神様が用意してくれた韻。

やほほーい。せぃが君です。
いわゆるVtuber活動をしています。
押韻党員に所属するラッパーでもあります。

先日新曲を出したばかりなので、よかったらよろしくね。

ところで、上記曲を聴いてもわかる通り、僕は韻が好きです。

そんな僕がよく使う表現のひとつに「神様が用意してくれた韻」というのがあります。

これは何かというと、音も踏めてて、意味でも響き合っていて、人智を超える超奇跡が起こっているとしか思えないスゴイ韻の組み合わせのことです。

以下、いくつか実例を出します。


炎天下⇔氷点下

炎天下だって、または氷点下だってさ 延々語ってちゃう まだまだハマってっちゃう

押韻の頃合い / 今和間田せぃが&山露そちゃ - YouTube

これは「炎天下」「氷点下」とで踏めている例です。

この綺麗に相反する状況を、この言葉のペアで踏めるのすごくないですか?

しかも、炎"天下"と氷"点下"は、その漢字も意味も来歴も全く異なります。にもかかわらず、結果的には綺麗に対称性を保ち、コンパクトに踏めている。まるで、韻の神様が踏むために用意してくれていたみたいに。

こういう時、僕は「神様が用意してくれた韻だ…」と日本語の奥深さに感嘆のため息を吐きたくなります。

こういうのは、ラッパーの功績というより、言語のすごさのように思います。少なくとも、自分の場合はそうです。だって、この韻はずっと昔からそこにあったわけですから。僕はディガーに過ぎません。ただただ、宝物みたいな韻を掘り当てられた自分の幸運に感謝する瞬間です。

他にも、いくつか例を出します。

先頭張るか⇔末となるか

韻のセントラル化の先頭張るか末となるか

【ラップ】The Skilled 押韻党員Remix / 今和間田せぃが&山露そちゃ - YouTube

ここでは「先頭張るか」「末となるか」で踏んでいるわけですが、これも結構神様の存在を感じる韻かなと思います。

最前線と最後尾を表す言葉で、こんなにシンプルに踏める言葉が用意されてるの、すごいと思いませんか?

ただ、これはちょっと自分のテクニックも入っちゃっているので、あくまで神様の存在が香るくらいかなと思います。「神様の用意した韻」というと、やっぱりワード単位で、未加工で、天然ものの方が純度は高いと思います。

とはいえ、もちろん例外もあります。
次は、ワードではなくセンテンスに対して神様を感じた韻を紹介します。

ちちんぷいぷいだぞ、フーディーニさん

人類はもっと踏んでいいのさ
ちちんぷいぷいだぞ、フーディーニさん

【ラップ】The Skilled 押韻党員Remix / 今和間田せぃが&山露そちゃ - YouTube

同じく、The Skilled Remixからの引用です。

この韻については、ちょっと説明が必要かと思います。

まず、この曲は餓鬼レンジャーYOSHI&LITTLE&FORK(敬称略)によるThe SkilledのRemix曲です(原曲最高なので、是非聴いてください)。そして、一行前の「人類はもっと踏んでいいのさ」はLITTLEの元バースを踏襲しています。つまり、原曲をリスペクトしたサンプリングということです。

つまり、この二行目は「元バースのサンプリングに対して、自分だったら何で踏むか」という場面ということです。

そして、「ちちんぷいぷいだぞ」「フーディーニさん」で踏めることに気付きました。

まず、「踏んでいいのさ」と「フーディーニさん」で同音踏みできること自体が既に熱い。人名でこんなに綺麗に踏める例は貴重です。かつ、それに呼応する韻として「ちちんぷいぷいだぞ」が踏める。超能力パフォーマーであるフーディーニさんにぴったりな韻です。

「だぞ」のコミカルさといい、「人類」⇔「ちちんぷいぷい」で音節を倍加して細かいドラムパターンの差を表現できている点も小憎い。

ちょっと今までとパターンが違うので、どれだけ共感いただけるかわかりませんが、「人類はもっと踏んでいいのさ」に対するアンサーとして、こんな韻が用意されていることに、すごく神様を感じたラインでした。

大憲章<マグナカルタ>⇔大満潮<アクアアルタ>

混じりけなしの交じり合いがマリッジしあいマスターマインド
まるでガチの大憲章<マグナカルタ> まさに韻の大満潮<アクアアルタ>

【ラップ】美音提示=韻 Vintage Wine / 今和間田せぃが&山露そちゃ #押韻党員 - YouTube

さて、これが最後の紹介です。

この記事を書いたきっかけでもあります。

つまり、今回の新曲で、また、しびれるような神様を感じる韻を掘り当てることに成功したということです。めっちゃうれしかったので、文章として残しておきたかったのでした。

◆混じりけなし⇔交じり合い⇔マリッジしあい


まず一行目は「混じりけなし」「交じり合い」「マリッジしあい」で踏んでいます。ここでは、ただ踏んでいるだけではなく、スプーナーリズム(もしくはアナグラム)という韻的なうまうま要素が登場しています。

特に「交じり合い」「マリッジしあい」です。

こんなに意味が響き合っていて、踏めていて、しかも「じ」と「り」での音交換まで網羅した韻がこの世にあるなんて。こんなん神様が用意してくれていたとしか思えない。「マリッジしあい」の「し」が「混じりけなし」の「し」と響き合っているのも、ポイント高いです。

◆大憲章<マグナカルタ>⇔大満潮<アクアアルタ>


そして、なにより「大憲章<マグナカルタ>」「大満潮<アクアアルタ>」です。

マグナカルタは、イギリスの由緒ある憲章のひとつです。ゲームのタイトルになったこともあるので、言葉だけ聞いたことがあるかたも多いかもしれません。アクアアルタは、イタリア等の地中海で見られる特異な高潮現象を指します。

まず、ヴィンテージワインというタイトルの曲で、ヨーロッパ合わせのワードで全踏みできている時点で熱いです。かつ、このverseは全体として海をテーマにしているので、大航海時代を牽引した島国のイギリスのワードと、地中海の高潮現象で踏めているのも、ポイントが高い。

なにより白眉なのは、このそれぞれのワードが、音としてのマグナカルタ/アクアアルタで全踏みしつつ、和訳である大憲章/大満潮でも踏んでいることです。めちゃめちゃすごくないですか? この事実に気付いた時の僕の感動たるやありませんでした。

こういうワードは、探してもなかなかないと思います。造語すれば、まだ難易度は下がると思いますが、天然ものは稀有中の稀有だと思います。また次いつ出会えることか。もう一生ないかも? でも、今はこの韻をディグれた幸せでいっぱいです。

というわけで、「神様の用意した韻」のお話でした。

神様というとあやしいですが、自分の場合、「この韻は自分の功績ではない」「もっと言語レベルの何か」「誰かが韻に配慮して置いておいたとしか思えない」みたいな時に、神様を感じることが多いみたいです。まったく日本語の奥深さには底という底がありません。皆さんは、韻を踏んでいて、こういうご経験ありますか?

せぃが君でした。
ではでは。またね。



↓以下、余談








余談: 義訓

ところで、こういう漢字の文字等に、全く別の音を当てる日本語表現を義訓(当て字)といいます。いわゆる伸縮自在の愛<バンジーガム>みたいなやつです。日本人にとっては、なじみ深い表現方法ですね。

この義訓の文化を持つ国は、世界中で日本だけなのだそうです。

中国のピンインなど、細かく探すと似た表現はあるのですが、ここまで普段使いレベルで浸透している国は、日本くらいです。そもそもルビ文化を持つ言語が稀有だし、義訓やルビ文化が形成されるには、表意文字(漢字)と表音文字(ひらがなカタカナ)を混在して使用する言語である必要があるため、この前提条件をクリアする変態的な言語が日本語くらいしかないということだと思います。(ちなみに、英語圏だとこの日本語独特の義訓文化のことを「phonetic equivalent」などというそうです。日本独自の文化なので、たとえば日本産のアニメを英訳する時に、翻訳者が頭を悩ませる点のひとつです。NETFRIXの苦労がうかがえます)

つまり、この韻は日本語でしか踏めないということです。THE 日本語ラップならではの魅力というかんじで、こういうのよいですね。

余談2: 日本で義訓が定着した理由

義訓という文化は、遡ると万葉集の頃には既に使われていたようです。たとえば「暖」と書いて「はる」と読ませたり、「寒」と書いて「ふゆ」と読ませるような例がありました。

もっとも、万葉集の頃は、今よりもずっと漢字の使い方が自由だったので、「万葉集で義訓が使われていた」というよりは、「万葉集等で使われている漢字の読みのうち、その後正式採用として残らなかったものが、現代人から見ると義訓に見える」といった方が正しいかもしれません。

こういった義訓文化は、江戸時代にも見られました。江戸時代の日本では、世界でも有数の印刷文化が花開いていましたから、それも当然かもしれません。具体的な事例まで調べきれなかったのですが、いわゆる滑稽本などで使われていたのかなぁと想像します。

ただ、万葉集の頃、江戸時代にも義訓が存在したとしても、本格的に文化として定着したのは、活版印刷が普及する明治以降のことになります。これはルビ文化の定着とニアリーイコールです。

その中でも、義訓は、言文一致運動や外来語の定着手段として活躍しました。たとえば「接吻」という言葉に「キッス」というルビが振られていれば、英語としての意味がわからなくても「ああ、キッスというのは、つまり口吸いのことか~」と通じたということです。そうやって、義訓は、外来語をわかりやすく伝える手段として、重宝されたわけです。

この義訓表現は、更に当時の日本文学を支えた文豪たちによって拡大解釈されていきました。たとえば、二葉亭四迷、夏目漱石、森鴎外など。つまり、自分の小説表現をより豊かにするため、熟語に本来以上の含意を込めたということです(もしくは、単純に新しいことがしたかったとか)。「浮雲」を例にとると、たとえば「嫣然」と書いて「うっとり」と読ませたりしました。ここまでくると、もうほとんど現代の義訓の使い方と変わりませんね。

以上、僕の調べた限りでの義訓の歴史、余談でした。
ではでは。今度こそまたね。

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