祖母の入院時代の遺品である携帯ラジオしかなかった。

ラジオは楽しかった。毎日部屋に閉じこもりラジオを聴いていた。私にはラジオしかなかったから。

だからラジオ局で働いている自分も想像している。どうだろうか。体力勝負の仕事でその割に給料も悪い。でもやりがいはかなりあっただろうと思った。

色々な事があったが結局、私は芸術大学の文芸学科を選んだ。文芸学が文学と違う点は文学は文学を研究する学問であり、文芸学は本を書くことを目的とする学問であった。

と言っても文芸学科で創作活動をしてる人はわずかだった。本当に小説家になりたい人は出版社に自分で持ち込みをしたり賞レースに応募するはずだ。そして私は初めての大学での少人数ゼミで周りの学生の圧倒的な文章力に驚愕した。

私は小論文を書くのは得意である。なぜなら高校時代小論文の授業で鍛えられたから。でも文芸学科の子たちは創作で勝てないと思った。

小説家になるために文芸学科に入ったのに文芸学科に入ったことで自分の文才のなさに気づいたのだ。

本当はこういう人生じゃなくて自分の夢の為に邁進したかった。しかし何をするのも両親に頭ごなしに否定されて、私は無気力になっていたかもしれない。

では今は何をしてるかと言うと商社で事務をやっている。それが私のなりたかった職業か問われれば自信を持って違うと答えるが私は商社の総合職の事務補助をしてる。

仕事が充実してるかと言われたらわからない。ただ目の前にある仕事を言われた通り納期にすませるだけだ。

色んな夢を持って挫折するかもしれない。むしろ世の中には挫折してる人の方が多いだろう。

ただ障害を持ってると夢は限定される。
私の場合は何かに夢中になって打ち込み達成したい夢というのが幼少期からなかった。

夢がないから夢を諦める資格すらなかった。

でも、まだ間に合うのではないだろうかと40手前で思うようになってきた。

最近の私は経済的幸福を放棄した。お金による幸せを手放した。もともと競争社会に疲れたのもあるし、もう充分頑張ったと自分を労る事ができるようになってきた。

だから私の残りの人生は私が本当にやりたい事をやればいいと思っている。胸に秘めたやりたい事、小さな夢を少しづつ達成しようと。だから、私は長年やりたかったカメラやYouTubeの動画配信を始めた。

コツコツやってたらチャンネル登録者数も4000人を越えてきた。カメラも上達した。


こんな素敵な満月や
こんな美しい紅葉を撮れるようになった

まだまだ初学者だがカメラは楽しい。YouTubeも投稿した動画で感謝されるととても嬉しい。今ダイエットをしていて全盛期に比べて15kg痩せた。みんなに痩せたと言われこれまた嬉しい。常連の喫茶店を見つけてそこで他愛のない会話をママさんとするのも楽しい。

経済的な幸福を捨て、精神的な幸福を求めた結果、自分に今現在出来る小さな夢を少しづつ継続すればいつか蕾が開いて花になるかもしれないと思った。もしかしたらこのnoteのエッセイも書き溜めたら何かになるかもしれない。

岡村孝子さんの『夢をあきらめないで』と言う歌がある

夢のなかった私は感傷的な時にいつも自分の夢とはなんだったのか嘆いて泣いていた。

でも夢はいくつになっても作ればいいのだ。過去の自分なんて全部捨ててしまえ。

新しい夢を追いかけるんだ。
夢は自分で作るもんなんだ。

2021年の12月24日のクリスマス・イブ。
私は妻の帰りを待ちながらこのnoteを書き終える。ちなみに今の夢は学生時代の頃まで体重を落としダイエットをして、ずっとしてなかったコンタクトレンズを久しぶりにして変身することである。

それで何かどうなる訳ではないが学生時代のスタイルに戻りたいなと単純に思ったのだ。フラッシュダンスのような大きな夢ではないが夢に大きい小さいはないのだ。

今日は私のミスでクリスマスだと言うのに買い置きでもつ鍋を食べることになる……。でもケーキも買ったしサプライズのプレゼントもありこの日をずっと待っていた。後は妻の帰りの連絡を待つだけである。

メリー・クリスマス。
これを読んでる皆さんの夢が叶いますように。心から祈ります。

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