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大晦日に エレジーかよ。

て書きながら、年を越してしまうかもしれない。

いいじゃないですか、エレジーを歌おうよ。

やっぱり今年の気分はなんぼ強がり言うても、エレジーかな。
地球がコロナウイルスにすっぽり覆われてしまい、辛いことゴロゴロでした。よね。
こんな時にこそ時代が大きく動き、価値観が転換するのだ、あえて希望の歌を! 
といっても、街にも空にも海にも山にも、流れているのは悲歌、哀歌、挽歌ですね。

いいじゃないですか。憂鬱なときにはエレジーで。それは哀しいときの癒しなんだから、慰めなんだから。歌いましょうよ、エレジーをね。

エレジーというと、愛は愛とてなんになる〜、あがた森男の「赤色エレジー」ですかね。
もう知らん人多いかな〜。子供の頃、あの暗さが怖かったな。
オンボロボロロ〜、北原ミレイの「石狩挽歌」もあったな。
近江俊朗の「湯の町エレジー」は、ないわな、さすがに。
菅田将暉でも、平井堅でも、ありです。エレジー。僕は知らんけど。

「ヒルビリー・エレジー」と(オバマ)「ファイナル・イヤー」

この間、「ヒルビリー・エレジー」という映画を見たんですね。喉がヒリヒリするような映画でもなかったけど、切なかった。
「ヒルビリー」はもともと「山に住む白人、田舎者」みたいな意味で、僕の若い頃は、ヒルビリーというと、アパラチア山脈に響き渡るアメリカンカントリーソングが浮かんだもんです。アパラチアは感じでね。どこかといわれても知らんがな。
でも今は、「ヒルビリー」は、ハンク・ウイリアムスやビル・モンローではなく、田舎で食い詰めて都会へ流れてきた負け犬の白人を表す言葉に成り果ててしまった。

「ヒルビリー・エレジー」は、そう、錆びついた工業地帯、ラストベルトに豊かさから取り残されたどうしようもないアメリカの白人を象徴する映画でした。 
トランプがなんで凄まじい人気があるのか、それを理解するにはいい映画かも知れないし、また有色人種のことに触れずに白人だけを時代の被害者にしているなどの意見もあるようですが、この映画を見ている間、そんなことは脳裏をかすめもしなかった。

いい映画でした。それでも生きているよ、どうせなんとかしていくさ、みたいな魂の継承を、たとえば、ばあちゃん、じいちゃんから受けるような。生命のリアリズムが染み渡るみたいな。

むしろ切なかったのは、直後に見た「ファイナル・イヤー 政権最後の一年」。
オバマ大統領とその外交チームが、最後の1年間、自らの理想に燃えて世界中を駆け巡る姿を追いかけたドキュメンタリー映画です。そして実に颯爽としたかっこいいオバマ政権の人々を描きながら、同時にヒラリーVS トランプの大統領選挙戦を重低音のように響かせるのです。そして最後は想像だにしない敗戦。
呆然とするエリートたちの姿に、観たばかりのヒルビリーたちが重なってしまった。

いまの世界も。
日本も。
重なる。

そういえば、Netflixで、年末観た映画に「アポロ13号」、「EIGHT DAYS A WEEK」がある。「ヒルビリー・エレジー」も含めて、監督はみんなロン・ハワードなんでした。Netflixでなにを観るか、いつも新橋の地下街でランチになにを食べるかぐらいめちゃくちゃ迷うのだけれど、結果的に同じ監督だった。気が合いますね。

古墳の上でワシも考えた。

それにしても大晦日だ。
どうしたって、2020年がもうすぐ終わる。

考えてみれば今年はこれまで考えないことを考え、よく学んだ。歴史についても今までになく学んだ。行った、観た、読んだ、話した。
過去を掘り下げること、過去と対話することが、今と未来につながっている。
そのことが、そうであるはずだという理論ではなく、思想として身体の中に棲みつくようになった気がする。

アイヌの人たちが神と先祖と自然に祈る意味もまさにそういうことなのだと、古墳の上でワシも考え、ひとりうなづいたのだ。

ところで僕はもう何十年も大晦日にやっていることがあるのだ。
ひとつはテールスープをつくること。


もうひとつは、部屋にこもって、ベートーベンを聴くこと。
演目は毎年同じ。
ピアノソナタ31番と32番、
そして「第九」。

なんや、エレジーちゃうやん!! 

歓喜の歌で今年もしめさせていただきます。

<塚原古墳公園にて>

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