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私は鬼軍曹に愛されていた

隠す必要も、もうないだろう。
私は今、障害者雇用で働いており、持病の統合失調症で休む事がしばしばある。

今、現在治療で静養中だ。今日は体調も悪く家でじっとすることにした。お昼寝ができたら常連の喫茶店にでも行きたいけど。

私の生産性はかなり低い。ただ今の会社での頭の回転は私はかなり早い。みんなができない事を私はできる。イラレ、フォトショ、Web制作、ExcelマクロVBA、動画制作……。

うちの会社は総合職の営業マンばかりなので、このICTが得意な私は無双状態である。ちょっとExcelのマクロを組むだけでパソコンがわからない社員さんは大喜びする。そして感謝もする。まぁその時だけなのだが。

私は偏差値の高い高校にいた。
冒頭でも書いたが隠す必要もない。
私はラ・サール高校を卒業した。滑り止めで受けた早稲田も東大じゃないから合格しても蹴った。それぐらい東大に固執していた。

全国区の進学校などそんなもんだ。東大に行くか国立の医学部に行くか。

この私が卒業したラ・サール高校は私の一生背負い続ける重しとなりカルマとなっている。私はエリートの脱落者としての苦しみを一生持つことになる。統合失調症になったことで。

大学はだからあえて芸術大学を選んだ。
エリートを量産する高校だから、その真似をしたら価値が低く生き残れないので、私は地頭の良さでなく芸術の道に行く選択が私の価値を上げるはずだと考えた。 

この策略は上手くいき、クリエイティブ職の真似事は大学でできるようになっていた。 

身の上話はこれくらいにしよう。ラ・サールという事をあまり誇張しなくても人は噂話が好きなのでみんなに知れ渡ってしまう。私にとっては悲しい話だ。このカルマを脱ぎ捨てられるなら脱ぎ捨てたい。落ちこぼれのエリートはそんなものなのだ。

私が2回目の入院をした時。
当時高校3年生の始めだった。

私は統合失調症で入院してるので2回目の高校2年生を終えた時だった。

統合失調症を抱えながら授業についていくのは死にものぐるいだった。

ストレスは半端なくとうとう私はまた壊れた。

2回目の入院を終えて7月に学校に行ったら衝撃を受けた。授業のレベルが修復出来ないほど高レベルになっていた。私の高校は1日でも休むと進度が速すぎて追いつくのに苦しい学校だった。3ヶ月入院したブランクは手遅れのレベルではなかった。

私はその時、もう落胆というか諦めてしまった。授業について行くのはもう無理だと。

そして定期テストを受けた。
東大の過去問だらけである。

白紙の解答用紙の裏に私はブルーハーツの『ロクデナシ』の一節を書いた。

「役立たずと罵られて、最低と人に言われて…死んじまえと言われて、このバカと言われて…」

テストは返却された。0点だった。
ただ数学のN先生だけは違った。私の落書きを見つけて赤ペンで殴り書きのような熱い想いを書いてくれていた。

それを読む勇気はもう私にはなくなっていた。今でも内容は覚えていない。

『劣等生で充分だ。はみ出しもので構わない』と書いてる所に大きく赤ペンでバツ印つけられていたことだけ覚えている。

その日から私は保健室通学となった。
学校まで母の運転する車で通学して隠れるように保健室に行く。

保健室に着いたら定位置の1番奥のベッドで寝ていた。お昼休み、母が作ったお弁当を食べまた寝て、早目に母に来てもらい家に帰る生活だった。

家に帰ったら枯れるまで涙を流し泣いていた。

なんの為に小学校から遊ばず勉強ばかりしてたのだろうか。

私のアイディンティティはそこで崩壊した。

私は動けなくなってきた。夜7時代に見るテレビのバラエティだけが唯一の楽しみだった。

数学のN先生はラ・サールを象徴する先生だった。授業は定理を簡単に教えて後は先生が黒板に解答欄の線を引いていき。10人程板書する。予習が前提なのだ。

問題集のレベルは上がり難しい問題が予習でわからなく板書できない時は人格を否定するほど怒られた。N先生は竹の棒をいつも持ち答えを間違えた生徒をみんなの前で叱り棒で叩きまくった。

みなさんが通った中高時代の数学はどんな授業かは知らないが、私たちはこの数学はこれが日常で普通だった。

恐怖を感じながら授業に望んでた。N先生が授業開始までに教室に入ってくる静寂は生徒がみな緊張で独特の空気が流れていた。

私は中学の頃、ラ・サールでも劣等生だった。何度も先生に怒られたし転校も進められた。点数が悪いため両親も私を叱り、学校も家も私の安心する場所はなかった。

当時私の精神を支えていたのはゲームセンターだった。

今でこそゲーセンは廃れてるが、当時は格ゲー全盛期でいろいろなゲームがゲーセンでは遊べた。スマホゲーが主流じゃない当時は家でプレステをするかゲーセンに行かなければゲームは出来なかった。

私の父親は私がゲーム機が欲しいと言う度に私を罵倒し殴り続けていた。幼い私は殴られる度に泣いた。母親はただ見てるだけで放置していた。暴力で支配する父親が怖かったのだろう。

次第に家庭用ゲームに関しては諦めるようになった。父親のゲーム禁止の理由は頭が悪くなるからだった。それを聞いて、……悲しかった。ゲームなどおもちゃである。私は幼少期からプラモデルなどおもちゃを買ってもらえず習い事や勉強ばかりの日々だった。

なのでラ・サールに行ったことで躓き成績が悪くなる中で居場所はゲーセンしかなかった。

話を少し戻そう。
高校でテストの成績が最下位に始なった時、初めて両親がテコ入れとして家庭教師の先生をつけてくれた。ラ・サールのOBで医学生の方だった。

素晴らしい先生だった。
私のやるべき事とやらなくていい事を論理的に説明し、時に厳しく時に優しく人間性が素晴らしく、そして嬉しいことに成績もみるみる上がり東大を狙える順位にまでなった。それまでの遅れを取り戻すために寝食を惜しんで勉強した。そしたら、また成績が上がるのである。先生も両親も家庭教師の先生も喜んだ。

そしてN先生も私の変化に気づきテスト返却の度に私を笑顔で褒めるようになった。

嬉しかった。

純粋に嬉しかった。もう誰にも殴られなくてすむと思うと安心した。

そこから私はおかしくなってきた。

成績を上げるには勉強量を増やせばいいだけなのである。遅れを取り戻すには時間が足りない。

そこで私は思いついた。

寝なければいいのだ。

寝る時間を勉強に当てればいいのだ。
その頃からおそらく発病していたのだろう。睡眠を取らず勉強してた私は突然壊れた。壊れた私はそのまま精神科閉鎖病棟の隔離室に入れられた。

これは1回目の入院の話である。

話を高校卒業に進める。
卒業式は出なかった。保健室登校では単位が足りなかったのだ。春休み、特別に足りない単位を担任の先生とマンツーマンで授業を受けて単位を取った。感謝以外の感情がない。

私の面倒を見てくれた先生が4人程いらっしゃり私は感謝した。1番私の事を大切にしてくれた恩師には38歳になった今でもお歳暮を送り続けている。

身の上話が長くなってしまったがここからが本題である。典型的なスパルタ進学校の話にちょっと読者さんが引いてないか心配であるが。

私の卒業は学校で会議になった。
私の卒業を認めない先生と私の卒業を認める先生二手に別れた。私を守ってくれた4人の先生が強く卒業する事を訴えてくれて私の卒業は認められ無事、卒業できることになった。

ただ、その会議のとき鬼軍曹のN先生は卒業に大反対だったらしい。後で聞いた時、憎しみが生まれた。アイディンティティが崩壊した僕にはもう1回高校3年生をできる余力はなかった。だから憎しんだ。

卒業後、高校時代の友達と会う機会があったのだが、みんな大学に入っても今だに夢の中にN先生が出ると話題になっていた。たいてい悪夢である(笑)それぐらい怖かったのだ。

時を経て私は38歳になった。
大学も出て就職もして結婚もした。
そして、色々な事を社会で習った。大人になってしまった。

そこで、突然だ。
意味がわからない。

突然解ったのだ。
理解したのだ。閃いたのだ。

20年前の私の卒業に反対したN先生は私の卒業を妨害したいのではなく、もう一度高校3年生をして東大の受験にチャレンジしてほしかったのではないか。その突然閃いた仮定は確信に変わっていった。特に私の数学の成績の上がり方は凄まじかったからだ。

なぜだからかは、分からない。
突然解ったのだ。

私は号泣した。

20年間、勘違いをしていたのだ。涙を流しながらN先生にまた会いたいと思った。書いてる今も涙が止まらない。

鬼軍曹のN先生は私を愛していたからテストの裏の落書きに叱咤激励を書き卒業に反対して受験をさせてあげたかったのだ。

なんで今、その事に気づいてしまったのだろう。それは私が大人になったからだろうか。

いつの日か必ず母校には行かなくてはならない。卒業以来僕は母校にも行ってないし先生方には会ってない。避けるしかなかった。

でも、いつか平日に先生方に会いに行かなくてはならない。同期はエリートの職種ばかりで私は時短のサラリーマンが惨めで行けなかったのだが行かなくてはならない。

そして。全ての先生方にありがとうございますと言わないといけない。

特にN先生には会わなくてはいけない。
ありがとうございますを言うために。

今日は天気も悪く、昨日薬を飲み忘れて体調が微妙だ。YouTubeを作れない日はnoteにこのようにエッセイを書いてる。エッセイを書くとスッキリするのだ。お昼ごはんの準備をしよう。懐かしい話を思い出してしまった。

前に進むためには過去を置いていかないといけないのだ。だから今日という日を大切にして、私は前に進む。前に進むしかないのだ。例えどんな境遇でも。

泣いていても。
感謝の気持ちで泣いていても。

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