オモテに見えているものの背景に、いったい何があるのかを想像してみる。
必要に迫られて、twitterとnoteをはじめて、1週間が経った。
立ち上げようとしているプロジェクト。協力してくださっている皆さんがSNSなどで、一緒になって盛りたててくれようとしている。一方、当事者一丁目一番地の自分は何の役にも立っていない。それがあまりに恥ずかしく、あまりに居心地が悪かった。
実は、役に立っていないことよりも、やれることをやっていないことが問題だったのだ。やれるかもしれないというのに、やっていない。そのことは自分が一番わかっている。偉そうに理想論を語っているだけ。それが会社がバラバラになった今となっても変わっていないとしたら、それだけはイヤだと思った。
自分の役割を全うできていないと、どうしても下を向きがちになる。下でなければ横を向いてしまう。まっすぐ向き合えない。チームメンバーに対して見せる顔がないのだ。そもそも、そんなスタイルは今津の好みでもない。
インテグラル社の佐山さんのことを思い出す。沖縄大学での講演で短時間とはいえ真剣に向き合っていただき、やりとりさせていただいた(とは言え、こちらは主催者でもなく、200人の聴衆のうちの1人でしかないわけだが)。生き様がその場にあらわれる。どれだけ高密度の時間をこれまで生きてきて、今もこれからも生きようとしているのか。
先日のnoteを見ていただいたのか、佐山さんからフィードバックをいただく。想像を絶する多忙さのなかで、こうして一つひとつに向き合っていらっしゃるのだと思うと、やはりそれの積み重ねこそが未来をつくり出すことを感じる。
かつての仲間と再会し、今再び活動をともにしている。佐山さんの講演の場には彼女も偶然参加している。不思議なことだと思うが、ご縁とはそういったものなのかもしれない。
その彼女がプロジェクトを始めるときに教えてくれたのが、The Brakethrough Company GO。GOの代表・三浦さんのことが気になり、新著「言語化力」を一気に読み終えた。言葉は世界をつくる。響く言葉はいくつもあったが、底流に流れるのはロックンロール。人類愛。人間愛。
楽観は意思、悲観は感情
まだ始まってもいねえよ
答え合わせはまだ先
人が変われるという事実こそが、人間にとって最大の希望だ
魂に響いてくる言葉ってある。その裏にあるものが迫ってくる感じがする。
自分はどこまで自らの声に誠実に生きているだろうか。今ここで、自分がやるべきことはいくらだって見つけられるはずだ。それをとことんまでやりきっているだろうか。そして、その難しさを心底肌身に染みて知っていると言えるだろうか。
これまでは、やっている「つもり」だったのだ。恥ずかしいが、それも認めることにしよう。誰かがどうにかしてくれると思いたかったのだ。甘えたかったのだ。甘えていたのだ。
それを認め、今いるところから歩き始めようと思う。
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