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人のことなんてわかる筈もないから先ず自分のことを考えてみよう

ぼくは他人のことなんて何ひとつ分かることはない。今年に入って、そう強く感じるようになった。

元々人のことなんてわかった試しはない。小さい頃も、いつの間にか周りが変な空気になっていたり、輪から外されたりしたことがあった。人のことが分からなすぎて、心理学を勉強すべく大学の志望学科を選んだくらいだ。でも、知らず知らずのうちに、人のことを「わかった」気になっていたんだと気付かされた。

大学を卒業し、社会人というカテゴリーになってからもう10年以上経つ。新卒で入社してから2度ほど転職もし、今では個人事業主だ。友人や知人、業務やそれ以外で知り合う方など、深浅問わずたくさんの人と関わってきた。

話の合う合わないとか、テンションの合う合わないとか、それこそ千差万別だ。でも、例えば仕事で付き合う場合なんかだと、向かう方向が重なっていたりすれば、結構話はスムーズに進むことが多い。興味・関心が重なるときなんかは、ともすれば旧知の中のように盛り上がっちゃったりすることさえある。

こういう時は楽しいものである。相手のことを「いい人だな」とか思ったりするし、双方ノってるから、多少の違和感だの相違だの、そういったものには目を向けたりはあまりしない。そして、そんなアゲっぽい時って相手との合意形成も容易い。すると「わかってくれた」なんて思っちゃったりもする。

そしてぼくの場合、過去を振り返ってみると、こういったところから仕事の話だったり人間関係だったりが始まったりすることが多かったように思う。だから、別の局面になると、途端に相手の振る舞いや人格が変わったように感じたりする。それが今年は既に幾つか起きている。

例えば頂戴していたお仕事の経済環境が厳しくなった時。自分なりに真摯にコミュニケーションをとったつもりが、逆に相手の逆鱗に触れてしまった。

例えば仕事で関わりのある方が大変な状況にあると聞き、サポートしていた時。相手の言い分を信用して助けになろうと動いていたが、最後の最後で連絡が途絶え、嘘でしょって思うようなアクションを起こされてしまった。

これが結構悲しかった。「俺これまで結構頑張ってきたのになんで言われもないことでキレられるんだ」とか、「こんだけ話聞いたのに結局自分だけ良ければいいのかよ」とか色々思ったりした。で、ふと我に返り、それはぼくが勝手に相手に自分の思考回路を投影しようとしていただけなのではないかと気がついた。

物事が調子よく進んでいる時、大抵関わる人は笑顔だったりするし、前向きな合意形成もスムーズになされる。でもそんなの、精精興味関心の重なるところでやりとりが成立したというだけだ。そんな些細なやりとりを縁に「わかりあえている」とか「伝わっている」とか思ってしまうのは「期待」であって、それを投影し続けていたから、あるとき相手の言動との間に致命的なギャップが生じたんじゃないか。そう思ったのだ。

そもそも相手の人生を体験できるわけでもないし、どんな人なのかなんてわかりようもない。加えて自分の「期待」という色眼鏡である。結局見せられていたのは自分だったということか。

それならせめて、何を欲しているのか、何が好きで何が嫌いなのか、自分のスタンスくらいははっきりさせたいものだ。少なくとも、ぼくが喜べる人生には近づいていけそうな気がする。

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